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2018/01/07 欲望という名の電車

「欲望」という名の電車に乗って、「墓場」という電車に乗りかえて、六つ目の角で降りる――「天国」というところで。

テネシー・ウィリアムズの名作戯曲『欲望という名の電車』にずっと憧れていた。きっかけは恩田陸『チョコレート・コスモス』という小説だった。クライマックスとなる最終オーディションのシーンにて使用されたのがこの戯曲のいちばんいいところ(とわたしは勝手に思っている)飾り立てまくった嘘をぼろぼろに剥がされ隠していた本当の「発狂」の足取りが少しずつ聞こえ始めたブランチと、さらに追い打ちをかけようとするミッチの対峙シーンなのである。このシーンをオーディション参加者が二人一組となり、オリジナルの即興演出で発表する。ここはもう恩田陸の発想力、想像力が遺憾なく発揮されていて、どのパターンの演出にも根拠がありそれぞれ魅力的に描写されていて、『欲望という名の電車』という戯曲そのものを知らなかったわたしの心に、その後ずっとこのタイトルが刻み込まれた。正直『チョコレート・コスモス』本編よりもこの『欲望という名の電車』の演出シーンだけが突出して記憶に深く残っているうえにその後もずっと心に残り続けたのは『欲望』の方なので、恩田陸に申し訳ないような、妙な気分。いやでも彼女がこの戯曲を小説で取り上げてくれなければ一生知らないままでいたかもしれないので、そこはやっぱり、恩田陸に感謝なのです。

昨年末からフィリップ・ブリーン演出、大竹しのぶ主演でこの『欲望という名の電車』が東京Bunkamuraで上演され、お慰み程度に年明けには3日間だけ大阪でも上演してくれるとの情報を得たので、チラシを見つけた瞬間に秒でローチケチャレンジ。2日目、夜の上演に行くこととした。
初めて入った森ノ宮ピロティホール、思っていたより古い劇場でロビーも狭く、客層もなんとなく年齢層高めのお金持ちの熟年夫妻、みたいな人たちが多かった。と言いつつ明らかに北村一輝推しかな…と思うような若い女性も多かった。若い女性すべてがそうだったかどうかは絶対そうではないと思うけれど。あ、綺麗な女性が多かった。

舞台美術。中央にステラとスタンリーの住む2部屋がわりとしっかり家具つきで作られている。部屋を隔てるのはカーテン1枚だけ、バスルーム完備、スタンリーのお酒が仕舞ってある戸棚完備。ただ、壁がない。外側は木枠だけで作られているので、部屋の後ろを誰かが通れば全部見える。それどころかこの2部屋、舞台に対して二回りくらい小さく作られているので余ったスペース、上手、下手、そして奥、ほぼ素舞台というか丸見えなんである。床置きの照明とか機材いろいろとか、見えちゃってるけどいいのかな。そわそわ。でもそれでいいらしい。部屋の外にいる人たちはむき出しの舞台の上を走り回っている。その、部屋の周りを走り回っている人たちをぼんやり見ていると劇場中央通路をなんだか全身白い格好の人が歩いてくる。遅れてきたお客さんかなと思ったら、大竹しのぶである。ブランチ! 電車の降り口そこなのね! 中央通路からそんなに離れていない席だったので、お顔がよく見えてよかった。登場したその瞬間からどこを見ているのかわからない不思議な目。

演出。わたしは比較対象としてエリア・カザン演出の映画版と原作しか持っていないのだけど、おそらく、オーソドックスというかめちゃくちゃ原作の意図を汲み取る形で作られたのだと思う。レジーテアターとかwerktreueとかの言葉めちゃくちゃ久しぶりに使いますけど絶対後者。プログラム読んだらいろんな役者さんがインタビューで「演出のフィリップはT.ウィリアムスオタク」と語っていて、やはりそうか…みたいな、もはや細かすぎて伝わらない選手権レベルまで掘り下げこだわった演出だったのではないだろうか。演劇とは本来そうあるべきなのかもしれないけれど、それこそ、今その台詞は何故そう思って出てくるの? 何故、今そこに足を置くの? と都度問われている。この台詞の意味するところは何なのか、徹底的に掘り返そうとする気概が伝わってくる。そういう演出のやり方がどうなのか、息苦しくはないのか、とわたしはつい思ってしまうけど、そもそも演劇なんだから、「自分」でいてはいけないのだよな。「誰かの尺度」で動かなくてはならない。自分の尺度を忘れてしまうくらいに。それは究極のところ、脚本を読み込んで、自分の動作を1から疑う、疑い続けてやっと手に入るものなのかもしれない。
それでもこの戯曲は人物の構成については結構誇張されたところがあるし、観客のわたしとは時代も人種も環境も違う。のでこの物語とわたしにはおおむねずっと一定の距離感があるし、戯曲と役者たちの間にもあるのだと思う。体に入れ込んだ「誰かの尺度」は自分にそっくりそのまま重ねようとするには土台、背景があまりに違う。それに「誰かの尺度」を咀嚼してどう身体にアウトプットするかを決めるのは結局「自分の尺度」であるわけで、その人「らしさ」というのはきちんと出るしそれが見たくて同じ戯曲でも違う役者の演技で何度でも観たくなるものなのだな。何が言いたいかというと、北村一輝が北村一輝らしくていいなあと思ったということです。もともと特徴的な話し方をされるので際立つ。そして、めちゃくちゃ脱ぐ。そう、脱ぐんですよ! まあ鍛えていらっしゃるその上半身! ファンじゃなくてもうっかりときめいてしまう。ありがとうございます、お金払って見る価値あるお体でした(拝)

