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「うっせぇわ」に社会的な意味づけは必要ない…好きな曲は好きに歌うのが良いと思う

こんにちは、彗光でございます。
最近Twitterなどで書かれている、所謂ボカロ曲「うっせぇわ」についての記事を見て私が思うことを書いてみました。

流行っている曲を無理に社会的に解釈しなくてもいいのではないか

「うっせぇわ」について書かれているコラムなどを読むと、「歌詞が暴力的で今の子供たちの心理を~」とか「これは子供の大人に対する~」みたいな、何か大きな意味を捉えようとするものが多いように感じます。

これに関して私が思うことは、「確かに歌詞の表現方法がちょっと激しいものがあるが、社会的にとらえる必要はないのでは」というものでした。

「何故、流行っているものが人に受け入れられているか」を追求したい気持ちというのは分かります。ヒット商品を作ろうとする人は市場の動向を気にするものですし。
でもそれが「大人たちに対する~」という枕詞から始まる文章で語られてしてしまうのは非常に良くないことだと思うんです。

そもそも「音楽」というのは、「自分の想いをかたちを変えて表現するもの」だと私は考えています。
だから、誤解を恐れずにいうのであれば「何を歌ってもいいのだ」と思うのです。

誰だって好きな音楽を聴くときに「社会への影響は考えない」だろうし、「とにかくこの曲が聴いていて・歌っていて好きだから」聴くはずなんですよね。

だから変な話、難しい話にする必要はないのだと思います。「好きな曲は好きだから聴く。そして、そういった人が多いからこの曲は流行っている。」
ただそれだけの話だと思うのです。
それ以外の話をするにしろ、ベースになるのは「人は好きな曲を聴いている」ということで、そこから離れてはいけないと思います。

「うっせぇわ」を聴く人の気持ちを代弁しているつもりで、逆に追い込んでいないか

最近「うっせぇわ」は「子供対大人」という構図で批評を書かれることが増えてきたように思われます。
こういったことが引き起こすことは、「『うっせぇわ』を聴いている子供は、大人に対する反感意識を持っている」という勝手な印象を作るということです。

別にそんなことを思わずに聴いている人だって沢山いるはずです。
むしろ、何も意図せず聴いている層の方が多いと思います。

「うっせぇわ」を紐解き、今の若者の置かれている状況を分析しあたかも「若者の味方」を語っている文章は沢山ありますが、
それは逆に言うと「若者の敵」を明確にしてしまうことになると私は考えています。

さらに私が特に気になっていることに「歌い手さんがまだお若い人だ」ということがあります。
「うっせぇわ」擁護で「大人批判」をしている文章が蔓延していったら、歌い手の彼女を「うがった目」で見る人も増えるのではないでしょうか。

それが気のせいならいいのですけど、「ああ、あのうるさい曲を歌っている人なんだ」と変なレッテルを張る大人が増えないか、私としては心配です。

そもそも、ボーカロイド曲を作ったり歌ったりするということは

個人的な解釈ですが、「ボーカロイド文化」について書いてみたいと思います。
そもそも、「ボーカロイド」で歌を作る・歌うということは、元々は「自分に足りない要素を技術で補い、自分の世界を作る」ことだったと思います。

「曲を作るのはできるけど、歌ってくれる人がいない…でも、ボーカロイドを使えば、自分の思っている通りに歌ってくれる」という、楽曲制作側としては非常に夢のあるツールが「ボーカロイド」だったと思います。

そして、そういった「強い思い」と供に完成された曲を聴き、「歌ってみたいな」という「純粋な思い」に魅かれて挑戦することが「歌ってみた」だと思うのです。

だから「ボーカロイド文化」というのは、「自分の強い思いをかたちにするもの」…そう私は思っています。ごくごくシンプルな思いの集まりだと思っているのです。

昔から「ボーカロイド」に関連してできた曲は、市場にあるような曲よりも表現の幅が広かったように思えます。
「カゲロウデイズ」も「ロキ」も、「千本桜」も…とにかく「作った人の思い」がシンプルに集約されているのです。

「うっせぇわ」もそれだけのことだと思います。誰かの思いが形になって、その思いに感銘を受けて、それを「歌いたい」という思いからできた音楽なのだと思います。
もちろん、シングルとして発売しているので「ニコニコ動画」にただ投稿されるものとは違うということは分かるのですけどね。

でも、それだったらメジャーな「メタル」や「パンク」などの曲にも、「社会規範に逆らうもの」が多くあると思うのです。
そういった曲も同じように「社会対立」や「若者の思い」をくみ取る対象として扱えばいいと思うのに、どうして「うっせぇわ」だけなのでしょう?

「社会」を見る前に「音楽」として見るべきだと思う。

だからといって「うっせぇわ」が最高にいいものだ、ということを私は言いたいのではありません。

確かに表現に暴力的な言葉があり、内容に関しても「自業自得感」があると思います。
親御さんたちが「子供」に歌わせたくないと思うのも、とても分かります。

でも、それは私の感情を含め、個人的な「好きか嫌いか」というだけの話だと思うのです。
わざわざ「若者」と「大人」という大きな主語で語られるものではないと思います。

個人の自由で歌ったり聴いたりしている「うっせぇわ」に社会的な意味づけをして、自由に音楽を選び聴くことを阻害しないでいただきたい…これがこの文章の述べたいことです。

多分、誰の解釈も望んでいない人だって、沢山いると思うのです。
各々に各々の「うっせぇわ」があるはずなのですから。

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