槙生ちゃんが苦手だった
槙生ちゃんが苦手だった。少女小説家で、持つ言葉が多くて、我が強くて、姉さんのことが嫌いで、人見知りで、生活を送るのにあんまり向いていなくて、ふつうの人ならできることをわたしにはできないと言って落ち込んだり傷ついたりして、でも笠町くんみたいな衛星がいたり醍醐さんみたいな長い友達がいたり、書けばきりがないけどいろんなところが苦手だった。違国日記がいよいよ終わるよねと友達と話して、私は、槙生ちゃんのことは好きだけど槙生ちゃんが実際にいたとして絶対に仲良くなれなかったと思うからそれが少し寂しいと言った。友達は、まあ槙生ちゃんは周りにそんなに多くの人を作らない人だからねと言った。あ、伝わってないなと思ったけれどそのままにしておいた。槙生ちゃんについては、いてくれてありがとうという気持ちだよねと友達が言ったので、そうだねと返した。
槙生ちゃんが苦手だった。槙生ちゃんを見ていると私の嫌な部分が突きつけられるようで辛かった。これは私が槙生ちゃんに似ているからという話ではなくてむしろ逆で、私は槙生ちゃんとは全然違う人間で、槙生ちゃんのそこここが気に障って、ああ私って、漫画のキャラクター相手にみっともないよなと軽く頭を抱えてしまうのだった。掃除ができないというのも人見知りというのも人付き合いが上手くないというのも私も同じだけれど彼女の我の強さと言葉の多さ、思考の広さ深さは何をどうしても私にはないものだった。その、私にはないものをして槙生ちゃんは槙生ちゃんたらしめられているのだと思うと私は槙生ちゃんが羨ましくて、私もそうでありたかったのに、身の回りのことや人付き合いや人に合わせることが上手くないくせに、でもここまでずっと書き続けられることができていて家も買ってて友達にも恵まれていてなんなんだよって。ずるいよって。ずるいという言葉好きじゃないけどこれはまごうことなきずるいだよなと。漫画のキャラクター相手にずるいもなにもないし私が一方的に大人気ないだけなのだけど、でもずるいよって。こんなふうに描いてもらえてあなたはずるいよって。現実にいたらきっと生きづらくて世界が窮屈でままならなくて自己嫌悪することも落ち込むことも悲しむことも苦しむこともたくさんあって、きっとこんな人にはなりたくないし仲良くもなれないと思うのに、でも漫画の中ではこんなに魅力的になってて、ずるいよって。槙生ちゃんを好きな人がこんなにたくさんいてずるいよって。私だってこんなふうに、なりたかった。こんな人にはなりたくないし仲良くもなれないだろうと思うくせに、私は槙生ちゃんになりたかった。でも、じゃあやっぱり槙生ちゃんのこと好きなんじゃないの? と言われたらそれはそれで、なんというか、槙生ちゃんのことを好きだと言うことはたとえば「発達障害の人、かっこいい!」みたいな、「発達障害の人には特別な才能があるんだ!」みたいな、自分の中にあるよくわからないバイアスを目の当たりにしているようで(たとえばゲイの人ってかっこいい、才能ある!と言ってるのと一緒)もやもやと居心地が悪いのだった。槙生ちゃん好き! と手放しに褒めてしまっては、槙生ちゃんがきっと持っているであろう生きづらさの面を無視しているようで、私の中にある何かに蓋をしているようで、自分のいやなところや汚いところを見ないようにしているみたいで、やっぱりどうしても、100パー好き! とはならないのだった。そういうところも苦手だった。なんにも細かいこと考えずにこの人好きとか嫌いとか、ぺらっとカードめくるみたいにジャッジできたらどんなによかっただろうなと思うのに。漫画なのに。たかが漫画なのに。私は槙生ちゃんの一挙一投足に勝手にじくじくして、なんでこの人はこうなんだろう、と、巻を追うたびじとじとしていた。
