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森達也「A」感想

森達也の「A」を見た。出てくる信者にすごく純粋そうな人が多くて、こんな頭が良くて真面目そうな、でも社会的には生きづらさを感じている人たちの最終的な受け皿になったものがオウムだったっていう事実が本当に悲しかった。「戦争が起きて、人を殺しても勝てばその罪を問われることはない。それは矛盾ですよね……。そういうことをずっと考えてきた」とか「大学に入って、こういう人間がこれからの日本をつくるのかと思って絶望して三日で辞めた」とか、入信へのとっかかりそのものはあまりにも真っ当で、でもそれが最終的にはどうしようもなく誤った方向に振り切れてしまうのが。

きっと社会の不正や欺瞞みたいなものに耐えられない感受性と、そういう矛盾みたいなものについて理詰めで考えられるだけの知性があるがゆえに、こういうことが起きてしまうのだろうと思う。良い大学を出たとしても、そこを適当に看過したり割り切ったりできずに向き合ってしまう人は、結局社会的弱者なんだろうと思う。途中出てくるヒステリックな市民や警察が本当に典型的な俗物で、ああこういう人たちが幅をきかせてるから、この人たちはオウムに入信せざるを得なかったんだろうなぁと実感する。

「堅苦しいことはいいから、とにかく迷惑かけたんだから謝りなさいよ」というこの姿勢。あるいは、論破しようとしてくる。そうなると永久に対話ができない。だから最後には諦めて、こちら側が黙り込むことになる。反社会的な新興宗教のアジトが自分の家の近くにあったら撤去を申し立てるのは当然だし、オウムの起こした事件が悪である以上、市民やマスコミの立場は正しい。そしてその正しさを盾に、頭ごなしに人格否定みたいな攻撃をし続けて、自分が対象を叩く行為まで正当化するのは、今SNSとかインターネットで起こってることと本当に構図としては何一つ変わってなくて(むしろ顔が見えなくなってより陰湿になったのかもしれない)、ただ時代は変わっても人を追い詰める場所がリアルから電磁空間に移動しただけだなと思って悲しくなった。

大学のとき周りで哲学を勉強していた人たちも、今思えばここに出てくる信者みたいなタイプの人が多かったことに気づく。「なんで社会は、人々はこんな風なんだろう?」という思いでその疑問に対する答えを探して、必死に本を読んで理論を構築して、生きづらい自分自身を救おうとする。でも社会の方はそれを知らぬ顔で踏みつけていく。

哲学と宗教というのは、全く異なるように見えて、集団で何かの解を探そうとするという意味においては共通している、とそのとき教授が言っていた。ただ違うのは、宗教にはある一つの教祖なりの教えという解があることに対して、哲学は皆で色々な人の説を議論して、最も普遍的だと思われる最適解を探していく作業だというようなことを。あの信者たちにもオウムとは別のコミュニティで、麻原じゃない誰か別の師と仰げる人間のもとで、一つではない答えについて語りあう自由がもっとあればよかったのにと思う。


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