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父親と私

昔、故郷の酒の席で親戚たちが自分の父親について話していたことがある。
彼らが言うには、口を揃えて「親父とは乗り越えていかなくてはならないもの」ということだった。
うちの親戚の男衆は誇張じゃなく頭が悪く、ヤンキー上がりの人間もいたりするので、その父親の乗り越え方というのも結局は喧嘩に勝つとかそういうことで、その時は「なんて単純な」と子供ながらに思ったりしたものだった。喧嘩に勝ったら父親を乗り越えたということになるらしい。
全ての男性にこの父親観が当てはまるとは思っていないけれど、少なくとも、女である私にとっての父親のイメージとはだいぶかけ離れたものが、同性同士、父親と息子の間には存在しているようだった。その正体を私は未だ正確に知ることはできないし、この先もきっと知り得ることはないだろう。私はどうしても、女だったので。


私にとっては、母親は隣にいて、父親は常に前を歩いている背中というイメージがある。
前を歩いているからといってそれを障壁であるとは一度も思ったことがなくて、並んで歩く私と母から少し離れて前を歩いている、そういうイメージだ。もちろん振り返ったりもしてくれるし、少し離れているからといって私の父親が家族を顧みていないというわけでもない。
思えば私と母は、私が10代だったとき、全然仲が良くなかった。
母は私のことを、何を考えているのかわからない手に余る生き物、けれど自分の娘であるから注意して育てなくてはならないもの、という二つの感情を、私に対して持っているように思えた。母が私のことを「何を考えているのかわからない生き物」と感じていることを、私は肌で感じ取っていたから、私も母のことをわからないままで、どう接していいものかわからないままで、お互い腫れ物に触るように過ごしていたと思う。
それはひとえに、母親が隣を歩く人だったからなのだろうと今なら理解することができる。母と娘だと、同じ女であるという認識を共有している分自分と違うところ、見たくないものが必要以上に目について、どうしていいのかわからなくなるのだと思う。同じ女だからという認識の共有が、母と娘を隣同士にさせているのだと思うのだ。理由はわからないけれど、どうしてだか、お互いに逃げられないような、そんな感覚。

対して私の父は、私が10代の頃のほとんどを単身赴任していたのもあって、基本的に家に居ない人だった。それでも週末は必ず帰ってきていたし、父は父で、家族における自分の役割を果たそうとしていたように思う。
私と父は生物学的にも違う生き物だ。違う生き物なので、自分と違う考え方を提示されてもまあ違う生き物の人が言ってることだからなと、ひとつクッションを置いて受け止めることができた。そもそも違う生き物だから必要以上のことを考える必要がないし、見たくないものが目につくということも、その見たくないものが何なのかわからないので気にしようがなかった。だから、見たくないものが嫌でも目についてしまう母親よりも、私は父親の方が好きだったように思うし、今でもそうだと思う。


父さんはいつも前を歩いていた。それは私が学生から社会人になるために就活をするようになって、一層感じるようになった。
私の家族は共働きではあったものの、母さんは総合職ではなかったし、正社員なんだか一般職なんだかパートなんだか、とにかく何度も転職しているし、母さんの稼ぎはあくまで家の補助的なものだった。対して国立大学に進学した学生の私に求められていたのは正社員、総合職としての就職だった。
就活するにあたって、私はどの職種にいって、どこで働くんだろうと考え始めたとき、ごく自然に、父さんが働いていた会社に行き着いた。
父さんが高卒で入社して、この会社の稼ぎで私たち家族を養ってくれて、かつ、私の父さんをずっと守ってくれた会社のことを思うようになった。父さんの会社は確かに父さんを単身赴任させて長い間家族から引き離したけれど、それでも父さんの仕事を認め、昇格させてくれて、いろんな仕事をさせてくれた会社だった。
父さんも、私も、私の家族も、この会社に恩があるのだと思った。それなら、どうせ働くなら、長い間私の家族を守ってくれた会社に入って、恩返しではないけれど、力になれることがあるならと思った。
ということで今の私は無事に就活を成功させて、父さんと同じ会社で働いている。今年で7年目になるけれど、7年働いてみるとそれなりに仕事の話ができるようになるので、たまに父さんと会うときは、仕事の話をすることができる。

