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Time to leave, she said

 わたしはいつも防波堤の上に立ち、時にはそこを飛び下り海の輪郭すれすれに立ち、あるときは適当なテトラポッドを見つけてそのてっぺんに座り込んでいる。この海の荒い波に負けて波打ち際の石たちはみんなきれいに丸く、何の棘もない。テトラポッドは絶えず削られ、痛いほどの波をぶつけられているのに一言も、何の声も、わたしは聞いたことがない。
 わたしの体がどこに行ってしまったのか、わたしは知らない。ただ意識だけが抜け出してしまったらしく、あるいは誰かによってつくられてしまったらしく、その意識の形で体を作り、服を作り、ひとり静かに立っている。わたしは昨日も今日も、きっと明日もセーラー服のままで、永遠に17歳のままで、永遠に、美しい。
 わたしには兄がいて、甥がいて、そして息子がいる。

 夜になるとここ一帯はすっかり真っ黒になってしまって、死人のわたしですら空と海の境界線を指さすことはできない。ただ聞こえる波の音だけを頼りにわたしはわたしがここにいることを知る。寒さも暑さもなく、潮の匂いだけをはっきりと覚えている。
 防波堤に火が灯る。
 わたしは顔を上げて、波打ち際、テトラポッドの切れ目、ぼこぼことしたひどい足場から目を細める。
 わたしの息子は、わたしの年齢を追い越す直前にこの町に帰ってきて、こうして、わたしの防波堤に座り込んでは煙草をふかすのである。わたしは声をかけることもなくその姿を見つめている。彼もわたしを見つけたことはなく、ただ視線はわたしをとうに飛び越えて、わたしですら見抜けない空と海の境目を、さも見つけたような顔をしてそこにいる。
 真っ黒な髪、引き結びがちな口元、筋が通って高い鼻、そして、わたしの目。
 わたしなど消えてしまえばいいと思っていた。親の情けで、わたしの弱さで、あの子を一緒に連れては行けなかったけれど、わたしさえいなくなればそれでいいだろうと思っていた。
 あの子がわたしの顔をそのまま持って行ってしまうとは、思わなかった。

 防波堤に人の足音が聞こえる。
 わたしは見上げていたままの顔を少し横に振って、その足音を探す。わたしの息子も煙草を銜えたまま振り向く。やってきたのはわたしの甥である。茶色の髪をして、眼鏡をかけて、とても線が細い。眼鏡が邪魔だけれど、彼はわたしの兄にだんだん顔が似てきている。
 甥は、わたしの息子の隣に腰を下ろす。
 息子が右手を振りかぶって、防波堤に灯した火を勢いよく投げる。
 火は、わたしまでは届かずにいつも途中で潮風に吹かれて消える。それはわたしが死人であるからか、どうやら彼らの座り込む防波堤とわたしの立つ波打ち際を何かが隔てているらしい。死人は、夜になるとどうやらここから動けないらしい。

 わたしは見ている。息子が何度もわたしへ火を投げ入れるその動きを。吹き飛んでいく細い煙たちを。潮風の強さに逆らってやってくる彼と彼の声の形を。彼と彼が口を合わせるところを。わたしの血が、生きたふたりの人間の間を行き交っていくその動きを。
 彼らがこの夜を佇んで、そこにわたしが居合わせるとき、ここが、わたしの世界であることを死人のわたしは実感する。今まさに、死んだわたしの体の一部、あるいは海に溶けた細胞たちがここに打ち上げられてくるのを感じる。海はわたしの血であり、体であり、そして意識である。夜に消えたわたしは、この夜そのものですらある。
 そこにわたしの息子と甥がいる。
 彼らはわたしの中にいる。

 わたしは手を伸ばさない。声を上げようともしない。歩み寄ろうともしない。ただここにいる。ずっと、見ている。あなたたちをずっと、わたしがここで守ってあげる。

水澄めばほろびるもののほうへゆく
ろん

 Time to leave, she said / 20151103

BL俳句誌『庫内灯』より
この句がいちばん好きだった。

▽BGM
 Carbon / Tori Amos
(https://www.youtube.com/watch?v=n5rwubo1NK4)

#小説 #短編 #俳句 #解凍小説

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