20世紀映画のエンドロールとして -濱口竜介の映画たち-


はじめに,あるいはおわりに

映画が嬉しいのは,それが複製芸術であるために何度も何度も繰り返して,観ることができるようにつくられていることで,その反復性によってわたしたちは20世紀の過去を21世紀に取沙汰することができる.そこにアウラはないのだろうか,この問いについてはここでは一旦措いておくが,「そこに愛はあるのかい?」と問われれば,ここでは,たぶんあるだろうと答えておきたい.
ところで映画はそんな事情から,これまで世界でおそらく百万作規模の桁数で作品が製作されてきただろうし,映画館だけの上映をみても,すべての過去の作品をひっくるめば百億回規模の桁数で観客を動員してきただろう.ひとことでいえば,映画は何度も何度も繰り返し反復して体験されてきた.これがさらに天文学的な数字に近づくかどうかは未来の映画の製作体制や未来の観客たちの態度によるであろうが,この膨大な映画群を,ただ一本のかけがえのない「映画」ととらえることはできるだろうし,百億回を超える「映画」の経験は,個々人を超えて「人類」のたった一度きりの体験としてとらえることもできよう.まるでひとつの大きな宇宙に散らばり群がる天文学的数字の恒星を眺める,ひとつのちいさな惑星としての地球があるように.
そのように考えたとき,濱口竜介が21世紀に入り20年のうちに監督した作品のうちの10本程度の映画に対する,たかだかわたしのうちから発したこれらの感想など取るに足らない映画体験ではあるが,そのたったひとつの「映画」にとってみれば,濱口なしにまさにこの「映画」になることはないし,「人類」のうちにわたしもその1人として加えてもらいたいとも願う.
それでもこのただ1本の「映画」は,始まってはいるとは思うが,終わってはいないだろうかという疑問が湧いてくる.それも半世紀以上前に「終」「終幕」「THE END」などのエンドマークが出ていたのではないだろうか.このかけがえのない一本の「映画」としては終わっているものの,「映画」の名残や余韻がロールされるクレジットや回想のようなオフショット,メイキングのうちに流されているのではないのだろうかという予感がある.もちろんこの「映画」には明確な終わりの刻印など示されていないのだから,もしかすると,このエンドロールを眺めているうちに本編に関わる重要なショット(あるいはショット群)が撃ち出されるのではないか,と余韻の中にもはらはらさせるあの感覚が予感としてないこともない.この予感があるために,21世紀のわたしたちはこの「映画」をついついだらだらと席も立たずに見続けてしまう.
「映画」の本編を,特にそのはじまりの頃を,懐かしんで回想するとき,それは芸術あるいは複製芸術である以前に大衆的な見世物でもあり,悪戯心にあふれた実験でもあり,偏愛としか呼べないような技術愛好でもあったと思える.真面目な芸術の面をして,これこそが「映画」と迫られ,それが泣くことも笑うこともできない2時間程度の映画であったときには,観客の立場からすれば,いささか戸惑ってしまう.その映画は「映画」のごく一部であるかもしれないが,「映画」ではない.しかし,これこそが「映画」といえる映画などあるのだろうか.
厳密には,そんな映画などないと言い切れる.しかし,そこが映画のデタラメなところでもあるのだが,大きな一本の「映画」からすれば,ささいな映画であっても,それが映画史的な批評性に即したとき,映画は「映画」を撃つことができる.「映画」とは映画史であるが,目の前のこの映画が映画史の全体を蘇らせることがある.あるいはその映画の,そのたったワンショットが映画史に肉薄することがあり,そのうちのさらに一瞬にのうちにこそ「映画」が感じられることがあり,映画に感動することがある.

