短編映画「勘太ロボの逆襲」後記
2021年10月16日に伊那市創造館自主制作映画祭に上映された短編映画「勘太郎の逆襲」の制作について、振り返りました。
実際には聞き手はいませんが、読みやすさを考えて、仕込んでみました。
制作者紹介:KO三組(コーサントリオ)
尊KO:大住尊光:勘太ロボ役、唄担当
KO平:篠田鉱平:K氏(おやっさん)役、音楽担当
KO太郎:酒井高太郎:カメラオペレーティング、編集担当
映画紹介:
伊那に勘太郎が帰ってきた!? 激動の昭和から平成を飛び越え絶望の令和に降り立った勘太郎。ロボットに身をやつしながらも、あの健気と侠気は忘れていなかった。家事労働に勤しむ勘太ロボに理不尽なコマンドが入力されたとき、ロボはどうアクションするのか。ローカルな川を背景にしたロケーション。ヴァナキュラーなサウンド。そしてさやけくも怪しい月がこの小さな映画を起動させます。
題字:藤井璃石
ーーー勘太ロボ? 勘太郎? 何者ですか?
(酒井KO太郎)伊那谷で生まれたローカルヒーロー、あるいはダークヒーローと考えてもらって良いと思います。映画としては、滝沢英輔が監督した「伊那の勘太郎」(伊那節仁義)を最初の勘太郎としており、わたしたちはこの映画を「ファーストカンタ」としてリスペクトしています。
ーーー時代劇ですか?
(酒井KO太郎)大きくは時代劇と言えるかもしれません。幕末に伊那谷を駆け抜けた天狗党にも材が採られています。このファーストカンタでは、勘太郎は一度は簀巻きにされ天竜川に流されたものの、なぜか蘇って故郷の伊那谷に錦を飾ろうとしながら、渡世人である自らを悔恨し、また因縁のある親分への復讐を試みるというようなモティーフがあります。ファーストカンタからして、既に逆襲は始まっているとも言えそうです。また、長谷川一夫が演じる勘太郎は、蘇生したダークヒーローでもあり、無双のように現れており、ゾンビ映画の要素もなきにしもあらずといったところです、勘太郎は、なんか憎めないいいやつなんですけど。
ーーー任侠ものですか。ゾンビものですか?
(酒井KO太郎)まあジャンルはいいじゃないですか。SFも意識はしてますけど。今回、私たちが手掛けた短編映画「勘太ロボの逆襲」は、勘太郎というキャラを現代のロボットに転身させて、動かしてみて、リバイバル映画としてリメイクしたということになります。
ーーーざっと観てみましたが、「逆襲」? ではないですよね。
(酒井KO太郎)「逆襲」ではないかもしれませんし、「逆襲」であるかもしれません。ガンダムに「逆襲のシャア」ってあるじゃないですか。「逆襲」って、なんかいい響きだと思いませんか。最初は勘太ロボが何かに逆襲するつもりで撮り始めたのですが、逆襲する相手も探せず、また、思ったように動いてもらえず、逆襲を完遂できていないのかもしれない、というのも映画作りに対するキャラの逆襲としても考えています。初期のプロットでは介護ロボットや家事ロボットの叛乱ということを考えていました。また、老害に対して若者が反旗を翻すという内容も頭にありましたが、そうした葛藤がこのような形で映像に現れてしまっています。
ーーー天狗党に天竜川、何か天誅とも関係があるのでしょうか?
(酒井KO太郎)あるような、ないような。勘太ロボが何のために現世に派遣されたのか、リサイクルされてK氏(おやっさん)の前に現れたのか、判然としません。K氏に天罰を下すために天から降りてきたのかもしれません。月からやってきたのかもしれません。一方のK氏も何者なのかよく分かりません。一説によれば(大住尊KO説)、K氏は勘太ロボの生みの親とも言われています。また、勘太ロボがシリアルナンバー「1943」を持つのに対し、K氏は「0001」の初期型ロボットあるいは「0000」のプロトタイプという説も聞いています。
ーーーファーストカンタとみなさんが呼んでいる1943年の映画「伊那の勘太郎」を観ていないと、リメイク版の謎も解けないということでしょうか? 伊那と勘太郎には何か因縁があるのでしょうか?
