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『9割が女性患者の難病』にかかった『ボク』の話①

※この記事は少し長くなります。ゆっくりと読み進めて頂けますと幸いです。



「検査の結果が出ました。」

「これは難病になります。今は原因がわかっていないので、もしかしたら一生付き合うことになるでしょう。将来的に味覚障害になる可能性もあります。まずは保健所に行って、医療費助成を申請してくだい。」


23歳の春。

突然の宣告。

当時『ボク』は星付きのフレンチレストランで料理人として仕事をしていて、ゆくゆくはフランスで修行し、日本で自分のお店を持つことを夢に持ち、仕事に励んでいた。

そんな『ボク』にとって味覚は商売道具であり、生命線だ。
「味覚障害になる」という言葉は『ボク』にとって死刑宣告みたいなものだった。

(……なんで自分が?)

(……なんでよりにもよって味覚障害なんだよ)

自分の将来の事を考えると吐きそうになる。

「SLE(全身性エリテマトーデス)」

こう呼ばれてるこの難病は『9割が女性患者の難病』らしい。
生命予後は近年では改善されているみたいだが、何も保証はない。

この他にも

「シェーグレン症候群」

という疾患にもかかっているらしい。こいつが味覚障害を引き起こすそうだ。

自分が難病にかかった事が受け入れられない。

足がすくむ思いというのはこういう事かと肌で感じた。

そんな23歳の春。


『9割が女性患者の難病』にかかった『ボク』の話。





時はさかのぼり22歳の春。

就職を機に東京で一人暮らしを始めた。

と言っても実家を出て、兄の家に居候させてもらいながら学校に通っていたので、東京という土地に新鮮さは感じない。

でも初めての一人暮らしにはワクワク感と不安が入り混じっていた。

場所は山手線沿線の駅近にあり、自分には分不相応の一等地だ。

自分の年齢よりも年を重ねているこのアパートの家賃は、新卒で働く自分には少し無理をしている価格である。

家賃補助も出ないのにそこを選んだ理由は、職場へのアクセスを重視した為だ。

僕がこの春から勤めるのはレストラン。

そこは都内でも有数のフレンチレストランであり、世界的にもその名が知られたお店である。

そこに新卒で、つまり一番下っ端として働く自分には誰よりも一番早く準備を始め、誰よりも遅くまで片付けを行うことが求められる。

なので電車の時間に左右されないよう、徒歩で職場にアクセスできる必要があった。

もしかしたらそこまでしなくても配慮はしてくれていたかもしれない。

しかしこの時の自分は、そういう配慮をされては負けだと感じるくらい、意地っ張りだった。

そして仕事が始まる。

順風満帆…とはいかなかった。

やはり朝早くから夜遅くまでの勤務時間は、肉体的にも精神的にも大きな負担だった。

毎日の様に怒鳴られる。

この時の自分は自信過剰気味だった自覚はあり、思うように上手く仕事ができなかったことに自信が打ち砕かれていた。

しかし意地っ張りな性格だったので、なんとか食い付けていけた。

怒られても、しゅん…とならず、なにくそコノヤロウの精神で当たっていた。

学校のクラスメイトが同期入社していたのも精神的に救われていたと思う。

R(仮)と呼ぶそいつは、入社は同じ時期だが、学生バイトですでに働いていた経験があり、1歩先…いや、100歩先ぐらいリードされてたのだが、気心も知れた仲であり、切磋琢磨して仕事ができていた。

R(仮)は頭の回転が早く、要領がいい。人の懐に入るのも上手くて器用な奴である。

僕は違うタイプだった。

要領が悪く、人と仲良くなるのにも少し時間がかかるようなタイプだった。

それでも、仕事が遅いならその分睡眠時間を削って、早く仕事を始めたりすれば、いつかは追いつくだろうと思って頑張ることが出来た。

そうして半年ぐらいたった頃。

仕事の方も”少し”慣れてきた。

”少し”というのには理由がある。

実は働いているレストランは1階と2階で別々のレストランになっていて、同じ系列なのだが、メニューやキッチンのレイアウトは大きく異なり、別のお店とも言えるくらい、仕事のやり方が違う。

