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短編映画「演じないを演じる」後記

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2022年10月23日付 netxuyasaiさんによる評 映画『演じないを演じる』

2022年10月22日に伊那市創造館自主制作映画祭に上映された短編映画「演じないを演じる」の制作について、振り返りました。
実際には聞き手はいませんが、読みやすさを考えて、仕込んでみました。発言はある程度、本人のご発言を踏まえています。

制作者:女優隈本とKO三組(コーサントリオ)
 隈本由夏:猪本ゆり役、歌の担当
 大住尊光:石原イワン役、脚色と演出の担当
 篠田鉱平:岩鬼猿児役、音楽の担当
 倉方志磨:GM役、補助の担当
 酒井高太郎:偽監督役、カメラオペレーティングと編集の担当
作品紹介:イナシティポップ市で企画されている超大作映画「コーコーモンキー」のオーディション会場から物語は始まる。会場はハラスメントの現場でもあり、映画監督からの理不尽な要求に志願者は戸惑う。ダブルバインドな状況で演技と映画の苦境に直面した人物たちは果たして。いい加減なピントや小道具の見切れなどの破綻、曖昧なサウンドとアンニュイな表情。それでも地元のユニットが熱量を持って映画に取り組みました。

ーーー演じない? ドキュメンタリー映画ですか?

(酒井)逆に聞きますが、フィクションとノンフィクションの明確な線引きをあなたたちはできますか? 「全ての映画は、演じているものと演じてないものの記録映画である」という意味ではドキュメンタリー映画で、ほぼ全ての実写映画は同等の資格で、例えフィクションと名乗っていても、ドキュメンタリー映画に過ぎないのではないのでしょうか?

ーーーえっと、よく分からないのですが。

(酒井)製作の動機としては、時事問題として、映画界のハラスメント問題が関心の中心にありました。今年(2022年)も映画界や演劇界から数多くのハラスメントの告発もありましたが、まだまだ苦しんでいる方も多くいらっしゃると思います。そうしたハラスメントの情況を劇中に持ち込み、俳優部のみなさんにリアクションを取ってもらいました。また、安倍元首相の暗殺ウクライナ情勢、コロナ禍などの人心不安も加味したつもりですが、あまり表には出ていなかったかもしれません。

ーーー社会派映画であるということでよろしいでしょうか。

(酒井)「社会派」とラベリングすることで、あなたたちがわかったような気になるなら、それでもよろしいですが、私は、そのラベリングをハラスメントに感じているということを忘れずにいてほしいものです。

ーーーほかのみなさんの話をお聞きしたいのですが。

(隈本)「演じない」というのは俳優にとって永遠の課題であると思っています。結局、子ども、動物、 素人が一番自然であるので、俳優もそこに寄っていかないと思っています。その点、今回のオーディションを受ける2人はほぼ素人。そういった意味では自然に存在しているはずです。ですが、監督の求めているものは違う。求められてものを演じながらも、さも、演じていないように見えるように、演じてほしい。なんだか良く分からないかもしれないですが。俳優をやっていてそこが一番難しいところだなと思いました。今の時代ではあーゆう、パワハラ的なことはほとんどないらしいですが、監督や俳優の心のなかや頭のなかでは、今でもこの作品のような葛藤はあるのではないかと感じました。

