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吊るし上げられた男

出会い
先日懐かしい人に出会いました。

現場に向かう途中でコンビニに立ち寄り、缶コーヒーを買い、外の喫煙所でタバコを吸ってました。ふと店内を覗くと、ブックコーナーで立ち読みしている一人のオジサンに目が止まりました。知ってる人です。

え~と、誰だっけ・・・

記憶をたどると、誰だかはすぐに思い出したものの、名前が出てきません。
考えているうちに、その人は店の外へ出てきました。

「校長先生?」

その人は私の呼びかけに、すぐに反応し、いたずらっぽい笑顔を見せました。

私が小学校のPTA会長を退任した年に、新しく赴任してきたT校長先生でした。
アフリカのどこかは忘れましたが、内戦中の第一線でも暮らした事がある、変わった経歴の持ち主で、豪快で型破り。子供たちにも好かれそうな無邪気な笑顔の校長先生で、会長を退任してからも、時々地域の行事などで会う事があると、他愛のない世間話のできる気さくな人で、先生らしからぬ雰囲気が私は好きでした。

しかし、その豪快さ、型破りさが仇となったとも言える、大事件をやらかしてしまうのです。それは赴任一年目の夏休み明けの事でした。

事件の予感
当時、私たちの地域には不審者情報が多く、校庭内の樹木や、見通しの悪い部分が無いように、いわゆる死角になる部分を無くすように教育委員会から御達しが出ていたそうです。
早速、T校長先生はそれを実践すべく、樹木伐採の承認をもらおうとPTA会長へ電話を入れました。その時のPTA会長は、私が会長の時の副会長で、私の後任を引き受けてくれた、男気があり、信頼のおけるAさんでした。

Aさんは、T校長の申し出に、快くOKをしたのですが、実は二人の考えには大きなズレがあったのです。その事が地域を巻き込む大騒動を起こす原因になったのでした。

その考えのズレと言うのは、T校長は、敷地内の見通しを悪くしている樹木を幹から切り倒す考え。一方PTA会長Aさんは、見通しの悪い樹木の枝を落とす枝払い程度、だと思っていた事です。私が会長のしていた前の年、見通しの悪い樹木の枝払い作業をした事があり、Aさんもその事が頭に残っていたようで、T校長からの電話は、てっきり枝払いの事だと思い込んでしまい、OKの返事をしたのでした。

樹木と言うのは学校や公園、その他の様々な施設、街路樹などもそうですが、個人の御宅でも切る前には十分な注意が必要です。道路拡張等で立ち退く時など低木1本から資産価値として評価の対象となるし、価値の無いと思われる物でも、植えた本人の思い入れがありますから、切る前には関係者に十分な確認する必要があり、それは常識と言えます。しかし、T校長にはその注意が足りなかったのでしょうね。

樹木伐採
了解をもらった校長先生は、すぐに出入りの業者を呼び、わずか2日ほどで、中庭の樹木を何本かと、グラウンドのトラック脇の楠の木すべてを根元近くからチェンソーで切り倒しました。

子供たちは家に帰ってその事を話し、近所の人たちは世間話の中でその事を話し、樹木伐採の話は瞬く間に地域に拡散しました。
その事を聞きつけた保護者、卒業生、教育委員会など関係者が続々と学校へ押しかけました。

中庭には卒業生の植えた記念樹もありました。しかし、無残にも記念樹は切り倒され、さらに無残なのはグラウンドの楠の木です。運動会の時の見学者の日陰として愛されてきた樹齢何十年と言う大木は一本残らず、きれいさっぱり見事に切り倒されていました。見通しは抜群に良くなりましたが、その代償は大きく、T校長には苦情と非難殺到あっと言う間に炎上状態です。ありとあらゆる人が校長を叱責しましたが、中でも記念樹を切られた卒業生たちの怒りはすさまじかったようです。
やがて校長の処遇をめぐり、PTA臨時総会まで開かれました。

PTA臨時総会
元々はよそ者である私には関係の無い事件ではありましたが、地域住民の一人、前会長として臨時総会に出席する事にしました。

臨時総会の参加者の多くは敵意に満ちた目をしており、戦闘前のオーラで会場は異様な熱気を帯びており、こんな雰囲気で総会ができるのか?と心配しながら、私は最後列の席に付きました。

PTA会長のAさんから事件の経緯が説明され、市の教育委員会の教育長、T校長先生、そしてAさんの三名、それぞれ謝罪の言葉が述べられました。引き続き、質疑応答ですが、質疑応答と呼べるものではなく、保護者と卒業生からの一方的な非難と叱咤、そして怒号の嵐でした。Aさんは商売もしており、地域でも慕われている存在とあって、Aさん自身はあまり攻撃はされませんでしたが、実行犯とも言える校長先生は、戦艦大和の最期を彷彿させるような集中砲火でした。
アフリカの戦地という修羅場を経験した校長先生とて、さすがに耐えられなかったようで、涙目になっていました。校長先生を擁護できる要素はありませんでしたが、可哀そうなほどの攻撃でした。

しかし、そんな紛糾した総会も、私には多少の違和感もありました。
と言うのは、記念樹を切られた卒業生の気持ちは理解できます。卒業生からは、学校には愛着があった、思い入れがあった、記念樹も思い出があり、自分たちがこの学校で育った証だった・・・そんな意見がでてました。
そうだとすれば、そういう気持ちがあるのなら、卒業して大人になっても、たまには学校に来て、木の手入れをするとか学校行事に参加するとか、登下校時の子供たちの見守りをするとか、あっても良いはずです。
少なくとも、私が会長をしている時に、積極的に学校に協力する姿勢のあった卒業生はほんの一部です。初めてみる顔もたくさんいました。そんな人たちが、大勢で一人を相手に、涙を見せるまで責め立てることができるのでしょうか?ここぞとばかりに校長を非難する様子を見て、釈然としないものがありました。今問題になっているSNSでの誹謗中傷と同じです。
しかし、この場が丸く収まり、事態を収束するには、吊るし上げられている三名が一方的に受ける攻撃に耐えるしかないのです。

後でAさんから聞いた話ですが、木を切る前に、教育委員会の担当者と一緒に、切って良い木と残す木との確認をしたらしいのですが、総会の中で教育長からその話の説明はありませんでした。また、校長からもそれについての弁明はありませんでした。
恐らく、ヘタに言い訳なんてしない方が良い、という判断だったのでしょうね。
どうこう言っても、切ってしまった木が元に戻る事はないわけですから、総会は諦めムードのまま閉会しました。

前任の校長は3年間、前々任者は5年間勤務されましたが、T校長はあと2年ほどで満了するはずだった定年を待たずして翌年退職されました。教育委員会は、保護者と卒業生の手前、T校長の依願退職、という形でケリをつけたようです。


現在
それから約10年ほど経つでしょうか、時間の経過とともに、地域の人たちも事件の事は忘れ、その話をする人はいなくなりました。でも、秋が来て、運動会の時期がやって来ると、日陰の無いグラウンドを見て、皆、事件の事を思い出します。楠の木の大株から出たひこばえはもうだいぶ大きくなりました。しかし、日陰を作るにはまだまだ何十年もかかりそうです。

T校長は、当時の住まいを離れ、今はよそに住んでいるとの事で、私と出会った日は、たまたま用事で来ていたそうです。

「お元気そうですね。やっはりあんな事があっては、この場所には住みたくはないですよね?」

私の質問に、T校長、いえ、元校長先生は無言のまま、いたずらっぽい笑顔を浮かべていました。

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