ここに述べた映画の感想は,その映画を鑑賞して2-3日のうちにわたしが記した感想をほぼそのままのかたちで掲載している.急ぎ記したものであるから誤字脱字もあり,読み取れない文も多かったことから,今日の時点までに少し手だけ加え,言葉を補い,体裁を整えたものである.しかし,手を加えたところで,これらの感想は拙く,粗いのであり,今読んでも恥ずかしいほどの「映画」音痴な箇所も多々ある.それらも削除すれば何も残らないから,すべてさらけ出すことにした.参考までに各感想の末には当初の感想の記録日を付した.劇場でみた映画は,そのことを本文に記しているが,特記のないものは,おおよそ,ミニシアター・エイド(Mini-Theater AID)基金のストリーミング配信により自宅で鑑賞したものである.決定的なネタバレはしていないつもりではあるが,映画を鑑賞する前に読むか読まないかは読者に判断を委ねたい.


懐かしい

『何食わぬ顔』(long version / 2003年)

当然ながら人間の顔面には面白さがあって,本作はその面白さにも貫かれている.
前半の劇は,後半の劇中劇へと回転しながら展開する.全編のカット数は540カット程度で,尺に対して多すぎず少なすぎずのカット数ではある.が,高速モンタージュから長回しまで,長短のカットがまんべんなく散りばめられており,ショットとしても顔面のクロースアップからロングショットまで,長短さまざまな距離が使われている.羽田空港大井競馬場のシーンでは,おそらく望遠レンズが使用されており,遠距離から俳優たちの顔面を抜いている.
転がるのはサッカーボールだけではない.闇に紛れる喪服のパンツの上には,白シャツが浮かび,右に左に転がるサッカーボールを追って3人の男があちらからこちらへと翻る.ボーリングに若者が群がる.移動撮影の機材としてのレールやドリーの代わりに車椅子が動き出す.モノレールが揺れをともなって動いている.馬がコーナーを回り,エスカレータは回転をともなう上下動を繰り返す.丸テーブルの周囲をキャメラは回り出す.
サンドイッチは四角でもあり三角でもある.正方形に焼かれたパンはスライスされ,その後にどう切られるかによって,直角三角形にも長方形にもなりうる.サンドイッチも前半と後半で二度登場する.いずれの三角形も角が立っており,おむすびの様にコロコロと転がりだすことはない.
角ばったものが回るとき振動が起こり,摩擦が発生する.道やレールを転がる音,8ミリキャメラの中でフィルムが回る音,タイヤが路面を擦る音どもが,場合によっては耳に差し障るような音たちが収録され,映像に合わせて,時には映像とずらされて,掃きだされて観客に迫る.そこに波に揉まれるような心地よさを感じられなくはない.
乗り物は動きと回転に合わせ揺れている.地球は回って動いているせいか揺れており,地震が起こる瞬間がこのキャメラにも収められている.こうして揺れたり回ったりする力はどこからやってくるのか.多くの評者が既に指摘しているように,不在の画面が続く.兄であり本来の監督である者「野村」の不在がある.競馬場の丸テーブルも繰り返されるが,後半の劇中劇では一人消えている.空港からはボランティアのスタッフが消え,ミヤザキという男や恩師と呼ばれる者は画面に登場しない.あるいは登場しているのかもしれないが,観客の眼には.それとして映ることができない.
消えたものを追うように,いくつかの人物は走り出す.地下道で,園路で,空港で,彼女らと彼らには,動き出す動機があって走り出す.無くしたもの,消えたものを追っているのかもしれない.この作品や劇中劇『何食わぬ顔』も不在の監督のために走り出し,エモーションとモーションが同調しだす.馬が走り,顔の連続があり,振れるような音響の連続とともに,辞書の朗読が駆動する.
夏の物語のせいか,「夏」の意味が開陳され,「懐かしい」などの言葉の意味が続く.この長いシーンにおいて,観客は「ナツ」から「ナト」へ,「ナナ」から「ナニ」へ,そして「何食わぬ」に続くものと期待する.しかし「何食わぬ」の意味は現れず,聞こえない.けれども,期待する観客が目を瞠り,耳を澄ますとき,映画そのものが回りはじめる.「いたたまれない空間」が観客席を覆い尽くすことがないように,そんな観客の願いと期待が映画に籠り出す.トイレに席を立つことの不在,空の缶ビールが積み上げられることの揺らぎ,そうした不在と揺らぎによって,何食わぬ顔を装った映画の中に,観客は不在に揺らぐ場所を譲られ,与えられている.観客がその場所に着くと,その場の人物たちはどこか懐かしいような顔になっている.
(2020/06/21)


