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20191207CALIGULA 今日の覚え書き

彼は誰より少年であり、誰よりも幼くて、誰よりも悲しんだ人であり、3時間に生涯の全てがあった。
3時間のうちに人間が心身に立ち起こす感情の全てが彼の体を貫いて、彼は時には黙り込み、姿を消し、天啓を受けて戻ってきて、3秒前には上機嫌だった顔がその5秒後には寒気を感じさせるほどの冷たい声で他者を圧倒的に否定する。奪い、罵り、足蹴にし、そうかと思えばくるくると表情を変えて自らを道化に貶める、平気で彼はこれをやる。感情に脈絡はない、必要がない、人間の死に意味がないのと同じように人間の感情の流れにも意味はない。感情の流れに「必然」とはどこにもない。恐怖のどん底にいて笑みが浮かぶ。言葉と感情は一致しない。人間はどうしても理由を求めてしまう、なぜ今、嬉しくて、怒っていて、悲しいのか。けれどそんな自己分析は根本的に、意味がない。
けれど私はカリギュラは、悲しんで悲しんで、世界の理を理解してなお悲しんで、反抗しながら受容する凄絶な二面性を行き来し、生きて、死んだ、ひとりの幼き王だったと思う。
彼は誰より少年であり誰よりも幼かった。彼の体は誰よりも細く、彼の肌は誰よりも白く、誰かの庇護なしには生きられないと思わせる危うさがあった。その危うさを強烈に保ちつつ、彼は自身の不可能へ、打ち破れないことを承知の上で挑んでいった。他者に、神に、世界に、この世界が自律的あるいは自然的に生み出した倫理やルールに、誰よりも危うい体が向かっていった。
彼はおよそ、予想の及ばないところで声を荒らげ、予想のつかないテンポと間を作り、それはどう見ても、「自然な」会話ではなかった。
戯曲『カリギュラ』には割に細かく台詞に入れ込む形で(激怒して)や(態度を変えて)などの指示が入っている。これを鵜呑みにしては、私は彼を全く捉えられないことに気づく。
彼は指示ではなく感覚で動く。瞬間瞬間、貫かれた感情を正直に生きる。身を切り裂いてでも生きる。もう生きていたくないと泣きながら強烈に生きる。

カリギュラは舞台の上でしか生きられない。カミュの書いたカリギュラは彼の目指す「不条理」の体現であり概念で、概念は概念でしかなく人の体につと乗り移り、人が概念を引き受けている時間だけ観客に現前する。概念は人の形をしていない。
カリギュラは舞台の上でしか生きられない。そして彼は舞台の上で、演じて生きた。生きた。3時間のうちに人間が生涯に思考できるだけのあらゆることを噛み砕き、ともすれば生涯気づかずに死んでいける可能性のあった感情も拾い上げ、均等に悲しんで、恐れて、生きた。


演劇は何か有用な情報や正しい命題を後世に残すための手段ではなく、美しいものがまたたくうちに消え去るという事況そのものに立ち会う経験のことだからである。 _1

部屋に帰ってこの文章をパソコンに打ち付けている私の頭に残っている数時間前の『カリギュラ』はもうすでに残像でしかない。舞台の上でしか生きられない人をこの部屋に持ち帰ってくることはできない。それがひどくさみしいし悲しいと思う。けれど演劇とはそういうものだ。全ては一回きりの体験で、劇場から一歩出た途端忘却へ向かって帰路につく。演劇には生活にはない煌めきがあり、誰もが「一瞬」に敏感になり、俳優の演技を目に焼き付けようとする。意識的に、人の動きや感情の流れを記憶しようとする、これは普段一切何も思わずに通過しているあらゆるものだ。そして普段意識的でいられないからこそ、忘れてしまう。もう、彼は残像でしかない。
もう残像だ、だけど認識をした、記憶は端からほつれていく、彼は過ぎ去っていく、彼の命の速さが誰の手からもすり抜けてしまう。行き先を決めなくても、どこへでも行ける。あらゆる人物が彼の体に濾過されていき、彼は彼らにまた世界を見せる。今、このときの世界を見せる。時間の概念を打ち消して、私は出会う。
そしてまた彼はふっと、いなくなってしまうのだろう。けれど残像が残像でもいられなくなり舞台装置や照明や俳優たちの表情やそして彼の一挙一動、一言一句を思い出せなくなったとしても、最後には純粋な、名付けようのない煌めきとして、私のどこかに残るのだろう。それを行える、それを人に与えられる「最良の俳優」についてアルベール・カミュは語る。

旅人と同じように、かれはなにものかを汲みつくし、とどまることなく経めぐっている。かれは時間の旅人であり、最良の俳優の場合についていえば、魂から魂へと先へ先へと駆り立てられるゆくようにして魂を経めぐる旅人である。 _2

私はカミュではない。カミュではないけれど、もしこの夜にカミュが立ち会っていてくれていたらと思わずにはいられない。だから勝手に、カミュの言葉をそのまま菅田将暉に贈りたい。あなたはこの文章に書かれていることそのものをやったんですよ、カミュが70年くらい前に書いたことを、あなたがそのまま、やってやったんですよと言いたい。それにもしカミュの幽霊が今夜客席に来ていたら、自分が書いたこの文章のことをきっと、きっと思い出したに違いないんだと強く言いたい。なんだ僕が書いたことじゃないかと、喜んでほしいのだ心から。

完全に他人を装うこと、自分のものではない生のなかにできるだけ深く入ってゆくこと、それが俳優の芸術なのだ。彼の努力の果てに、みずからは何ものでもなくなろうとする、というか幾人もの人間になろうとすることに全身全霊をあげて専念するという、俳優の真の天分が輝きでる。演ずべき人物を創造するための制約がきびしければきびしいほど、いっそう才能が必要になる。今日のかれの顔をしたまま、かれは舞台の上では三時間後には死んでゆくことになる。その三時間のあいだに、かれはある異常な運命をまるごと経験し、表現しなければならぬのだ。これは、自己を見失うことで自己を見いだそうとすることだ、といえよう。この三時間のあいだで、かれは、平土間の観客が全生涯をかけて辿る出口のない道の、究極の涯てまで行くのだ。_3


見た。今夜私は、『カリギュラ』を見たのだ。


*** *** ***
1. 内田樹「アルベール・カミュと演劇」 p177.(アルベール・カミュ『カリギュラ』、早川書房、2008年)
2.アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』、新潮社、1969年、p140.
3.Ibid, p141.

それからしばらく頭を冷やしてきちんと演出と作品を考えたもの↓



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