撮影直前の様子

ーー演技のオーディションという設定は面白いですね。

(酒井)別に面白くないと思います。むしろ凡庸であると思います。オーディションの設定がオーディションの設定でなくなり、ただのハラスメントの泥沼や演技合戦、疲労と無気力のルーチンに化していくことの方が面白いと思います。今回は時間もなく、俳優部をそこまで消耗させるわけにはいかなかったので、とても簡単な方法として、シナリオなしで、俳優部に即興でエチュードをやってもらい、その様子をそのまま撮って編集するという方針でした。が、一度、集まってもらい、試しに「設定あり」「台本なし」でやってみて、私は面白かったのですが、俳優部からは「シナリオが必要」という要求が出されました。要求を呑まないとハラスメントで訴えられそうだったので、その集まってもらった時の試し録りで俳優部から出てきた言葉をほぼそのまま使って、少しだけ流れを創作して、第1稿のシナリオとしました。が、そのシナリオも俳優部からダメ出しを喰らい、特に大住さんとのやりとりで推敲を重ねていきました。また撮影当日は、撮影に入る前に座っての本読みをして、俳優部と演技のテンションや間、言い回しなどについて打ち合わせをして、シナリオの微修正もしました。

ーーー台本は酒井さんが書いたんですね?

(酒井)何を聞いていたんですか。台本は、誰も書いてません。みんなで集まった際に俳優部に憑依した言葉をキャメラで記録し、私はその文字起こしをしたに過ぎません。私は書いていません。私も日々疲れているので、創作部分も無意識のまま、ほぼ自動筆記で書かれたものと考えてもらいたいです。

ーーーほかの話題にしましょう。大住さんはどのようにこの作品に取り組まれたのですか?

(大住)登場人物がそれぞれ思っていることや心のうちで考えていることがありますが、それが作中で明確に説明されるわけではないので、それを演技で表現できればと思いながら演じました。今回は以前より出演者が増え、映画全体としてできる幅が広がっていたのでその点が面白かったです。 前回前々回と比べひとつの部屋で完結する話なので、撮影についてより深く考えながら撮影を進めていけたのも今回の映画の張り詰めた空気の演出の一端を担っていたと思います。

少数での撮影

ーーー「イナシティポップ市」というのはどういう意味があるのでしょうか? 未来の伊那市なのでしょうか?

(酒井)「イナシティポップ市」というのは、大住さんの強い推しのあった設定でした。私としては「うーん」と頭を抱え悩んでしまう設定で、やめたかったのですが、やめさせてもらえませんでした。俳優部のみなさんは、イナシティポップ市のノリでやってもらえたのだと思います。私はいまだに「イナシティポップ市」にどういう意味があるか聞かされていませんし、聞く気もありません。市の名前に意味なんてあるのでしょうか。そういう名前の市だった、そういう名前の市でしかなかったという事実だけがあるものだと思っています。今回は、準備の時間がなく、屋外ロケはほとんどできませんでしたが、 やっぱり伊那の風景を舞台に撮りたい、という思いを作品完成後に募らせているところです。

(大住)伊那市は今日も相変わらずです。

(隈本)伊那で住んでいる俳優として、私はこの土地を舞台にした作品を撮りたい。そう思わせられるようなエモーショナルな土地だなと思っています。 伊那市創造館自主制作映画祭に私は出席したことがないので、次は必ず参加したいと思います。

春日公園での撮影

ーーー「コーコーモンキー」も謎です。

(酒井)謎ではありません。歴とした超大作映画のタイトルです。「孝行猿」のモチーフの導入に当たっては篠田さんから提案がありました。最初の集まりでは、このモチーフを扱えず、宙に浮いてしまいました。「孝行猿」を空中分解させるにはもったいないと思ったので、「コーコーモンキー」として着地してもらいました。また、さらにその裏ストーリーとして、三猿を仕込んでみましたが、こうした猿の話は、伊那のような田舎の人以外には、あまり通じないネタでもあったかと思います。

(篠田)「コーコーモンキー」はもう少し伏線回収したかったですね。またいつかやるか。あと、アニメも検討したいです。

ーーーエンディングのパクリ疑惑が浮上していますが、どのように受け止めていらっしゃいますか?