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なんでこんなこともできないの、と実里は槙生ちゃんに言う。なんでこんなこともできないの。人と違うことしたらだめなんだよ。そうだよねって思う。言いたいよねって思う。私が姉で、槙生ちゃんみたいな妹がいたとしたら絶対同じことを言ってただろうと思う。実里の気持ちがよくわかる。ふつうから外れることは一大事で、あってはならなくて、責められるべきことなんだ。そうだよねと思う。そういう思考を持ってしか大人になれなかった実里のこと、本当に、共感する。長女だからというのもあるのかもしれない、長女は良くも悪くも親の言うことが真っ先に入ってくるものだから。そして、そんな自分の隣で悠々自適に過ごしている、ように見える妹がいたらそりゃむかつくだろう。親のようなことを言いたくもなるだろう。それが正しいと思うだろう。実里は最後までそうだっただろう。だからきっと実里は「自分の空虚を他人に押し付けるな!」と槙生ちゃんに指を差されてもピンと来なかっただろう。空虚ってなんなのか、これは空虚と呼ばれるものなのか、全然、実感もなかっただろう。私は槙生ちゃんにじくじくすればするほど、実里に心を寄せていったように思う。実里の話が聞きたかった。実里の言い分が聞きたかった。実里には実里の心のやり場があったことを知りたかった。だから槙生ちゃんが実里について「わたしの言葉がどんなふうにあの人を傷つけたのか もし今目の前にいたとしても知るすべはない」「わたしたちはお互い自分にない相手の持ち物がすごくうらやましくてすごく嫌いだったから」と言葉にしたのはなんだか救われたような気がしたのだ。槙生ちゃんが私の方に寄って来てくれたような気がして。もっと実里と槙生ちゃんが近づいてくれたらよかった。そうしたら許されるような気がした、槙生ちゃんのことが羨ましくてじくじくしてしまう、槙生ちゃんを苦手に思ってしまう私が許されるような気がしたんだ。
だけど物語はそうはならなかった。実里はどうしたって死んでしまった人だし、神の視点で彼女のことを掘り下げるのにも限界がある。彼女は死んでしまった。きっと朝のこと、彼女なりに深く愛していたと思うのに。
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私がよすがにしたのは朝だったように思う。槙生ちゃんのことが苦手で、実里が死んでしまっていたら、目が行ってしまったのは朝だった。多くの面でマジョリティで、素直と無神経が表裏一体になった女の子。両親を亡くして小説家の叔母と同居して趣味の音楽活動に深みが出てもいいはずなのに自分は全然パッとしないのだと衒いもなく言ってのける彼女のことを私はとても好ましく感じた。彼女の、無神経と紙一重な素直さのことが好きだった。今のは無神経だよね、というような彼女の発言も好きだった。暴かれているみたいで好きだった。朝はいろいろ無神経で思慮に欠ける女の子だったけれど、そんな彼女が主人公という位置にいて、みんなから愛されているのを見るのはなんだか救われた。こんな子でも主人公になれるのだと、なっていいのだと、言われているみたいでそれに私は救われた。
連載が始まった時、まだ読み始めて間もない頃私はまだ20代で、彼女のことも幼い女の子だなという印象だった。だけどこの物語が完結した時私は30代になっていて、彼女は18歳になって、その間に彼女はどんどん遠くに行ってしまった。心は子供のまま大人になってしまうことが恐ろしいと彼女は言った。私が18歳だったときにそんなこと、考えたこともなかった。周りと比べて自分は何もないのだと小さく絶望し、槙生ちゃんのことを思ってはいつまでこの人のそばにいられるだろうと人知れず涙を流した朝を、なんて大人になったのだろうと思った。そんなに早く大人になろうとしなくていいんだよって。同時に、この子もまた私を置いていっちゃうんだなと感じた。10代の子に私は置いて行かれてしまった。なんであなたまで行っちゃうんだよって。そして一周回って気づくのだ、私はこの子じゃなくて、槙生ちゃんの方に限りなく年が近いのだと。彼女を守り、導くべき槙生ちゃんのような存在に、社会的にもなっていかなくてはならないのだと。いつまでも無責任で幼い精神年齢のままでは否応なくいられないのだと。社会をより良くするために力を尽くしていかなくてはならないのだと。大人になってゆく朝に置いていかれてしまったとか嘆いてる場合じゃないのだと。
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この漫画の完結に寄せて何か書こうかな、と思ったとき、もっと真面目な考察とか、もっとかしこまった文体とか、にしようと思っていた。
