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名前がなくても大丈夫 ––吉川いと花『ニア』より

吉川いと花さん『ニア(Near)』を読んだ。

「天高く、海の底。」「デイライト・シグナル」「澄《すみとおる》」の3編から成る短編集であり、3作を束ねてNearという表題がつけられている。

【near】(空間・時間的に)近く、接近して、ほとんど、まだまだ…でない
「~の近くに」という意だが、nearは常にfar(from)(遠くに)との関係で相対的に把握される

web辞書が言うには、とのことのようで。
しかしこの、「far fromとの関係で相対的に把握される」というほんの一言の説明が、めぐりめぐって作者いと花さんの思い、意図の端に行き着くようなヒントであるようにも思われる。

顔が似ているということをきっかけに関係してゆく高校生。両親の不在の時間だけ一緒に過ごす姉妹。同じ名前【澄】を持つ幼馴染。
だけども、同級生からは似ていると言われるが家族に言わせればそうでもない、どうやらドッペルゲンガーとまでは言えない。妹が毎年楽しみに家に迎える姉は母親の再婚相手の連れ子であり、血が繋がっているわけではない。同じ名前【澄】ではあるが呼びかけてみれば「すみ」と「とおる」。
みっつの短編はどれも「ふたり」を軸にまわる物語だが、その「ふたり」は三者三様、近い何かを共有しつつも少しずつ遠くに離れて生きている。離されている、と言うべきか。
そして彼らは、自分たちの物語の中で「彼(彼女)とわたしは違う生きものだ」と強く自覚し、それが寂しかったり、悲しかったり、いやでもそらそうやろと思ったり、する。

彼ら、彼女らの関係には、わたしは名前をつけられない。友達でも、姉妹でも、恋人でもないと思う。そういう、わたしたちがごく自然に「友達」とか「恋人」とか「きょうだい」とか名前をつけて理解している人間関係の、ちょうど行間に沈み込んだ部分にいる人びとを、いと花さんはそっと掬い上げている。
逆に言えば、「名前がつかない関係」が世界に存在してもいい、あなたとわたしでそのときどきに、かつ、常にオリジナルな関係を作っていけばいいし、それを誰に何を言われる筋合いもない。
それを、いと花さんはしずかに肯定しているのだと思う。

いと花さんの文章は、とてもやさしい。穏やかなまなざしがあって、日々の中にある小さな出来事を拾える注意深さがあって、ゆるくくだけたユーモアのある関西弁の会話にほっとする。(個人的な感覚ではあるが、いと花さんの書く関西弁はまごうことなき関西弁だというか、ネイティヴのそれという感じがする。わたしもふだんの生活では大阪の言葉でやり取りすることが多いが、いかんせん生まれは遠い雪国なので、どうしてもハイブリッドな使い方をしているように自分では思う。そういう、思考から発話までに通る「中継点」みたいなものがいと花さんの文章には無いなと思う。うらやましい。わたしももっと自在に関西弁使いたい、地元の言葉は汚いし汎用性がなさすぎるし)それは前作『ミツユメ』から引き継がれてきた、いと花さんのいと花さんによる表現だと思う。
だけど本作『ニア』においては、特に何がどうというか、具体的にどこがとははっきりと説明できないのだけど、「わたしは他の何にも侵されることなくわたしである」という、いと花さんの控えめながらもはっきりとした芯の部分に触れたような気がした。それは怒りに任せて、とか、不安に駆られて、とか、そういう感情に振り回されて出てきた主張ではなく、ただ毎日を生活するいと花さんの足元を支えている地面であり、何ものとも比べない「存在の肯定」だ。
それゆえに、ただ穏やかにやさしいだけではない、芯の通ったしなやかな文章が出来上がるのだろうと思う。

「遠い」があるからこそ相対的に「近い」を捉えることができる。
「遠い」がなくては「近い」も感じられない。
そして「遠い」と感じるからこそ「近づこう」と思える。
“near”は必ず前後に他の単語を必要とする。近づく先の、誰かが必要なのだ。

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