(酒井)受け止めるも何もパクってません。と同時に完全にパクってます。私の中の私でない誰か、私の中に棲みついている映画の悪魔がちょっとした悪さをしたのだと思います。ご指摘のパクリの元ネタは大林宣彦氏の「時をかける少女」(1983年)になるのでしょう。筒井康隆の原作も含め、20世紀の映画史、文学史に名を刻む、優れた作品です。映画は、小学校の頃に二度ほど観ており、数年前(2020年6月8日)にも一度観直しています。その際に記したメモにはエンドロールにも触れており、何か印象も残ったのでしょう。ほぼ無意識のうちにパクっていますが、だからと言ってパクっていないと言い切れるものではありません。

(篠田)エンディングにプロモーションビデオみたいなものを流す構想は、最初聞いた時は流れに合うのかと不安でしたが、曲が入って絵が入って、一番好きなシーンになりました。このへんは酒井ちゃんの妄想の勝利ですね。

(酒井)エンディングの音楽について、私の希望として、「曲はシティポップ調、竹内まりやけんかをやめて」に、YMO「君に胸キュン」、キャロル「ファンキーモンキーベイビー」のテイストがあるような?」というようにシナリオに書いておきました。篠田さんには、この難題をうまくこなしてもらえたと思っています。

バッドトリップ

ーーー実際の撮影にはどのぐらいの時間を要していますか?

(酒井) 撮影はほぼ1日で行いました。撮影はテストなし、リハなしで、ほとんどNGもなく、撮影したテ イクはのちの編集でもほとんど使い、カメラオペの私としてもだいぶ早撮りを意識しました。念頭にあったのは成瀬巳喜男早撮りです。私にとって映画は、芸術でも文化でもなく、単に近代のやや顕名的な労働に支えられた複製的で一品的でもある生産品です。したがって映画の付加価値を次のように考えています。

映画の付加価値=映画の質/労働人数/労働時間/ギャラ/その他制作コスト
映画の質=シナリオ*段取り*現場熱*本番の単なる偶然

(酒井)また、いうまでもなく映画の質は、シナリオと段取りで7割がた決まってきて、現場の熱やその組の連帯感などが2割ぐらい、残り1割が「演技」を含む「本番の単なる偶然」に左右されるといった内訳です。また映画の(付加)価値は、例え映画の質が良くても、時間をかけすぎたり、人手をかけすぎたり、お金をかけすぎたり、ギャラの高いスタッフや役者を呼んだり、機材にお金をかけすぎることで、目減りしていきます。つまり、コストがかかり過ぎれば、そのコストをかけた一作品の相対的な価値は下がってしまうのです。この点は、おそらく多くの商業映画や自主映画に関わる業界人が誤解している点です。いい役者を呼んで、しっかり機材やポスプロに金をかけ、多くの人に関わってもらえば、映画の質がその分だけ上がっていくと勘違いしています。私に言わせれば、そのようなコストによって「映画の質」は僅かには高くなるかもしれないが、相対的な価値を下げてしまう弊害の方が大きいのです。演技の良し悪しや、演技のプロかアマかなど、ただの運やガチャであり、それ以外の映画の質を高めるファクターに比べれば、演技の質など誤差の範囲です。もちろん消費市場を作るため、商業映画一般の観客は、上記のコスト部分(労働人数、労働時間、ギャラ、その他制作コスト)がどのぐらいかけられたかを映画の質として評価するようこの100年ぐらいの間に馴致されてしまっているので、そのことにあまり気づくことはありません。業界(の一部の成功者)が食べていくために、しっかりコストをかけていくことは推奨されており、私も必要なコストはかけて映画の質を保つことに異論はありませんが、かけ「過ぎ」ることで価値を下げないようそのバランスに常々苦慮をしています。

ーーーあの、いいですか?