この舞台、いちばん大きな声を出すのはスタンリーだと思っていた。後半ずっと怒っているし、初代スタンリーであるマーロン・ブランドの”Hey,Steeeeeeellaaaaaaaa!!!!!!!”の大絶叫は誰しも圧倒されてしまうのではないだろうか。わたしは映画版しか観たことがなかったけれど、白黒映像で、音もそこまで良いわけじゃないのにすさまじきド迫力。なのでこの舞台についても北村一輝版スタンリーの絶叫を期待していた。
のだが、映画版と戯曲とでは終わり方が違うのである。本来の戯曲では、精神病院の医師たちと一緒に家を去っていくブランチの背中に向けて妹ステラが大声で彼女の名前を呼ぶのだ。「ブランチ!」姉は振り返らない。「ブランチ!」ブランチはゆっくりと舞台から降り、登場時と同じ客席通路を通って、角を曲がって消えていく。
「ブランチ!!」
この鈴木杏扮するステラの叫びが、最後の最後でいちばん大きかった。
人を呼ぶときの声は大きくなる。気付いてほしいから、聴いてほしいから、こっちに来てほしいから。だけどこのときのステラは、自分の声はもうブランチに届かないことを分かっているからこそ思う存分の声を張り上げている。むしろ自分の声でブランチが正気に戻って振り返ってもらう方が困るのだ。「姉の気が狂ってしまった」ことはステラにとっては「もういい」のだと思う。これについては、また別の機会にて考えたいと思う。
個人的には、この舞台でのMVPは鈴木杏だった。単純に、声量があって聴きやすい。北村一輝スタンリーと話しているときは北村一輝が何を言ってるのか聞こえない箇所があったりして声量の差がすごかった。そしてよく走る。舞台の端から端まで全力ダッシュしてそれがめちゃくちゃ速い。ブランチが家にやってきた日にボーリング場からすっ飛んできたときの走りっぷり、良かった。だけどやっぱり、最後の最後「ブランチ!!」の叫びに心を掴まれてしまった。ステラは所詮自分ではないのに、自分の尺度で再構成しているのに、究極のところ他人の言葉であるのに、「自分」が「全く違う人」になる、完全に「自分」が消える瞬間が、あるのだと思った。大竹しのぶの憑依力も、初めて見てさすがだなと思ったけれど、大竹しのぶはペース配分がしっかりしているというか、安定してブランチだったのに対して鈴木杏は瞬間的なシンクロがすごい、という印象だった。
大竹しのぶは声色だけで、口を開いた瞬間にもうアッこの人やばいと感じる。ヴィヴィアン・リーのブランチがまだまともな人に思えるくらいの闇の深さ。やはり見せ場はミッチに対して開き直ったときの「フラミンゴじゃないわ、タランチュラよ!」からの、酒を呷りながら譫言のように繰り返す「この婦人は素行上教職には不適当でありますこの婦人は素行上教職には不適当であります……そうかしら……そうでしょうね……」の流れ。ただただ怖い。ミッチも、いくらブランチが自分の思っていたような人間じゃないと分かったうえでこの場に臨んでいたはずだけど、この反応にはさすがに圧倒されただろう。あと大竹しのぶ版ブランチを観ていて感じたことは、(特にショッキングな)出来事に対するレスポンスが他の人より若干遅かったこと。「明かりを点けないで!」と叫びミッチに電気を点けられたとき、スタンリーに紙提灯を引きちぎられたとき、彼女は絶叫するのだけどそこには一瞬の間がある。反射的に体が反応して叫んでいるのではなく、「叫ぶと決めて」叫んでいるように見えたのだ。だけど「叫ぶと決めて」叫ぶということは、「叫ぶわたしを演出している」ということではないかと考えたとき、わたしはブランチがわからなくなった。人間誰しもに虚飾と本音の二層があって、ブランチも当然そうだろうと思っていた。スタンリーとミッチに立て続けに秘密を暴かれたあとは虚飾も虚勢もあったものじゃなく、そこにこそ彼女の本音、本性が現れる、そこでやっと彼女は「本物」になるのだと思っていた。しかし彼女は抵抗しつつも常に先を読み、「次はどんな自分で立ち向かおうか」を考えている。叫んでみようか、泣いてみようか、それとも言葉で訴えてみようか…いずれにしても、彼女は何が何でも「こんなに出自も高貴で文化的教養もあり、それなのに不当に虐げられている可哀想なわたし」であることが最重要なのだ。彼女の言動、行動は、そのキャラクターを守るための徹底した演技であり、嘘を嘘で塗り固めても、芝居が入れ子になっても、彼女はそれを何とも思わない。気づいてもいないのかもしれない。わたしたちは、ブランチが本当はどんな女性なのか、彼女の化けの皮が剥がれる瞬間はいつなのか、きっと永遠に知ることはないのだろう。あれがブランチなのだ。それ以上のものも、以下のものも存在しないのだ。

