彼女はスピカ 【短編】

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4月12日  広美

 枕元で黒電話のアラームを大音量で鳴らすスマホを手探りで掴み、まだ上手く開かない目で画面を点けて「止める」の文字をタップする。また眠りに戻ろうとする頭を無理やり持ち上げて私は起き上がる。半開きにしたカーテンからはもう春の朝の光が差し込んでいて、部屋の空気がやわらかい。
 足をつけた床は少し冷たかったけれど、そのまま歩いて台所に向かう。ケトルで沸かしたお湯をマグカップに注いて部屋に戻る。小さなダイニングテーブルにカップとスマホを置いて椅子に座る。
 朝起きてすぐに白湯を飲むようになったのは、いつからだっただろう。少なくともここに引っ越してきてからだ。ネットで見て、なんとなく初めてみたことだったけれど、いつしか習慣になって心なしか体の調子も良くなったような気がする。まだ肌寒い朝に、白湯の温かさが体に染み渡る。
 飲み終えると次は簡単にトースト一枚とヨーグルト程度の朝食を済ませて、皿を洗って洗面所に向かう。
 鏡に映る私は、やっぱり少しは老けたかもと思いつつも、目の下の隈もないし、真っ青な顔色でもないし、ちゃんと、自分は抜け出せたんだなと今でも毎朝思う。
 深夜残業が続きすぎて体を壊し、二ヶ月休職してみたもののやっぱり無理で、結局前の会社は退職してしまった。世界の終わりだとあの時は思ったけれど、どうにか転職に成功して、引っ越しもして、今、まだ生きている。きっと前の会社に留まり続けていたら、今頃私はマンションから飛び降りて死んでいただろう。
 歯を磨いて顔を洗って、部屋に戻って仕事着に着替え化粧をする。化粧をしながら、今日の予定を頭に思い描いている。確か午前にひとつ打ち合わせがあって、午後はクライアント用の資料作りの続き。アポは明後日だから、今日中に一度上司に確認してもらって、明日を使って修正したらいい。
 化粧を終えて姿見の前に立ち、今日の自分を確認する。大丈夫。私は今日も大丈夫。腕時計を嵌めてカバンを肩にかけて、玄関を出る。
 春の朝は、自分が思うよりずっと明るくて音が多い。引っ越してから気づいたことだけれど、このあたりは保育園も小学校も中学校もあって、日々には必ず子供たちの姿がある。
 毎朝集団登校の小学生たちとすれ違う。みんなカラフルなランドセルで、最初は驚いたものだけどそのうち全く気にならなくなった。
 去年の春、お姉ちゃんに手を引かれながら毎日泣きながら歩いていた男の子がいた。今年の春、彼はもう泣くこともなく、お姉ちゃんの手を必要ともせず、ひとりでちゃんと歩けている。その変化を見るたびに、私に子供はまだいないけれど、子供なりの成長、強さを思わずにはいられない。
 あの子はこれからどんな風に育っていくだろう。何を見て、聞いて、何に夢中になっていくだろう。 
 無限だな、と思う。無限で、自由だなと思う。ランドセルと同じだ、好きな色を選べばいい。自分らしい色を選んでいけばいいのだ。