私が父さんと同じ会社を目指すと、父さんに打ち明けたとき、父さんは自分ができる限りのことをしてくれた。昔の部下に連絡を取って、参考になるような資料を私に送ってもらうよう頼んでくれたり、私の質問にも丁寧に答えてくれたり、会社に関する記事が載っている新聞のコピーを送ってくれたり、最大限のサポートをしてくれた。
私は父さんが送ってくれた新聞を何度も読んだし、父さんとの会話を何度も反芻したし、そういう準備をして、それでも内定をもらえたのは運が良かったからだと思うけれど、それでも父さんの会社に入社することができた。


どうして父さんと同じ会社を選んだのだろうと考えることがある。
それは結局、父さんと同じものを見たかったからなのかもしれない。
父さんがずっと、途中で転職することなくずっと働いてきた会社で、父さんと同じものを見たかったからなのかもしれない。ずっと前を歩いていて、背中しか見えなかった父さんの視界を見てみたかったのかもしれない。
それは父さんと同化したいということではなくて、単純に、同じものが見たかったというだけだ。父さんと同じ視界を、父さんが見ている世界を一度見てみたかったのだ。たぶん本当に、その一心だった。

会社の飲み会の席で、父も同じ会社で働いているという話になるとき、「それはお父さんを尊敬していたからでしょう」と必ず言われる。「お父さんの仕事ぶりをずっと見てきて、それでなお同じ会社に入りたいと思ったんでしょう」と。そうですねと答えると、「それはお父さん、ほんまに嬉しいと思うよ」と言われたことがある。
私はその席で、思わず泣いてしまった。どうしてだかわからない、ただ、泣いてしまった。
尊敬とか、そういう言葉はいくらでも当てはめられるだろう。けれど、私はただ同じ景色を見たかっただけなのだ。
私は父さんのことを、ただ、知りたかっただけなのかもしれなかった。


父親が娘に及ぼす影響力の強さというのは、どこかで読んだことがあるような気もするし、実際父親の職業が娘の職業に影響を与えている例はいくつもある。よしもとばななのお父さんは批評家であり詩人で同じ文学の領域の人だし、金原ひとみのお父さんだって翻訳家で、やっぱり同じ文学の領域の人だ。それに、かつての日航機墜落事故で機長を務めていた人の娘の方は、後にJALに入社してキャビンアテンダントになった。
私が大学の卒業論文に選んだ『エレクトラ』という作品も、母殺しの物語ではあるけれど、私が惹かれたのはそこではなくて、娘エレクトラと父アガメムノンの精神的な結びつきの強さ、エレクトラがアガメムノンを思う気持ちの強さに心を動かされたのかもしれなかった。
私たちは、父親という存在に、何かを与えられているのかもしれない。何か大きなものを。母親には決して与えることのできない何か大きなものを。


もちろん全ての娘にとって、父親がそうであるとは思わない。
けれど私の父さんは、いつも私の前を歩く人で、会社への責任を日々全うしようとして、二人の子供を大学まで出して、母を愛し慈しんで、家族を決して見捨てない。
そんな父さんだったから、私は父さんと同じ道を歩いてみることを選んだ。
父さんと同じ景色が見たかった。父さんが見ているものを見てみたかった。父さんが日々何を思い生きているのかを知りたかった。父さんと同じ目線で話がしてみたかった。父さんという人を理解したかった。
私の母さんがたった一人であるように、私の父さんもこの世界にたった一人しかいない。そのたった一人の父さんの背中を見て私はここまで生きてきた。
父さんを愛している。父さんが私を愛しているのを知っている、私も父さんを心から愛している。



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