(大住尊KO)私は生まれも育ちも伊那市ですので、勘太郎という人名や歌には馴染みがありました。しかしそれ以外、彼が何者であるのか、この作品を作るまで詳しいことは一切知りませんでした。そのズレが、現代版勘太郎を演じる上で良い意味で不気味さや得体の知れなさとなってあらわれたと思います。同時に、長年かかっていた伊那からの呪縛のひとつが溶けたような気がして、少しの気持ちよさと、名残惜しさがありました。
(酒井KO太郎)勘太郎というキャラや戦前の映画が放つ「愛すべきデタラメさ」を、この地方の言葉で言い表すと「与太っこ」ということになるかと思います。勘太郎映画のエッセンスを大事にしながら、リブートという悪戯を仕掛けてみたつもりです。ただし、「与太っ小僧」としての勘太ロボやK氏のデタラメさは、この短編だけを観ても楽しんでいただけるものと思ってます。わたしたちの友人であり、いつも鋭い批評をいただいているnetxuyasaiさんも元ネタとの関係も含めわたしたちの短編映画をご覧になっての文章を書いてくださっています。
ーーーそもそも伊那という土地やロケーションには、呪いや魔力が備わっているということでしょうか。
(大住尊KO)ここ数年、伊那市駅周辺に新しいお店やスペースができてきており、少しづつ新しい風が入ってきているように思います。それらが(あくまで個人の意見ですが)僕が知りうる限り最も空が低く、重たく、暗い伊那市という街とどう共生していくのか、そして伊那市自体がどう変化していくのか、とても気になりながら見ています。
(酒井KO太郎)この映画祭に出品した私の第1作「実録オヤジの背中」の主な舞台となった酒井家実家がちょうど撮影のタイミングで解体されることになり、解体直前のガランとした実家をこの勘太ロボの前半のメインの舞台として使っています。そういう意味では酒井家の記録映画のようにもなっています。こうした廃墟性というのはいつの時代のどんなところにも現れているものですが、私は伊那の土地柄としてこのような廃墟性にも注目しています。西欧美術にはsublime(崇高さ)という文脈で廃墟を鑑賞する伝統があります。伊那にもこの「崇高さ」は備わっているのですが、別の意味や理由があるとわたしは考えており、その糸口がこの短編映画制作というワークを通じて見えてきてもいます。
また、主に高遠町の個性的な橋などをステージに見立てて殺陣のシーンなどを撮影してみました。伊那っぽさをフィルムに定着できたのではなないかと思っています。
ーーーテーマ曲や音楽もジワジワとくるというか、ゾワゾワする感じがあります。
(篠田KO平)
今回は、制作の前にまず勘太郎旧作をプロジェクターで観る会を開きました。伊那に暮らしていながら初見でありましたが、子供の頃から慣れ親しんだ勘太郎のテーマ曲がザラザラのモノクロの画面から流れてきて、言いようのない違和感と共感と感動を覚えました。この奇妙な感覚は他では味わえないものだと思います。
さて、そのテーマ曲をどうやって使っていこうかと思っていたところ、「じゃあ似たのを作って」とまさかのオーダー。あまり似せては失礼なパクリになるし、似てなければ伝わらない。しばし頭を抱えておりましたが、さすが慣れ親しんだメロディーのせいか、風呂場で鼻歌を繰り返しているうちに「似ているけれど別物」の新テーマが誕生、主演大住の歌声を吹き込んで完成に至りました。これを聞いてニヤリとしてくれるのは伊那の人だけだと思いますが…そこも楽しんでいただければ幸いです。
(酒井KO太郎)思えば「似て非なるもの」というのは、この短編映画のテーマでもあったかもしれません。元ネタとは似て非なる、長谷川一夫が演じた勘太郎とは似て非なる、逆襲とは似て非なる、人間とは似て非なる、ロボットとは似て非なる、映画とは似て非なる、伊那とは似て非なる、というあたりです。
ーーーえ? これは伊那でも映画でもないということですか?
(酒井KO太郎)そうかもしれないし、そうでもないかもしれない、ということです。ご覧になったみなさんは、この映画らしきものの中で多くの橋を目撃することになることと思います。この映画のもう一人の主役は「橋」であると言うこともできるかもしれません。伊那や高遠に住んでいる人たちは、「あの橋」「この橋」というように普段見ている橋だと感じることもあるでしょう。でもそれは本当に普段見慣れている橋でしょうか。先に申し上げたように、橋は勘太ロボとS氏がそこで演技することで、ステージ、舞台としても機能しています。しかし、わたしたちの日常において橋イコール舞台でしょうか。おそらく違います。誰も橋の上で演技などしていません、あるいは演技しているつもりもなく日常的に渡りながらやり過ごしています。わたしたち制作者にとって、映画は鑑賞するものではなく、映画は行為です。映画をつくるという行為を通じて、橋を舞台にすることができます。舞台となった橋は、鑑賞するみなさんの日常にある橋のようでいて、映画の中で勘太ロボやS氏がすったもんだを演じている舞台のようでもある。日常に非日常性を与える、日々訪れている場所を聖地化する、俗なるものを聖化する、映画にはそういう魔力のような力が備わっています。そうした魔術や聖化する力というのは、先に申し上げた西欧の「廃墟」の見方に近いものです。その意味で、日常的な「伊那」といえるかもしれないし、日常的な「伊那」ではなく「伊那のようなもの」といえるのかもしれません。映画という橋は、このふたつの「伊那」と「伊那のようなもの」をイコール(=)ではなく、ニアリーイコール(≒)で結んでくれるものであると言えるでしょう。さらに言えば、
ーーーえ? よく分からないお話はまだ続くのですか?
