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とても悲しいことがあったときは

自分のホームページでも、noteでも。
さらに言えば、ブログを書くこと以外のお仕事も。

最近ちょっと休みにしている。
今日は久しぶりに記事を書いている。



最近、とてもとても嫌なことがあったのだ。
数日引きずるようなことで、そして今も継続して物事は進んでいる。



昔は、そんなときでも「やることはやらないと」と思っていた。
頭を酷くかきむりながらブログを書いたり、自然と涙が出る状態でホームページの更新をしていたっけ。



でも、今はそういうことはやらない。
〆切があったり、他の人に迷惑をかける可能性があるなら、その仕事は最優先に、いい気分でこなせるように頑張るけど。

それ以外は…休むのだ。
休んだ代償が、自分が損するだけのことならば。




ごめん、ちょっと自分のことを話させてほしい。
あんまり、読んでいる人に関係ないことは書かないようにしているんだけど…



簡潔に書くと。



何年か前。
自分が死にたいなと強く強く思う時期があった。本気で。

それは、ネットに自分の仕事を誹謗中傷されて、
両親は祖母が亡くなったことを皮切りに離婚を決め込んで、
当時の彼女が原因で、すべてのお金を失ったから、だ。



とにかく、嫌なことしかなかった。
その対処をする「明日」がくるぐらいなら、死んだ方がマシだと本気で思っていた。



それでも、自分は「やらなきゃいけない」嫌なことをひたすらやり続けた。
深夜の歩道橋を眺めて「落ちれたら幸せだろうな」とか、考えながら。

両親の間に入って、話を聞いた。
誹謗中傷の解決のために弁護士に行った。警察に行った。
彼女に何が悪いのか、きちんと説明した。



でも、何も幸せにはならなかった。
全部「やらなきゃいけないこと」で、「やりたいこと」ではなかった。



「生きるのしんどいな」と思った日々は、加速して悪い方向に進んだ。

警察や弁護士は、私の仕事が怪しいらしく、取り合ってくれなかった。
精神不安になった両親から、寝ている間に何十件も不在通知があった。
自分のお金が、返ってくることはなかった。



「つらい気持ちを引きずれば、つらい方向に進む。仮にやらなきゃいけないことを、こなしていたとしても」



これは、私が仕事で話をしていることだ。
こういった「自然の法則」みたいなものを、身を持って体験したのだ。

「つらい気持ちのまま、きちんと生きたとしても。解決なんかしないんだ」って。




だから。





悲しいときは。つらいときは。
「やらなきゃいけないこと」を止めてでも、「自分が生きよう、幸せになろう」と思えるようになることを優先するようにしている。





これが、私が「自分の平穏」と「やらなきゃいけないこと」を天秤にかけたときに「平穏」を選ぶ理由である。
というか、「やらなきゃいけないこと」を効率よく進めるためにも「平穏」が大事だと思うんだけどね。




つらい時には、つらさに抗わない。
そのまま、可能な限り流されようと思う。

「つらさ」から抜けだそうと、努力はする。
でも、それは強引に「立ち向かう」ことではない。

自分で「いやなこと」を“頑張って”考えないようにする(でも、自然と思い浮かんでしまうものよね)。
無理に楽しいことをしようとか、無理につらい気持ちを抑えながらやることをやろうとか。思わないようにする。



そして「答えを出そうとしない」。
自分のモヤモヤを急いで解決しようとしない。

変な話、答えは自然に出てくるはずだ。
何もやらなくても、「何もやらない」という選択をした結果の「結論」が待っているはず。



要は「僕らは生きている限り、次に進む」



そう。生きていればいい。生きてさえいれば。




僕らは何もできなくても、次に進むことができる。



きっと、僕らは止まっていても周りは動いているのだから、この世界は形を変えていくのだし。
きっと、僕らは止まっていても世界は進んでいくのだから。




だから。



無理に。
何かを明らかにしたり。
誰かを断罪したり。

自分がいい方向に変わろうとしたり。
強がったり。
心配をかけさせないように努力する。

そんなことはしなくていいと思うんだ。


どんな状況であれ、それが「生きる」ということだと思うから。
それが「いつでも最良」である必要はないと思う。

その瞬間に、出来る限り「生きればいい」んじゃないかな(もちろん、頑張れるときは頑張ることも必要さ)。



悲しいことがあったときは。

無理しないで、流されるのもいいんだと。

僕は思う。

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