僕が入った時の新卒は1階と2階をそれぞれ数ヶ月毎に経験することになるのだが、僕の場合は1ヶ月ごとに移動となり、毎月違う職場で仕事をするという状況に陥っていたので、習得するのに手間取っていた。

そうしてやってくる周年記念のガラディナー。

ガラディナー(Gala Dinner)とは、クリスマスや大晦日のような特別な日に行うディナーの事である。

この場合は20周年を記念としたディナーになる。

20周年ということもあり、例年以上に気合の入った雰囲気だった。
しかも例年なら1日限定だが、この年は2日間ある特別な年。

ガラディナー本番もすごい雰囲気であったが、その前の準備期間からとてつもなくピリピリとした雰囲気であった。

スーシェフと呼ばれる2番手のシェフが、朝早くから夜遅くまで1人で黙々と仕込みをしている姿がとても印象的だった。

普段のスーシェフは全体を見て、仕込みが進んでいないセクションに入り仕事をすることが多いのだが、そうではなくひたすら自分の仕事をしている姿に僕は下っ端ながら、このガラディナーはとてつもないことになりそうだという予感がした。

そして予感は外れていなかった。

ガラディナー前日。

フランス本国からグランシェフがやってくる。

緊張が最高潮となる。

実はグランシェフとは4月の入社当初にご挨拶させていただく機会があった。
お会いするのは2度目だが、初めてお会いした時よりも緊張感があった。

世界的に有名なシェフが今自分の目の前にいる。

教科書に載っている偉人が自分の目の前に現れたような気持ちだった。

目標と言うにはおこがましいが、この人に近づくためにこのお店で働くことを決意したこともあり、同じ空間で仕事が出来ることにとてつもない幸福感を感じていた。

(余談ではあるが、この登場の直前にキッチンにある白胡椒はすべて隠された)