わたしは、この舞台の演出については正直そこまで脚本の舞台設定に忠実でなくても、それこそ部屋なんて細かく作らずにテーブルとベッドあたりを簡素に置いとけばそれで十分なのではと思っていた。実際そうした演出で上演されることだってあるだろう。だけどこのブリーン演出版を観ると、あのカーテンで仕切られただけの2部屋も立派に登場人物の一部で、あの部屋でなければこれはそもそも起こることがなかった物語なのだと感じさせられた。もしあと一部屋でも多かったら、もし仕切りがカーテンじゃなくきちんとしたドアだったら、と、舞台について様々な可能性を考えずにはいられない。わたしはこの戯曲を舞台で観るのは初めてだったけれど、初めてがこの王道な演出、Werktreueを追い求めた演出でよかったとも思う。医者たちとともに角を曲がって去っていくブランチというのも、舞台から降りて、客席通路と出口を使えば「角を曲がって去っていく」ことだってできるのだ。戯曲に対して諦めない姿勢、隅から隅まで、この戯曲を完璧に立ち上がらせてみせる、そんな気概、熱意がびしびし伝わってくる舞台だった。

出産を目前に控えたステラを病院に残して一旦帰ってきたスタンリーとブランチが対峙し、じりじり距離が詰まっていくなかで部屋の外を花束を持った死神が徘徊するようになる。フローレス、フローレス。死神たちが歌うなかでスタンリーとブランチの緊張状態は最高潮に達する。ブランチはスタンリーの隙をついて必死の形相で電話をかける。緊急事態! 死神たちは部屋を取り囲み中に入ろうとするあらゆる壁の隙間から。いやいや、入れないよそれなりにしっかりした骨組みだったしそんな隙間もないって、と、思ってはたと気づく。序盤と比べて部屋を支える木枠が少なくなっている。入れるじゃん! 入ってくるのである。ゆっくり、ゆーっくり。フローレス、フローレス。死神の声とは思えないほど透き通った綺麗な声だ。それにどこからか太鼓の音も聴こえる。部屋の中にまで入ってきた死神たちにブランチは動揺する。そこにスタンリーが戻ってくる。来ないで! 空の瓶を割って応戦しようとするも、この一言に殺される。
「こうなることは最初から分かっていたんだ!」
ブランチの体から力が抜けて、彼女はベッドの手前でがっくりと倒れ込んでしまう。もう意識も無いのかもしれない。そのブランチを抱え上げ、ベッドへと寝かせるスタンリー。ドンドコドンドコ。フローレス、フローレス。とうとうブランチに口づけるスタンリー! 照明は一瞬、暗転。それから真っ赤な光が部屋を埋め尽くし、死神たちがこの部屋を散らかしまくっていく。その、散らかしまくっている最中にちょうど中央に立っていた死神のひとりが両手を高く上げ、イエーーーイ! と言わんばかりにガッツポーズをしていたのが印象的だった。良かった。

欲望という電車に乗って、墓場という駅で乗り換え、天国という駅で降りる。この物語もまた、そうやって進んでいくのだと思う。それぞれが欲望を抱えて生活を送り、各々の形で墓場に着き、その先に待っている天国へ向かって収束していく。たとえ妄想だろうと大富豪とのクルーズが待っている。厄介だった姉がいなくなり、元の生活が戻ってくる。子供もできた。またポーカーとボーリングに明け暮れる毎日が戻ってくる。逆に言えば、一度墓場を通らないことには天国には行けない人たちの物語なのだろう。ここは天国、ここは天国、と、ひたすら自分に言い聞かせつづけてやっと本物になる「天国」。それはどこか舞台美術にも通じるものがあるかもしれない。役者はここが世界そのものだと信じる。だけど上演が終われば解体されて、あとには何も残らない。

「真実なんて大嫌い! 私が好きなのはね、魔法!」

ブランチはただ正直だっただけで、きっと誰もがそう思っている。

読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。