(酒井)つまり、「演じる」ことと「演じない」こととは、キャメラ(視線)の前に立たされた時(座らされた時)の本質的な事柄にはなり得ません。キャメラの前に何かしらの動作をしてそこにいること、口の震え(セリフ回し)も含めて血液の循環、皮膚の痙攣、眼球運動、僅かな呼吸など人間として動物として震えながらそこにいることの方が尊いと思われます。私は演者のその尊厳を撮影することにしか興味がなく、演技の質には残念ながらほとんど興味がありません。尊厳を損なうくらいなら演技をしようとする意思すら要らないと思っています。ただ今回の俳優部のみなさまはシナリオの成立過程に関わってもらい、自分の役とセリフをそれぞれに反芻しながら、キャメラの前で驚異的なまでの集中力で何かを表そうとしていただいたことには敬意を示したいと思います。しかし、私が尊いと感じるのは、演技ではなく、隈本さんや大住さんや篠田さんの震える存在です。自主映画とはいえ、自分たちの仲間以外にもご覧いただける観客の皆様もいるため、少しは「映画の質」を高めるよう自分なりの努力はしたつもりですが、自分自身は、俳優部の尊厳をフィルム(デジタルデータですが)に定着できたものと思っています。

(篠田)隈本さんの、ニコニコしながら「私たちがここにいるのは」ってキレるシーンがすごく好きです。何度も見てしまう。 大住さんは今回あまり感情の抑揚ないキャラで、よく存在感だせるなと感服です。次回、もっと違うキャラ見たいです。 何本か作ってきたつもりでしたが、まだまだ技術的な発見や試行錯誤の多い作品になりましたので、その辺を次回に活かしたいです。

(酒井)一方で、

ーーーまだ続きますか? 監督の話は、何のことを言っているのかさっぱり分からないのですが。

(酒井)何度でも否定しますが、私は監督ではありません。忘れないようにお願いいたします。一方で、例えば猪本監督のような監督によるハラスメントをどのように無くせばよいのでしょうか。今回の物語の中でハラスメント問題に私たちは結論を出すことをしませんでした。ただ単純に、監督によるハラスメントを無くすためにはどのようにしたらよいか、と問われれば、監督がいなくなればいい、監督がいなくても映画制作ができるシステムを作ればいいと答えます。俳優によるハラスメント、録音部によるハラスメントなども同様の対処をしてみてはいかがでしょうか。つまり「そして誰もいなくなった」その廃墟のような状態で映画をどう撮るかが今問われていると私は考えています。私が今年観た映画で最も感銘を受けた「偶然と想像」がなぜ小スタッフ制を取っているのか、監督クレジットがあのヘンテコな位置にあるのかを考えた時、同様の問題意識を感じました。

ーーー大体お聞きしたいことはお聞きできました。ありがとうございました。

(酒井)一点、補足をお願いします。劇中劇ということには、「演じない」というテーマとともに、私は強くこだわりました。つまり、 劇中劇の設定にしてしまうことで、下手くそに演じているのか、実際に演技が下手なのか、演技をしていないのか、しているのかを曖昧にすることができるのでは、という仮説を持っているの で、それをこの作品で実験したつもりです。また、私からは特別な演技指導はせず、演技については俳優部にほぼ任せ、監督や演出という役は放棄し、撮影の段取りやカメラのセッティングなどに気を回していました。ただ、俳優部には、先程述べた理由から、アクションよりもリアクションを撮ること、セリフを吐く者よりも吐かれた者の方を撮ることを予告はしていました。また演技前後をやや長めに撮影 をしておいて、その演技と演技でない中間を編集で採用していくという方針もほぼ最初から決めていました。

GMからの目線

ーーーはい。ありがとうございました。以上でインタビューは終わりにします。

もう一点、謎の存在「GM」について。彼女は監督の傍に席を構え、このオーディションとはほぼ無関係に、仕事をしながら時を過ごしています。偽作品「コーコーモンキー」のゼネラルマネージャーとして、私が演じる偽監督とも呼応しています。GMは、私の妻が演じており、「演技をしないよう」実際にパソコンで仕事をしていてください、と言っておいたのですが、御三方の演技が面白くて仕事に集中できなかったようです。彼女が描く世界線がこの演技の迷宮を解く鍵になっていると個人的には思っています。

ーーーはい。ありがとうございました。ふう。

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