そして始まったガラディナー当日。

グランシェフがやって来た瞬間に比べれば、緊張は幾分か落ち着いた印象。

しかしながら、普段と違う特別なメニューになるので最初の方はベテランシェフ達からも戸惑いが伝わってきた。

こうした本番の場合、僕のような下っ端はあまり大した仕事はやらせてもらえない。

その分後片付け等に気合を入れないといけないわけで、遅い時間まで仕事をすることになるのだが、この日はなんと次の日の深夜3時位まで仕事をしていた。

しかも僕たち下っ端だけでなく、レストランの皆がそんな時間まで働いていた。

それだけとてつもなく気合の入ったガラディナーだった。

だがガラディナーは2日間ある。

つまり深夜3時まで仕事をして、その4時間後に職場に戻るということである。

電車も走っていないのでタクシーで帰る人もいたが、家に居られる時間なんて殆ど無いだろう。

徒歩圏内で帰れる自分でも、シャワーを浴びて1時間ちょっと寝れた程度だった。

実はこの時点では徒歩で通勤ではなく、自転車で通勤していた。

なので歩いて通勤するよりも短い時間で移動ができ、この時ばかりは無理して近くに住んでよかったとしみじみと感じた。

ガラディナー2日目。

朝の7時過ぎくらいにキッチンに入ったと思う。

全然寝れていないのに、不思議と疲労感はそこまで感じない。

普段とは違う状況にアドレナリンがドパドパと分泌されているのだろう。
少しハイになっている感覚はある。

他の皆も、シェフも普段と変わらない時間に来ていた。

眠そうにしている人もいれば、気合バッチリな人もいて、人それぞれだった。

そんな状況でもグランシェフがやってくれば、一気に緊張が走る。

ランチの時間にでもなれば、もういつもの調子だ。

そしてランチが終わればまたガラディナーがやってくる。

ランチが終わった後、休憩すること無く仕込みに入る。

これを乗り切ればつらいのは終わると自分に言い聞かせ、気合を入れ直す。

やってくるガラディナー本番。

2日目になると、もう皆がオペレーションに慣れており、かなりスムーズに営業ができていたように思う。

この日の売上はなんと1日の売上で過去最高を記録したらしい。

皆がこのガラディナーの為に死力を尽くした結果だと思う。

疲れで少しハイになっていたかもしれないが、この状況でも皆笑顔だった。

とても素晴らしい経験をさせてもらえた2日間だった。

このような死線を乗り切った後も営業は続く。

お店は年中無休なので、ガラディナーの次の日も通常営業だ。

体の疲労感は抜けないが、それでもこの経験が自分を強くさせてくれたと思う。

変わらず朝早くから夜遅くまで仕事をするという日々が続いていた。

そうした日々が少し続いた。


そしてある日、異変が起きた。


その日もいつものように夜遅くまで仕事していた。

自転車に乗り、帰路につく。

帰りがけに夜食を買って、家で食べて、シャワーを浴びるのが僕の日課だった。

この時はファミリーマートで好物のいなり寿司を買って帰ったのは覚えている。

そしてそれを家で食べて、明日も頑張ろうと自分を鼓舞したのも覚えている。


記憶はそこで途切れている。


そこから自転車に乗ったかどうかすら定かではない。

買ったいなり寿司を食べたのか、家に帰ったのかも何もわからない。

ただ、どっちも叶わなかったのだろう。

だって

次の記憶は病院のベッドの上なのだから。

この出来事から始まった異変は現在に至るまで僕も苦しめることになる。

これがなければ、違った人生を歩んでいたかも知れない。

でもこれがあったおかげで出会えた人やモノがあることも事実である。

たらればなんて考えても仕方がない。

そんな風に割り切ろうと思っても割り切れないのが人情だと思う。

僕もそんな人間の1人だ。

これは備忘録である。

『9割が女性患者の難病』と言われている「SLE(全身性エリテマトーデス)」や「シェーグレン症候群」「皮膚筋炎」等の難病にかかった『ボク』の過去を振り返り、マイノリティな難病患者の中でも更にマイノリティな「男性SLE患者」としての情報をお伝えしたいと思う。

==②に続く==

こんにちは。
改めまして、KOH@メタメタ系男子と申します。(sle_koh)

僕はこれを書いている現在「膠原病科」で入院治療を行っています。

その様子は「コロナ禍における膠原病科の入院生活」という記事で確認できますので、よければご覧頂ければと思います。

一応そちらの方では現在の自分の様子を伝えています。

そしてこの記事では難病になるまでの経緯を綴っていきたいと思います。

つまり過去ですね。

上の方にも書きましたが、「男性SLE患者」はマイノリティな存在です。

およそ9:1で女性の方が多い難病であり、多くの女性が今もなお苦しんでおられます。

ネット上でも様々な情報があり、同じ「SLE患者」としてお気持ちは痛いほど共感できます。

しかしながら、僕は男性側の情報が少ないと感じています。

僕が発症した当初、検索した時にそう感じました。

そしてその状況は発症してから7年目になる今もあまり変わっていないように感じます。

少ないながらも僕のような「男性SLE患者」はいらっしゃると思います。

予備軍まで含めたらもっといらっしゃるかもしれない。

そういった方たちの為に、自分の話がなにか参考になればと思い、始めたのが「コロナ禍における膠原病科の入院生活」であり、この記事になります。

こっちの方は不定期になるかもしれないですが、少しお付き合いいただけますと幸いです。

お気軽にスキやコメントをください。

喜んで反応させていただきます。

長くなりましたが、ここまでご覧頂きましてありがとうございました。

読んでくださった皆様の1日が良いものでありますように。

ご覧頂きましてありがとうございます。サポートして頂きましたものは、難病の子供支援に蓄えたいと考えております。よろしくお願いいたします。