だけど11巻を読んで全部やめた。どんなにみっともなくても幼くても甘ったれな感想でもいい、ただ正直に書こうと思った。槙生ちゃんは日記は本当のことを書かなくてもいいと言ったけれど、私は全て、できる限り本当のことを書こうと思った。それが、今まで言葉を尽くして登場人物を表象し、さみしさを、悲しみを、やるせなさを、誰かが誰かを思うことを、人が持ちうるあらゆる愛の形を伝えてきたこの作品へのお返しになるんじゃないかなと傲慢ながら思った。私も言葉を尽くして何かを伝えてみたいと思った。誰に届くのかわからないままでも、この作品に向き合うとき、自然と言葉が多くなるのだ。多くなってるな。
11巻は、人へ寄せる愛の気持ちについて、しょうこは「でも結局「好きだ」以外に何にも言葉がない」と語り、槙生ちゃんは「愛してるの一言だけでは言葉が足りない」と言う。二人は真反対のことを言っているようにも見えるけれど、これは二人とも同じことを言ってるんじゃないかと思った。
しょうこはそれから「だからあなたの「さみしい」という気持ちはすごく大事なんだと思う」と朝に語る。好きにも、さみしいにも、その二文字や四文字には収まらない気持ちがある。収まらない気持ちがあることを知っていて、だけど、しょうこや朝は「好き」や「さみしい」の一言に自分を託すのだ。それしか多分、今の彼女たちにはすべがないから。
対して槙生ちゃんは、「愛してるの一言では足りないけれど愛してる」とは、言ったりしない。小説家である槙生ちゃんは言葉を尽くして、考えて、考えて、そして言葉を尽くす人だ。そんな人は「愛してる」の一言に夢を見たりしないのかも知れない。言葉を尽くす人だからこそ愛してるの一言では足りない。「愛してる」の一言に逃げたりしない。けれどそれは言葉の限界を引き受けることだ。小説家なのに、いや、小説家だからこそ、言葉の限界をこの人は受け入れているのだ。この世界にはどれだけ言葉を尽くしても表現し得ない形の感情がある。
そして、言葉の限界に辿り着いてなお、それでもと言葉を尽くそうとしてきたのがこの違国日記だったんだよな、と思った。
これは私のための物語だっただろうか。昔はそう思って読んでいたかも知れない、だけど今はわからない。私が20代から30代へ、対して精神的成長もないまま生き延びてしまって、もちろん幾らかは成長もしたのだろうけれど、だけどその間に漫画の中の人たちはどんどんアップデートされていって、少し寂しかった。だからこれは私のための物語ではなくなっていったのかも知れない。それでいいとも感じる。私がもっと誠実に、感度を高く生きていればよかっただけの話だから。
だけど思うなら、読み終えてみて、これは若い世代の人に読んでほしい漫画だなと思った。ちょうど朝が中学生から高校生へと成長したように、今を10代として生きる人たちに読んでほしいと感じた。あなたたちは守られるべきで、尊重されるべきで、大切にされるべき人たちなのだ。あなたたちの感じていることはあなたたちだけのもので、それは誰にも侵す権利を持たないのだ。朝もえみりも難色を示していたことではあるけれど、それでも言いたい、あなたたちには無数の可能性があるのだと。どこへでも行けて、何にでもなれるのだと。
そして、それを大人は守る責務がある。だからこれは私たち大人のための物語でもある。若い人たちに何をしてあげられるだろうか、何を残してあげられるだろうか、何を差し出してあげられるだろうかと模索する登場人物たちを見て、私は自然と襟を正す。世界を良くするために、若い世代へより良い世界を手渡すために、私は力を尽くしていく責務がある。時に人付き合いしんどいな、やめたいな、人間であることも面倒臭いなと、槙生ちゃんのようなことを考えながら、悩みながら、それでも、それでも、それでも、と、奮い立たせて明日へ向かう。その人それぞれの足並みで、明日へ向かう。
そうして生きることは美しくてこんなに貴い。
槙生ちゃんが苦手だった。実里の話をもっともっと聞きたかった。朝の背中を寂しがりつつ見送りたかった。槙生ちゃんが羨ましかった。槙生ちゃんになりたかった。私は槙生ちゃんが大好きだった。