今でも覚えてる
今でも見えるよ
この世界を光で満たして
命に向かう音を聴くの
こんな駄目になった目でさえも



12月31日  祥智 亜希子 芳佳

 大晦日は夕方から雪が降り出して、芳佳が亜希子の家を訪ねる頃には牡丹雪が舞う大雪になっていた。お父さんが税理士か何の、事務所つきの家を持っている亜希子が私の家で飲んでから初詣に行こうと誘ってきて、雪まみれになって、玄関ではなく事務所の方のドアを開けると暖かい空気とテレビの音が待っていた。亜希子はもちろん祥智もすでに居て、彼女たちはテレビの置かれた応接スペースで紅白を映しながら酒盛りを始めてしまっていた。亜希子が芳佳に手を上げて、振り返った祥智が手を振った。「久しぶり」がいくつも飛び交う。
「外やばい?」スナック菓子を食べながら亜希子が言った。
「結構やばい」芳佳はコートを隅に掛けてからソファに腰掛ける。「めっちゃ積もってる」
「まじか」と祥智。「まあなんとかなるでしょ。あ、コブクロ」
 芳佳は亜希子から缶チューハイを受け取り、プルタブを開けた。じゃあ改めて、かんぱーい。亜希子の一言で三個の缶がお菓子の上でぶつかった。チューハイはキンキンでもなく、暖房で適度にぬるくなった舌触りがありがたかった。しばらくして、胃のあたりが温かくなってくる。
「初詣の文化だけは残ったよね、うちら」
 亜希子が言った。芳佳は頷く。「まあ、確実にみんな揃うの年末年始くらいしかないもんね」
「芳佳、いつまでいるの?」コブクロに聴き入っていたと思っていた祥智が唐突に尋ねた。
「成人式の次の日まで」芳佳がチューハイから口を離して答えると、私と同じだと祥智が言った。いや、だいたいみんなそうじゃない? 亜希子が口を挟む。
「ハタチとかねえ」亜希子が空になった缶を置いた。「振袖は楽しみだけど、成人とかそういうのは実感ないわ」
「あ、椎名林檎」
 また祥智がテレビを指差す。芳佳と亜希子は一緒に振り向く。
「真里奈、椎名林檎好きだったよね」
 ぽつりと、芳佳は呟いていた。亜希子がちらりと芳佳を見る。「え、真里奈が好きだったのは東京事変でしょ?」横から祥智が言う。「どっちでもよくない?」亜希子が少し呆れたみたいに言う。
「生きてたら、真里奈もハタチか」
 祥智も亜希子もしばらく何も言わなかった。椎名林檎の声が響く。
『あの世へ持っていくさ 至上の人生 至上の絶景』

「なんかこういう雪道歩いてたらさ」
 紅白が終わり、日付も変わり、大雪の中、揃って神社までの細い道を並んで歩いていると、真ん中にいた祥智が足元を見下ろしながら言った。
「あれ思い出すよね、うちらの卒業公演。ほら真里奈の一人シーンでさ、紙でいいじゃんって言ったのに真里奈、家から布団持ってきてビリビリに破いて羽毛敷き詰めたじゃん」
「ああ」亜希子が思い出したように声を上げる。「あったね。何だっけ、真里奈が一人で静かにキレるシーン」
「あの時の真里奈、綺麗だったよねえ。真里奈が動くたびに羽がふわふわ舞ってさ、ああ真里奈やっぱ天才だなって、あれ観たとき改めて思っちゃった」
「だよね。もう最初から、なんか次元違ってたもんね真里奈は」
「そう。真里奈ひとりでどうにかなってたようなもんだったよね、うちらの劇部」
 二人の言葉を聞きながら、芳佳は思い出していた。あれは冬の物語で、雪の中、薄着でひとり外に飛び出した真里奈に上から羽を降らせるように操作していたのは自分だった。舞い散り舞い上がる羽の中で、真里奈は何を訴えていたんだっけ。光と羽の中の彼女の姿があまりに綺麗で、美しくて、もうそれしか残っていない。
「真里奈、役者になってたかなあ」
 祥智が言う。
「えー、どっちかと言うと脚本家とか演出家じゃない?」
 亜希子が言う。
「芳佳はどっちだったと思う?」
 祥智が振り向いて芳佳を見た。芳佳は困り笑顔でうーんと首を傾げる。芳佳が答えに迷うまま、三人は大雪の中を並んで歩いていく。そろそろ神社の参道が見えてくる。