時には狂犬のように、時には埋められる猫のように

『PASSION』(2008年)

横浜が映る。みなとみらい、山手、本牧、京急、扇島などが人物たちの後ろには見えている。彼女ら彼らは個別でもあり共通でもある受難に苦しんでいて、横浜の風景は、基調としてどこまでも優しくなく、劇中の言葉を用いれば、人間たちの暴力を許してはいない。猫が老衰し、埋められ、墓標が立てられる。その後に横浜の都市景が流されるが、よそよそしい建物たちは全てが墓標のようであり、夜には無数の墓に明かりが灯り点描をなすかのようである。終盤、女教師の果穂(河井青葉)と長髪の健一郎(岡部尚)は、扇島と思われる朝の埠頭に突如として現れる。いったい二人はどれほど歩いたのだろうか、付近には人影もなく、煙突やタンクはヒューマンスケールを超え  、まるでジョン・フォードの西部劇のモニュメントのように聳えている。二人の間にはランドマークとなるタワーがやはり墓標として現れている。なお持続するフィルムは回ったまま、二人のキスの唇の接点から、東扇島火力発電所のものと思われる煙を朦々と立ち上げる。が、そこに灯った火はすぐに消火し、海の水平が果穂の先に見えている。
口には水も含まれる。ボルヴィックのペットボトルの水は、真実の泉から湧出する水に擬して、二人の男によって飲まれる。赤ワインの女である貴子(占部房子)は、二人の男とは異なり、おそらく真実も本音も語っていないが、その罰としてか、男にシャワーの水を浴びせられる。火照るような口元の火を消火し、あるいは火に油を注ぐかのような二重の意味が付される。ベランダでは、雨も降り、煙草に火が灯り、それがきっかけであるかのように、そこでのキスも始まる。マンションの屋上では、怪しく光るフリスビーで会話のキャッチボールがなされるが、フリスビーは放り上げられ、都市を落下していく。ちょうどその頃、誕生日の夜を独りで終えようとする果穂は、切った爪をティッシュにくるんで投げるが、ゴミ箱にはうまく落下せず、踊り始める。彼女はいつまで踊り続けたのだろうか。
学期末の小テストは12月15日に行われる。日直に野原と瀬田などとあるのは、助監督たちの名前を遊びで使っているのだろう。彼女は暴力に関しての持論を生徒を相手に一席ぶつが、どこまで届いたのだろう。彼女が振り上げた手は、生徒を打つことはなく寸止めされる。しかし、この日の朝、寝不足のためか彼女は倒れる。ヴォイスオーバーでバスに揺られるショットが映されるが、以降の学級での出来事は悪夢の中の出来事のように半端であり、黒板に書き殴るチョークの筆圧と声だけが上滑りをしている。彼女ら彼らはタクシーに乗る。他に乗客がいないバスに乗る場面がその前後にも現れる。カップルを乗せたタクシーとクラクションで導入されたタイトルは、再生の機能が壊れた一時停止のように、いつ動き出すのかという緊張を孕んでいた。乗り物に揺られた彼女ら彼らは、本当にその映画の風景を生きていたのだろうか。乗り物によって別のどこかへ連れ去られてしまったような不自然さがそこにはある。
彼らはパーティーの後、じゃれあっている。ジゴロのような風貌の智也(岡本竜汰)は、「好き」かどうかを女性だけでなく、男性の友人二人にも向けている。彼がゲイではないと言い切れるのだろうか。シャワー室にスコップをかざして向かったのは、愛する親友の毅(渋川清彦)を女性の魔の手から救うためではなかったのか。その女性の貴子も作家でおばでもあるハナと瓜二つであり、バカな毅にはいつも朦朧とした混濁があり、彼のうちでは貴子もハナも混ぜこぜにしているようでもある。そして貴子とハナはレズビアンのようでもある。つまり、本作で問題になるのは、異性間の恋愛ですらない。夜のから騒ぎや朝の起き抜けの寝ぼけ眼、そして若さと受難からくる疲労や混濁によって、性差なく関係し合う。人間は他者と暴力や恋愛を通じて、事を起こす。彼らのふざけ合いは、あの本音ゲームや教室での空論に拡張して現れており、いわゆる「真実」の暴力や恋愛とは対照をなしながら、遊戯となって浮かんでくるのを見てとることができる。
風景に疎外され、横浜に揺らめく魂たちであるから、智也は、最後まで行きつ戻りつして、落ち着かない。決定すべきことはいつも未決定のまま猶予される。本気と浮気の差異は解消し、ただ距離の近さや物理的な接触だけが、事を決定し、何事かを起こしていく。彼女ら彼らは、しかし何かに焦っていて、一人一回は必ずその街を走っている。どこへ走るというのか。
どこかに埋められてしまうこと、棺桶に納められ焼かれてしまうこと、工場で精肉されてしまうことから逃れるように、彼女ら彼らは、再生し、立ち上がり、狂犬のように走り出そうとする。が、立ち上がって蘇ることに宿る暴力を恐れるかのように、座ったまま、そこから動けずに、慄いている。29歳から30歳へと誕生日だけが反復される。
(2020/07/23)


