死んでやるほど優しくねえよ

倫子は心身ともになんとか病と名前がつくような大きな病気は持たないが、時折何もかもが立ち行かなくなり美味い肉も美味いワインも等しくこの世のものとは思えないほど不味く感じられ終いには何もかもをトイレで吐き戻しもうだめだぜんぶだめだ死にたい今すぐ死にたいと自分しかいない部屋の真ん中でもんどりうって喚き散らかさないことには眠れない悪癖がある。倫子は一般的な人間であることには間違いないがただ生きているだけなのにやたら振れ幅が大きいことには彼女自身も一応困ってはいる。

琴子は倫子の唯一親しい友人である。倫子はこのとおり定期的に暴れまわるため人間関係の変動が激しく出入りも多い。そんな中彼女だけはなぜか辛抱強く倫子の話を聞いてくれるため倫子も琴子には頭が上がらない。琴子は決して怒鳴り散らすようなことはしないが表皮を上滑りするようなぺらっぺらの慰め言葉も持たない。しかし琴子がすばらしき人格者かと言えばそういうわけでもなく、倫子と琴子はこれまでにも何度か手を取り合い、彼女ふたりの基準で「処刑」と判断した人間については容赦なくボコボコにしてきた。主にバットを振り回して殴り込みに行くのは倫子ひとりの仕事であったが。琴子は中学生の頃から倫子を知り倫子に寄り添い倫子を決して頭からは否定しないただ一人の女であった。

倫子がボコボコにしてきた人間たちは数限りない。倫子は自分に対し死にたい今すぐ死にたいとのたうちまわるのと同等のエネルギーで自分を傷つけた人間に対しても死ね死ね今すぐ死ねと暴れまわる。今すぐ死ねというところまで感情が突き抜けてしまった人間について倫子はその後一切の申し入れは認めない。これが仮に倫子がばら撒いた種で倫子にも落ち度があったことであった場合、相手の中には悪いのは倫子であるがきっと倫子も今ごろバツが悪くて自分からは近づけないのだろうここはわたしが優しくなってやろうという目算のもと倫子に物を贈るなどして近づいてくる人間がいるがこれは全く無駄なことである。物を贈ってくる頃にはそいつはとうの昔に倫子の人生から退場させられており滅多なことでは思い出されもしないからだ。むしろ倫子は退場させたはずの人間が突然に、しかも勝手に蘇ってきてますます怒り心頭に達し、菓子折りなどはデパート包装のまま琴子へ届けられる。琴子は身に覚えのない菓子折りであっても好物であればどれでも美味しくいただいている。

倫子は物に罪はないと信じている方の人間であり、それゆえに菓子折りも決してゴミ箱にぶち込むことなく琴子へ寄越しているだけまだ良いのだが、以前ボコボコにした女から詫びのしるしに口紅が届けられたときにはさすがに困った。ホイホイもらってやるほど馬鹿なことはないが菓子折りと同じように琴子に回せるようなものでもない。メルカリに出品しようにも化粧品は面倒くさい。だったら捨てるしかないがそもそも物に罪はない。
八方ふさがりとなった倫子は結局琴子に助けを求めた。そんなん使ったらええやんと、事もなげに琴子は言った。