見送る足跡はやがて消え行く
あの太陽に目の眩んだわたしの足よ
どうか踏み外さず
どうか立ち止まらず
音もなく満ちる月へとおいで この手に



10月7日  幸穂

 お母さんが来週お姉ちゃんの部屋の物を処分すると言い出したので、捨てられる前に使えそうなものは貰っておこうと一年ぶりにお姉ちゃんの部屋の電気を点けた。
 お母さんは毎日この部屋にも掃除機をかけているけれど、それでも持ち主がいなくなった部屋の空気は何にも入れ替わらなくて、薄く淀んでいる気がする。お姉ちゃんの部屋は、お姉ちゃんが死んでしまってからもほとんどそのままになっていて、流石に床に物が散らかっていることはないけれど、机の上は整理が追いついていなくて参考書や教科書が適当に端に積み上げられたままで、よくわからない小物も適当に転がったままだ。だから机の上だけはどうしても、埃が積み上がっていく。
 私も一応受験生なんだし試しに積み上がった参考書を手に取ってみたけれど、お姉ちゃんが使っていたものは基本的に私の学力とは全然合わなくて(私の方がばかなのだった)数ページめくってみてすぐに元に戻した。
 その参考書のすぐ横になぜかプリクラが数枚置きっ放しになっていた。手に取ってみる。高校の制服姿で撮ったものもあれば私服で写っているものもある。基本的に、一緒に写っている人たちはみんな同じだった。「ゲキ部」「受験生」「マリナ」「サチ」「アキコ」「ヨシカ」どれも似たような落書き。みんな満面の笑みで写るのに、お姉ちゃんだけはどれも少し口の端を上げているだけで、でも、その態度でこの人たちに受け入れられていたのだろう。お姉ちゃんは、高校の部活でもそんな感じだったのだ。
 私は机の上の探索をやめて、本棚から読みたい漫画を取り出して、箪笥とクローゼットから私にも似合いそうな服を取り出して、数回自分の部屋とを往復した。
 随分クローゼットがすっきりしてきたところで、私はハンガーに掛けられた服と服の間、壁にくっつくほど奥に、段ボール箱が一つ置いてあるのに気が付いた。
 私は服をかき分けてその箱の両側に手をかけてみる。腕で少し引いてみただけではびくともしないほど箱は重かった。私はちょっとムキになって、足を踏ん張り後ろに体重をかけて箱を引っ張った。壁と箱の間に隙間ができて、そこに指をかけて引っ張ると箱はずっ、ずっ、と音を立てながらこっちに向かってきた。最後はほとんど落とすみたいに床に置いた。どしんとすごい音がした。
 しゃがみこんで蓋をあけると、入っていたのは紙だった。何十枚の、何百枚もの紙だった。それから紙の隙間には、同じメーカーの同じ型の手帳が何冊も押し込められていた。
 紙を数枚取り出してみる。くしゃくしゃにされたあとにもう一度引き伸ばされたようなもの、乱暴な筆致で大きくバツが書かれたもの、紙の半分にしか印刷されていないもの。さらに奥を覗くとホッチキスで留められた、完成稿と思われる束も出てきた。どれにも一ページ目右下には「Marina」と手書きされていて、印刷された文章の間に所狭しと書き込みがあった。傍線の横には「俯け」読点の間にくの字を入れて「ここで思い出せ」「ここから先は一気に」「立ち止まれ」。これはお姉ちゃんが演劇部で書いていた脚本で、それを上演してきた三年の記録だった。私は興味がなくて、一度も観に行ったことのなかったお姉ちゃんの舞台だった。
 私はその使い込まれてボロボロになった脚本をしばらく読んで、途中の書き込みひとつにすっと目が引き寄せられた。
「感情を殺して」
 顔を上げる。呟いてみる。感情を殺して。


