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取り留めのない日記

アップロードという海外ドラマを見た。
死ぬと分かったらその直前に脳のデータをアップロードして、仮想天国の中で永遠に生きることができる。
このドラマを見ながら、中学の頃に私の見ている世界や感じ取るもの全てが嘘だったらどうしよう、と何故か不安になったことを思い出した。高度な技術で見せられている幻想で、実は私は真白なただの箱の中にいて「そう思わされている」だけだったらどうしよう、と。なぜそんなこと思ったのか分からないけど。
でもこのドラマを見ているとそれに近いことも起こりうるのかなと思う。SF系をあんまり見ないし、よく分からないけど高度なVRみたいなものとか特殊なスーツとかこういう設定はよくあることなのかな。
死ぬことってなんだろう。

先日お客様が亡くなった。何を思って過ごしていただろう。
慢性の心不全で老衰とのことだから家族も理解はしていて、悲しいという気持ちは私的に少なかったかもしれない。どちらかというと本当に長い間お疲れ様でした、ゆっくり休んでください、という方が大きい。お会いできて嬉しかったです、ありがとうご……と。
だけどお見送りの時には涙がでた、雰囲気だったのか?やっぱり悲しいのだろうか?
よく言ってた口癖を思い出す。ごめんなさいとありがとうをたくさんいう人だった。
死ぬってなんだろう。

「死」それは時にホラー、サスペンス、日常の中にある非日常的なこと、誰しも経験する結末、医療が進むにつれて遅らせられるもの、自然ではなくなっていくもの、動かないこと、そこに存在しないこと。
「死」はそれ以上でも以下でもない。孤独死はどう捉えるべきだろうか。
死は分からない。

周囲に影響を与えるもの。大切な人の死。そこにあったものがないということは人を不安にさせる。今までの愛情が向かう先が無くなればどうしていいか分からなくなる。混乱させる。大きな穴が開く。埋められない喪失感。そこで時が止まる。死んだ人は一緒に成長してはくれない。冷たい。触れられない。
生きていれば死ぬ。

「死」は悲しいことではない、かもしれない、必ずしも。だけど、「死因」は悲しみの大きさを変える。当人のことは分からない。けれど津波で思いがけず亡くなれば悲しい、苦しい。生きようとしていた人、守るものがあった人、やりたいことがあった人、明日があると思っていた人。他人に命を奪われれば悲しい。人生が短くなる病気は悲しい。自殺…
「何で私なの」「なんで今なの」が残るもの

知り合いの人の死、他人の死、ペットの死、芸能人の死、何処かの地域の誰かの死、アニメキャラクターの死、子供の死、大人の死…
ニュースを見ればどこにでも死がある。今もどこかの誰かがなくなっている。

私は一体死の何に興味があるのだろう。
分かっているのは死後の世界には今のところ興味がない。
「死」とは何か。


6月は夜も明るくていい。

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