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美しい春の滅びよ

矛盾に溢れている。
家から出るなと言われる。それでも家に持って帰れない仕事のために休日にも出社する。土曜日の会社には当たり前のように平日の顔ぶれが揃い、何事もなく、仕事をする。外出自粛の要請が空を電波を飛び交うこのとき、私は会社にいて、仕事をする。会社に行くために、家を出る。街を歩く。外に出る。私は移動を強いられている。矛盾に溢れている。頭は混乱するばかり。疲労が溜まって倒れるように眠るばかり。それでも頭の中をガンガンとノックする言葉の洪水に突き動かされて、虚ろな意識で文字を打ち込む。冷えた手足。


それでもまだ、解雇も休業もなく、少なくとも今日明日のお金のことを心配せずに働けている身であるのだから、それは感謝すべきなのだとどこかから声がする。私はまだ幸運の中にいる。私が平日も休日もなく会社へ行く傍ら、静かに沈黙を選ばざるを得なかった無数の職がある。それを思うと、私は、生かされている。

私の愛する映画が、本が、音楽が、静かに悲鳴を上げている。私にはそれが耐えられない。何か、何かできることはないですかと、何か私に、差し出せるものはありませんかと、常に視界がうろうろして、落ち着かない。手当たり次第に、目に付いたものに、お金を払っている。今日はアップリンクのクラウド配信サービスにお金を払って、大阪の保護猫カフェのために猫の餌を買った。「働いている」という負い目が私を急き立てる。何か私に、できることはありませんか。自分のお金さえ無限にあるわけではないのに、自分のことなど、と思ってしまう。私の未来から映画や本屋や音楽が消えてしまうなら、今私が生きていることすらどうでもよくなってしまう。私の正気を保つものが何ひとつなくなってしまうかもしれない恐怖がただただ堪え難い。



午前に部屋で映画を観て、午後は映画館で映画を観た。スクリーンに映るアレッポの戦禍は直接的に死と結びついている。瞬きひとつでいなくなってしまう人たちがいて、そんな世界の中にいては、死にたくないと願うのは当然のことだ。死んではならないよ、ねえ、死んではならないんだよそこにいる人たちは、誰も彼も、死んではならないんだよ。
ここには戦禍も瓦礫も流血も死体も爆撃も慟哭もない。それなのに私は、あんなにも強く、死にたくないとは願えない。死にたくないと、思っているのかすらわからない。生の実感が希薄だ、疲れた体を引きずって歩く毎日では、何もかもが希薄だ。


4年前の桜の写真、8年前のブダペストの写真、この体を突き抜けてきた数々の春。今年も公園に咲く桜。誰もがマスクをして俯いて歩く。何も知らなければただ美しい晴天の春。柔らかな日差し、美しい御堂筋、美しい大丸。化粧品売り場の全てにカバーがかけられほとんど無人と化したがらんどうの大丸。世界に捨てられたような気持ち。思い直す。私たちが捨てられたのではなく、大丸が私たちに捨てられたのだ。数人の客が歩いているだけの大丸。これは、窮状だ。崩壊はすぐそこにある。

病の塵を帯びた美しい春が内側から何もかもを滅ぼしていく。


街が完全に機能を停止する前に、髪を切った。内側に茶色を入れた。数年ぶりに髪を染めた。私の髪が揺れたとき、この茶色に気づく人はどれだけいるのだろう。
今すぐにピアスを開けたい。今すぐに刺青を入れたい。髪だって茶色なんかじゃなくて今すぐに赤とか青とか奇抜な色にしたい。春が私を滅ぼしていく。美しい桜が肺の中で咲き誇る恐怖が私を滅ぼしていく。


部屋に帰って体重計に乗った。40キロ。鏡に写る私は、消え入りそうなからだで、


お母さんがクール便で送ってくれた、ひよこ豆がたっぷり入ったドライカレーを解凍してインスタントのお味噌汁と一緒に食べた。


デヴィッド・ボウイを聴きながらこれを書いている。目の前の換気口から冷気が入り込んで指先はどんどん冷えていく。部屋に居たって、完全に安全であるはずがない。ベランダに干した洗濯物。


消え入りそうなからだ、
今にも崩れ落ちそうなからだが、滅びと顔を突き合わせている。
美しい春の滅びが私を見つめている。


曲が変わりゆく。両足が攣る気配を抱え、椅子の上に蹲っている。
洪水のように言葉が押し寄せてくる。私に選択の余地はない。虚ろな意識がキーボードを叩き続ける。終えるための句点を見分けられない。小説もただの日記もだらだらと、長くなっていくばかり、



洪水のような言葉は総体としての意味を希釈する。
薄まりゆく危機感、遠ざかる生の実感、今日はいい天気だったと、愚かな記憶だけが残り、今日眠って明日目覚めたら、また息をして、会社に行く。美しい滅びの春が私を見つけないことを祈る。この消え入りそうなからだが、滅びの隙間をすり抜けることを祈る。


死にたくないと強く願えない。
ただ、苦しみたくない。

読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。