「物に罪はないんやったら捨てたらかわいそうやんか。いっそ使い切ったりいや」
「でもやで、でもやで。あんだけ私のこと好き勝手にボロカスゆっといたくせにいざボコられたら謝りもしやんとこんなん送ってくるとかそもそも何もかもがありえへんこんなんで私がころっと許してくれるとか思われてんのやったらもうムカつきすぎて死にそうめっちゃムカつくもうむり死にたいなめとんかあいつほんまもうむり死にたい」
「ほんなら捨てたら」
「物に罪はないやんかかわいそうやんか私に届けられたばっかりに捨てられる口紅とか」
「じゃあ使ったら」
「受け取ったら私が許したみたいになるやんかもうむりほんまむりムカつく死にたい」
「一周したな」
「不誠実、みんなくだらん不誠実。不誠実の塊や。謝り方もタイミングもろくに知らんくせにいい子ぶって物寄越していかにも反省してます的な? どの面下げてこんなもん寄越してくんねんつうか面すら下げてへんし。なにその根性見下げた根性うけるまじでなにこの根性。えでもさあちょっとさあなんかもう、 ハ? いやまじで、ハ? そんなクソみたいな謝罪、謝罪ちゃうわ自己満を一方的に預けられるこの口紅なんてかわいそうなん? なにこの不誠実? どいつもこいつも不誠実くだらん不誠実どいつもこいつもどいつもこいつもムカつくムカつくムカつく死にたいもう私は死にたい」
「なんで倫子が死にたいて話になんの」
「なあ琴子ちゃんどうしたらいい? 私明日からハワイ行くのにもうぜんぶむりになってきた何もかも嫌や空港遠すぎパッキングとか死にそうハワイやのに。ハワイやのに」
「ええやん。代わりに行ったろか?」
「ちゃうねんて私が行くねんて半年前から予約しとったハワイやねんて!」
「あのな倫子、口紅捨てただけで人間死なへんで。倫子も死なへんし、あの女もたぶん死なへんで。物に罪はないんはその通りやけどでもこのまま倫子がその口紅ほっといて倫子がウツなって死んだらその口紅のせいなるで。倫子は物に罪を着せたくないんやろ? ほんならその口紅が罪かぶらんうちに捨ててやりいや。罪悪感とちゃうで、情けやで。哀れな口紅への倫子の特大の情けやで。ほらその気なってきたやろ? まあ倫子は死にたい言うてるだけでウツちゃうけどな」
「琴子ちゃん、それはすごい詭弁ぽいし悪魔みたいな言い方や」
「詭弁で何が悪いんや。それに倫子も不誠実不誠実やかましいけどお前も未だかつてただの一度も他人に対して不誠実じゃなかった瞬間があるんか? 人様にいっぺんも迷惑かけたことない慈悲深い仏かなんかのつもりか? アホらしい、どうせ倫子も私もどいつこいつも鬼で魔女やねんから口紅の一本や二本でぐちぐちと、そもそもそんなこと言える口か?」
「なんか私、琴子ちゃんに怒られてるな今」
「怒ってへんよ。これはセラピーや。それに断言したるわ、どうせその口紅は倫子にはアホほど似合わん。安心して捨てろ」
つうか口紅とか、琴子はげらげらと笑った。「毒りんごかよ。うける」

結局倫子は無事にハワイに着陸し一週間のバカンスを大いに楽しんだが彼女がその口紅を捨てたのは一年が経ったあとだった。彼女は日本に帰ってからもいくたびの死にたみに見舞われそのたびに肉とワインを吐き戻し部屋で頭を抱え奇声を発して暴れまわり琴子に電話をかけまくったが、捨てる瞬間には倫子は誰にも相談せず、口を聞く気力もないほどに電源が切れた夜唐突に机の端に転がっていた口紅を鷲掴みにしてゴミ箱に突っ込んだのであった。それから倫子は好きな歌手の音楽を爆音で聴いた。三曲聴き終えて倫子はどうにか起き上がり、ポリ袋を引っ張り出して部屋中のゴミをそこにまとめた。口紅は生ゴミとともに玄関から放り出された。
倫子は翌日会社をサボった。琴子は倫子から回ってきた菓子折りを持って別の友人の家へ遊びに行った。口紅はマンション中のゴミとともに収集車に連れて行かれた。そのまた翌日倫子はふつうに目を覚まし、次は上司をボコボコにする計画を練り始める。
真っ赤な口紅にはもしかすると毒が塗ってあったのかもしれない。しかし倫子はこのとおり元気であった。なぜなら口紅は全くの未開封だったからだ。

「なあなあ琴子ちゃん。あれな、捨ててん。口紅」
「ハ? おっそ。いつの話しとんねん今の今まで忘れてたわ」
「不誠実はみんなゴミ」
「謝れへんのはみんなクソ」
「なあ琴子ちゃん温泉行こうや。上司ムカつきすぎてもう私むり死にそう」
「新幹線で騒いでる外人にメンチ切らへんて約束できるんやったら行ってもええで」
「私がメンチ切って外人にボコられたら琴子ちゃん助けてくれるやろ?」
「マジで御免蒙るし駅員呼ぶわ。あ、そういえばこないだの菓子折り美味かったで」
「知らん。何の話?」
「あっそ」

20190210

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