フリーランスと豊かさの責任とポーションコーヒー

すごく久しぶりにnoteを更新する気がする。実際久しぶりだ。友達との連絡すらおろそかになる日々だった。

フリーランスとして生存する

過去の記事でも度々言及していたが、私はフリーランスでなんとか食いつないでいる限界人間で、毎日悲鳴を上げたくなる気分で生きている。週5のフルタイムで働ける身体じゃないから仕方がない。

IT系フリーランスはインプットを切らすと詰む。別に新しい技術がどうこう、AIがどうこうという話をしたいんじゃなくて、手持ちのカードだけで勝負できる期間がかなり限られているということだ。

そういうわけで、今、私は小説と少しも関係のない仕事をしている。

  • Python

  • GAS

  • html & CSS

  • Wordpress

私が仕事で主に使っているのはこのあたりだ。長期で契約している顧客だと運用保守もやらせてもらっているから、もう少しマイナーなあれこれも扱う必要がある。

加えて、利用しているサービスの更新や改定にも対応しなくてはならない。これはただアップデートを行えばいいというわけではなくて、顧客に「なぜその必要があるのか」を説明するのも業務の一環だ。

端的に言ってキャパシティオーバーだった。4月から5月の前半はずっと目が回る日々だった。いや、本当に目が回っていた。自律神経の不調で。

私のやっている仕事は言ってみれば中小企業や個人を相手にしたIT便利屋さんだ。本来ITであればあるはずの上流・下流などの区分がない。常にワンオペで動いている。

じゃあスタッフを抱えてチームアップすればいいかというとそうもいかない。そこまでやるなら本格的に法人成りしたほうがいいが、今のところはデメリットのほうがはるかに大きく感じる程度の稼ぎしかない。

IT便利屋さんという価値を創出してなんとか食いつないできたが、その価値を維持するためのコストがそろそろ支払いきれなくなってきた。

そういうわけで、仕事を減らした。

豊かさの責任を負う

人は生活水準を下げることに耐えられない、という話をあちこちで聞く。

社会実験でデータを取ったのかは知らない。ただ、戦後イギリスでは生活水準を維持するだけの目的から多重債務者となる中産階級が珍しくなかったという事実を私は知っている。だから疑ってはいない。

仕事を減らすと収入が減る。手取りで大まかに70%まで落ちた。貯金に回していた分を生活に回すとしても少々辛いものがある。

心身の健康を損ねない範囲で働くために、生活の豊かさを手放した。相対的に今の私は豊かでなくなったことになる。思い返してみれば今月は本を買っていないし、外食もしていない。

もちろん、仕事を減らさないほうがよかったというわけではない。あのまま続けていたら体を壊していた自信がある。脆さを自覚できているだけ今の私は昔よりも頑丈だ。

幸い、生活にそこまで不自由はしていない。奨学金という何を奨励しているのか最後までわからなかった借金を背負っているが、それを除けば負債らしい負債もない。生存権は確保されている。

思うに、私が失った豊かさというやつは本来私が負える責任を超えたところにあったものなのではないだろうか。

今の私が健康な範囲で稼ぐことのできる金額、使うことのできる時間(これをざっくりとまとめて財産と呼ぼう)でできる範囲の贅沢から生じる豊かさに関しては、私は安心して享受することができる。

しかし、私の財産を超えたところにある豊かさに手を伸ばしてしまうと、自覚があろうとなかろうと、それは無理をした豊かさになる。腕が疲れ、肩が軋み、ついには乗り出した身が転げ落ちるだろう。

無理をしていたのだなあ、あの豊かさは。そう納得してみると、悲しいどころか、むしろ自分自身に申し訳なさすら抱く。私は私が責任を負えないところで私に無理をさせていた。

ポーションコーヒーを飲む

元々はコーヒー党だった。一時期は紅茶に凝っていたが、最近またコーヒー党に戻ってきた。

昔は贅沢をしていたから、自分で豆を挽いていた。徒歩圏内に豆を売っている店があったというのもあるし、コーヒーを淹れるという趣味を嗜む時間的余裕があったのも大きい。

今はポーションコーヒーを飲んでいる。

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このポーションコーヒーは便利で、タンブラーに2つ入れて牛乳を注げば飲める味のカフェオレになる。24個入りで660円だから、単価は27.5円。カフェオレ1杯あたり70円を切る。

液体だからアイスカフェオレならお湯がいらない。手も汚れない。タンブラーで直接混ぜておしまいだ。かなり楽ができる。

もちろん、味は丁寧に淹れたコーヒーと比べれば違いを感じる点も多い。ただ、インスタントな嗜好品としては十分なラインで、そして今の私に必要なのはインスタントでチープな嗜好品だった。

昔、祖母から「安っぽいものばかり食べていると舌が馬鹿になっていいものがわからなくなる」と教えられたことがある。どのみち、いいものを食べられる環境ではなかった。何を思って教えたのだろうか。

今日は祖父がカップ焼きそばを2つ食べた。昼食を2回取る習慣はないから、食べたことを忘れているのだろう。そんな彼でも若い頃に職場で散々食べたカップ焼きそばのおいしさは忘れていない。

介護と労働を両立させるためには、どうしても何かを犠牲にする必要があった。もしかすると手の届くところにあるのかもしれない豊かさを手放すと、未来の自分に申し訳なさを感じる。

自分自身がポーションコーヒーのようにのっぺりとした薄っぺらい味わいの人間になっていくのではないか。そんな自分が書いた作品は面白いのか。こういう嫌な気分の夜が最近は増えている。

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