(酒井KO太郎)さらに言えば、この短編映画「勘太ロボの逆襲」は映画でしょうか。わたしたちは誰からもお金ももらわず、誰かに見てもらうことの保証もなく、この映画を自主制作というスタイルで制作しています。また、わたしは監督という行為を否定しています。あるいは監督を反省的に、そして批評的にとらえることで制作の現場から「映画」を考え直すために映画をつくっています。いわば「映画」によって映画を自主的に制作させられているという情況です。映画の魔力や呪いによって映画を作らされています。そこには監督なる主体的な行為はありません。勘太ロボが誕生してからというもの、初期の脚本では勘太ロボが「オイラはドラマー」のように現れ、ムーンスティックを振り回すという、私的にはお気に入りの設定だったのですが、その勘太ロボはメンバーに却下され、日の目を見ることなく「没」していきました。その後、改稿し、味わいの異なる脚本を2本書いて、というよりも勘太ロボに書かされて、より人情味のある1本がメンバーに採用されています。その採用及び不採用の過程でまた1人の勘太ロボがあるいはもう1人のS氏が闇の中に没して逝きました。このような映画制作あるあるは愚痴ということではなく、またわたし一人の経験ということでもなく、今回も一緒に映画づくりに取り組んだKO三組の他の二人も似たような経験をしています。つまり、こう演じたかった演技プランであるとか、このように聞かせたかった効果音やサウンドであるとか、浮かんでは消えていったイメージや創意があったはずです。そうした死屍累々とイメージの累積の上に「映画」は君臨するように現れています。わたしはこの王様の座にいる「映画」を引きずり降ろそうとしています。なぜならわたし自身も切り捨てられ、死屍累々の一人に過ぎないと感じているからです。自主制作という行為は、その意味で、呪しき行為であるとわたしは考えます。そして王様に奪われた「映画」という行為を自らの手に取り戻す崇高で虚しい行為でもあるのです。映画であろうとするものを、「映画ではない」と無理にでも否定するのはそのためでもあります。余談ですが、近年話題になった映画「桐島、部活やめるってよ」(2012年)や映画「カメラを止めるな!」(2017年)がゾンビ映画や自主映画を踏まえた愛おしい作風になっているのは、自主制作映画が孕んでいるゾンビ的な情況と構造をなぞっているためでもあるのでしょう。
ーーーはい。あの印象的な題字についてもお聞かせください。
(酒井KO太郎)はい。与太話はこのぐらいにして、題字のお話をしたいと思います。編集しているソフト「iMovie」で使えるフォントからタイトルを生成するという方法もあったのですが、今回は肉筆にこだわりました。わたしたちが作ろうとしている映画がデタラメでフワフワしたものということもあって、何か確かなもの、洗練された技術とイメージを導入してバランスを取りたいという想いもありました。藤井師範に題字の主旨を説明し、依頼をしたところ快く引き受けてくださいました。成果品のデータ納品という方法もあったかもしれませんが、わたしは筆が文字をなす過程も収録したかったので、藤井師範が主宰する書道教室で撮影を試みて、その場面も挿入しました。いくつかの字体で数枚書いていただいて、うち一枚を採用しています。その過程でも反故になった字たちがあったことは申し添えておきます。また、いうまでもなく映画「七人の侍」など黒澤映画の題字のイメージを伝えて、藤井師範に依頼をしています。
ーーーよく分からない話もありましたが、いろんな話を聞かせてください、ありがとうございました。
(酒井KO太郎)ありがとうございました。ステンレスのザルを三度笠のように被り、農業用マルチを回し合羽として纏った勘太ロボの、不気味でいて、愛くるしい存在をこの短編映画から感じていただければ幸いです。
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