涙も出なくて
私の視界は約束に溺れて何も見えなくて
失くした声が痛みの中から呼んでいるけど
誰も返事をしてくれない



6月15日  詩織

 白い花がたくさんあって、真ん中で笑っている真里奈。その笑顔はいつ撮ってもらったの。
 お坊さんの声は潰れてひしゃげた干物みたいで、永遠に引き伸ばされて私の足元あたりを通り過ぎていく。足元だから、私の耳には入ってこない。何にも、頭に入ってこない。
 私の制服を着ている人はこの場所には私しかいなくて、居場所もなく私は隅の席に存在を消すように座る。前の方に真里奈の高校の制服を着た人たちが固まって座っているのが見えた。何人かの肩は震えているようにも見えるし、鼻をすする音も嗚咽みたいな声も間隔を空けて聞こえてくる。
 けれど、何にも頭に入ってこない。真里奈の制服を着た人たちの悲しみのようなものは、何も、頭に入ってこない。ただそこで真里奈が笑ってることだけ、その下の棺に本物の真里奈が入っていることだけ、それだけ。私の頭の中は、ただ、それだけ。
 (また朝になっちゃったよ)
 真里奈のお母さんは、交通事故だったと言った。通学途中の青信号の横断歩道で、無理に右折してきた車に撥ねられたんだと嗚咽しながら私に言った。
 (また朝になっちゃったよ)
 真里奈。交通事故だって、みんなはそう言うけれど、本当かな。信じてもいいのかな。真里奈の制服の人たちと同じように、交通事故だったって、私は信じていいのかな。本当にそうだって、言ってくれないの、言ってよ、真里奈。
 本当は徹夜で勉強してたとか、脚本書いてたとか、そうじゃなかったんだよね、きっと。真里奈のことだから私にそんなこと触れられたくないだろうって、私あえて、またオールかよとか、そんな返事しかしなかったんだよ。ねえもしかして間違ったかな、もっと、もっと、もっと、大丈夫? って、勇気出して一言でも返事してたらよかったかな。
 真里奈。交通事故だったって、みんなはそう言うけれど、私にはどうしても、真里奈が自分からその車に向かっていったんだって、そうとしか思えないんだ。他の誰が交通事故だったって信じても、私には、そうとしか信じられないんだよ。
 (また朝になっちゃったよ)
 ねえ真里奈の制服の人たち、わかってるの。真里奈のことをちゃんとわかってあげてたの。このメールをあなたたちは知ってるの。真里奈の夜の長さを知ってるの。私の涙が止まらないのとあなたたちの涙が止まらないのは同じだって思っていいの。同じだけ悲しくて悔しいんだって、私は、信じていいの?
 真里奈が笑ってる。昼間の真里奈は笑ってる。その笑顔に、私は涙が止まらない。


まだ行かないで
終わりを告げるには早すぎるから
泥を纏って傷を舐めて それでもその足を守って
許して あなたを
忘れて わたしを



3月22日  広美

 タクシーが見知った大通りに差し掛かり、右側にコンビニの明かりが見えてきたところで私は後部座席から身を乗り出した。
「あの、コンビニのあたりまででいいです」私が運転席と助手席の間からわずかに指を出すと、運転手はぶっきらぼうな低い声で返事にもならない返事をして右にウィンカーを出す。
 お釣りを受け取ると同時に隣のドアが開いて、私は深夜の大通りに放り出される。私を吐き出したタクシーは何の未練もなさそうにスピードを上げて走り去って行ってしまった。
 横断歩道の向こうにあるコンビニの明かり、そこまで導く横断歩道の長さにため息をつくことは、もうやめてしまった。信号が青に変わり、私はこの長い横断歩道をのろのろと歩き出す。
 終バスを逃し続けてもうすぐ一週間になる。そろそろ記録更新、そして、今月のタクシー代もまた記録更新だろう。更新されたくない記録ばかりが伸びていくこの毎日。信号は横断歩道の途中で点滅を始める。
 信号が赤に変わると同時に向こう岸にたどり着き、まるでお荷物の私を待っていたかのように背後で一斉に車が走りだす。車といってもほとんどがタクシーだろう。
 夜に放り出された存在はみんなみんな、惨めだ。必要ともされていないのに走り続けることを強いられるタクシーたち、客もほとんど来ないのに営業を強いられるコンビニ、終日を労働に追いかけ回され体力を一滴残らず搾り取られて今ここにいる私。みんなみんな、惨めだと思う。
 欲しいものもないのにコンビニに立ち寄り、ただ一周して何も買わずに同じ自動ドアから出た。そのまま大通りから外れて裏路地に入る。途端に心もとなくなる街灯の光、途端に遠ざかっていく数々の音、私は私の足音しか聞こえないところまで路地を歩く。無感情にただ私のマンションだけを目指して。昨日のことも今日のことも明日のことも何も考えないで、ただ足を動かすことだけに集中して。
 途中、若い女の子とすれ違ったような気がした。けれど私は自分の足元だけに集中していたので、顔も見ていない。こんな時間にどうしてあんな女の子が歩いているのかも、何にも興味がない。私はただ、自分のマンションだけを目指していたから。


 彼女はスピカ / 20201025




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inspired by Yurina Hirate 
この小説は欅坂46「角を曲がる」を基にして書きました

途中に挟んだ詩は私が高校生の時に書いたものです

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読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。