むにゃむにゃむー
自分を見失った時、好きなものを大きな声で叫ぶのが良いと思う。
Twitterでも友達にでもなんでも良いけど
好きなものは好きと。
好きなものが分からなくなったら、休むか手当たり次第手をつけたら良い。
そんで好きな物、人、場所、なんでも、の好きなところをできるだけたくさん見つけて、どうして好きなのか自分でも分からなくなるくらいにはまればいい。
そこに他人の目はいらない。
〈けれど、それがもし、理解され難いものなら、打ち明けたら色々壊れてしまいそうなものなら、どうしよう?〉
例えば、私はミュージカルが好きということがあるけれどそこに他人の目はないだろうか?
常識的な好き、モテるための好き、好感度を上げるための好き、好きなあの人に近づくための好き、、、
それが自分の中で判別して使い分けるなら良いけど自分でも無自覚になったら?
(人は無意識的にその人に見せたい顔を見せるものだし、その顔もあの顔も私かもしれないけど)
自分の好きに嘘をつきだしたら、更に見失いそう。
〈だけれど、もし自分を問い詰めた結果、
〝理解され難いもの“にたどり着いたら?〉
こそこそしないといけないだろうか。
その気持ちを抱くたび肩身が狭い思いをするだろうか。
ここに居場所がないと感じるだろうか。
苦しくて生きづらいだろうか。
それとも堂々と、変わらず生きられるだろうか。
(この気持ちの裏にはそうじゃなくて良かったという安堵や、そうなりたくない抵抗があるだろうか。)
(そういう差別。)
(全然良いと思うよ、という人ほど〝普通″を求めるように)
他人の好きを咎めたりする権利は誰にもない。思うのは自由。
けれど、何かを超えると土足で踏み込まれることは往々にしてある。
そして私が踏み込んだこともあるだろう。
そうならないようにするには…?
どこまで受け入れられるだろうか。
時代は寛容になってきただろうか。
理解なんてできるのか。
大切な人のその部分は愛せるのだろうか。
それとも好きと拒絶が同居するだろうか。
気付いていないだけで本当は持っているかもしれない自分の中にある隠したい部分。
気付かないふりをしているだけの自分
どこまで語ってどこまで語らないか。
隠しすぎても守備が強すぎて影響がでるし、
人は孤独だから、ついわかり合いたくなるし、期待してしまうし、共有したくなるけど、、、
狭い裏コミュニティだけになら見せられる自分。
誰しもが持っているかもしれないよね。
とかなんとか。
むにゃむにゃ。
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