”息を引き取る”という言葉の意味

僧の説法を聴いた。

人は絶えず呼吸をして生きている。生きている間の1分1秒たりとも、生きている限りは省略できない。
当然だけれど、小学校の期間、中学校の期間など、ある年齢の時間をまるきり端折ることなんてできない。
それがたとえ、1分、1秒という最小単位であっても、一切省略することができない。生きている限りは。
そして、その省略し得ない時間の限りは、絶えず呼吸をしている。
人が亡くなるということは、呼吸が止まること。その呼吸の最後は必ず、吐息で終わると言う。
息を引き取るというのは、その最後の吐いた息を受け止めること。言葉としては、亡くなった当事者視点で使われることが一般的だが、その最後の吐息を看取った人や遺族が引き取るという意味合いでもあると言う。故人の紡いできた呼吸の締めくくり、拡大解釈すると生きてきた全てを受け止める、といった捉え方もできる。
家族や周囲の人たちは、故人の生き様を引き取って生きていくのだ。

今日聴いた僧の説法

といった話だった、おおよそ。メモしたかったけれど、流石に野暮なので、僕の弱い海馬に残っていたのはこんな感じ。

ここからは、この話を踏まえた私見なのだけれど、
僕は、元来、あまり故人からの意志を継ぐ、といった考え方は好きではない。遺書なり、生前に「頼んだぞ」という言質なり取れていれば話は別だけれど、そういった明示なしに勝手に遺族や身の回りの人たちが意志を継ぎ、それを背負うのはお門違いな気がするんだ。
勝手に背負うまではいいけれど、使命感みたいなものに駆られるのはちょっと違う気がする。

まあ僕は、勝手に解釈して、自分の中でその人から与えられた影響や自分の感じ取ったものを自分の生きていく糧にするのは、大いにアリだと思っているのだけれど。大いにアリどころか、身近な人や思い入れのある人の死から、自分の信条を改めたり、意味付けさせてもらっている節はある。節しかないかもしれない。
ただここで大事なのは、”勝手に”という部分。その人の意図かのように背負うのは、傲慢だと思うんだ。あくまで自分に与えられた時間は自分のものだからね。意味付けするのは常に自分でいい。

一方で、故人が身の回りの人にどう感じられていたか、どんな影響を与えたか、という部分は、ある種その人自身として現生に残る部分だとも思う。
特に明示されていなかった遺品や無形の何かでも、故人の残したものをどうするか(相続的な意味合いだけじゃないよ)、とかって話を、遺族が故人ならこうしたかな、とかって汲み取る意図みたいなものは、故人の意志と言っても過言ではないのではないか、生前のその人の在り方で判断されるから。


自分が故人となった時のことを考えると、身の回りの人たちが、「彼(僕)ならこうしたかな」「彼(僕)ならこう思うんじゃないか」と慮ってくれることはどれくらい僕の意思にそぐうんだろう。幸いまだ死去は経験したことがないからわからないけれど、どう生きて、人々の目にどう映っていたかが、死後になって自分の見えないところで答え合わせされるって仕組みは興味深い。

昨日は、機会や”今”の一回性について思いを巡らせていたけれど、今度は長期スパンで連続した選択がどんな人を成すのか、なんてことを考えさせられる。忙しなすぎやしないかい。


■エピローグ
僕は、時間について考える時、殊に人の逝去に際しては、記憶や走馬灯について思いをめぐせることが多い。
何を憶えているのかは、経験したことの中でも感情の動きの絶対値が大きいことが優先されるのではないだろうか。
僕は海馬がヘボいから、詳細なところは何か記録しておいたり、誰かに記憶しておいてもらうことにかなり頼っているけれど。

この世を去ることを永眠というように、死を眠りに喩えるのはわりと合点がいく。
眠りにつく度に僕は、今日の自分は去んでしまう、と思う。
時間の流れに区切りができることも、頭や体の疲れがリセットされた形で翌日が始まることからも、短期的な、擬似的な死だと思っている。

ちょっとこれは陰鬱すぎるけれど、タイトルも今日の話にしっくりくるし、落ちるように今日の自分が去んでいくときに聴きたくなる曲も添えておくね。

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