着せ替えられる風景

『永遠に君を愛す』(2009年)

物語の概略は、結婚式場で婚約者たちが繰り広げるドタバタ喜劇である。単なる喜劇でないのは、結婚式当日のその時間になっても結婚の意志が当事者の間で固まっていないことにより、困難な問題性が孕まれているせいである。
式場の十字架のある部屋やその隣の待合室、披露宴の会場での婚約者の対話や、家族や元恋人たちとの会話が物語の中心となる。リハーサルや待機中といった時間に様々な検討がなされ、時には人生観についての批評(異議)が各者から開陳される。むしろ、この批評を発表するために、結婚があるかようにも見える。
冒頭の、式当日の朝から、婚約者の女、永子(河井青葉)は夫になる男(杉山彦々)の呼び名について迷いが生じている。「ちゃん」付けなのか「さん」付けなのか、呼び捨てなのか、二人の距離感はまだ定まっていない。
普段着が脱がれ、それぞれがそれぞれの式の役割のための服に着替える。中には、脱いだままのヌードモデルもいる。流れる風景がある。モノレールでの移動があり、「桜街道」のアナウンスがあるから、東京西部の物語なのだろう。コーラス隊は、終盤にコロスとして機能するが、彼らが会場へと向かう車内からも流れる風景が見える。
着替えは、確かに不確かなものを確かなものに定めていく行為でもあるし、場所の移動は、小さくとも将来的の望むべき場所へと照準を定めていく行為でもある。流れる風景は、いわば場所の着替えと言ってよいだろう(季節感を表す風景が、時間の衣替えであるように)。
婚約者の過去のスナップが貼られた披露宴会場に友人たちは集まっている。元恋人(岡部尚)と彼を好きになる女性(菅野莉央)とがそのざわざわする会場で際どい対話をする。女性の声のボリュームは確信犯のように上げられていくが、周りのざわつく友人たちの耳には、彼女の声が届いていないように見える。観客は、やばい、みんなに秘密が知られてしまう、と気が気でないのに、映画の中の友人たちにはスルーされてしまう。なぜか。
人は人の話を聞いていない、という主題とも通じる不信感が現れたシーンであるためという理由が一つとして挙げられる。また、この女性は最後におんぶをするが、彼女は元彼の背後霊のようなもの、元彼の罪悪感が肉体化、擬人化された存在と捉える視点も可能のように思われる。彼女はいつから彼に取り憑いていたのであろうか。
(2020/07/13)


暗室から浮かび上がるもの

『THE DEPTHS』(2010年)

モノレールが登場する。車内が映され、車窓からの都市景が展開する。人物たちを韓国線のある羽田空港に結びつけるこの乗り物には独特の揺れや音があり,地上に敷設された線路を走る電車とは、そのやや趣を異にする。
カーテンやブラインドが窓に掛けられ、屋外から屋内へ射し込む光線を曖昧にし、光量を調節する。カーテンは揺らぎ、ブラインドは上下する。主な舞台として,ある街の怪しげな一画の貸しビルがある.そこに設けられた写真スタジオの屋外からは、明滅し、温度を持った色の光線が屋内を照らそうとする。
結婚式場に集まる人数は多く、ややラフに、そしてカジュアルなってきている.それでもフォーマルな人物が集まっており、人物はそれぞれのフォーマルを発しながらもやや画一的な面持ちで式に臨場している。一方の写真スタジオにおいては、その場所性もあってか、多様な人物たちが出入りする。編集者や男娼組織の兄貴分、半端なヌードモデルたちである。スタジオでは、集団のフォーマル加減が剥ぎ落とされており、人々は脱ぎ、着替え、ポーズを取ろうとする。フラッシュが焚かれ、BGMがかかり、カメラマンが立つ。式場と写真スタジオは、共通する性質を持ちながら、都市の表裏に分割されているようでもある。スタジオには更に暗い暗室も設えられている。都市の裏面は、奥の暗室で現像された写真媒体の二次元を通してこそ、都市の表面に頒布されることが可能であることを示すかのようでもある。
通路があり、両側に扉が並ぶ。式場でもこの画面構成が使われ、ビル内に埋め込まれたスタジオでもほぼ同様の部屋と廊下の構成がとられている。終盤のある重要なシーンでもこの構成は反復される。これらの部屋は個室のようでもあるが、時に男同士、女同士のカップルを隔離することに成功する。また、男娼の事務所兼待合では、マジックミラーを挟んで更に都市の裏面の部屋が生じている。ここではエロスよりも暴力性が漂っているようにもみえる。
都市は場所に彩られ、部屋に区画され、男女はその奥へ籠ろうとする。奥の奥の襞の深度が映画には写し撮られている。映画やカメラや都市のネオンといった様々な光の技術がそれらの襞に入り込もうとはする。言葉や暴力、同性愛が埋め込まれ、詰められたその深みから、人間をほじくり出そうという光線がある。
人物たちは、時に出て行き、時に戻ろうとする。そうした往復運動は、浅いところと深いところの往還を示すものでもあり、一度や二度では、その深みを味わうことができないという切実な往復運動のようにも見えていた。都市に浮かんでは沈んでいく人間たちがこの映画には映っている。
(2020/08/11)


通り抜けしまうこと

『親密さ』(2012年)

何が映っていたのか。全編を見通した後にレビューしようと連ねた言葉では、映し出された物や事が震えて振る舞っていたあの時、挙動していたあの姿を取り逃してしまうように思う。
佐藤亮が演じた詩人あるいは脚本家は、脚本家として「選択」という語を口にしようとするとき、言葉に詰まり、噛んでしまう。この「選択」という言葉は、劇中の演劇『親密さ』において、彼がのちに詩人として朗読する詩に多用される語である。「選択」という語の重さを脚本家が、詩人が、そして佐藤が感じているからこそ、発音しようとしたとき、言葉が世界に出ようとするそのすんでのところで詰まってしまう。
例えば分断がある。半島と列島、脚本と演出、恋人と兄弟、川崎と太田区、尊敬と尊重、工場とドトール、わかることとわからないこと、ある時間とそれ以外の時間、三四郎と美禰子、局長と補佐、魂と体、父と母、情報と私、沖と岸、情報と世界(私)、手紙とメール、質問と朗読、女と男、臆病と勇気、暴力とセックス、武蔵小杉と神戸や広島、俳優と観客、キャメラとその対象など、多くの対立や分断があり、その断絶を越えようとする言葉や運動が、映画として、あるいは演劇として試みられる。
出演している俳優たちは少ない。せいぜい10人内外でほとんどが30歳前と思しき若者たちである。彼女ら彼らの試みや言葉は若すぎるのだろうか。人物や言葉たちが登場する舞台もごく少ない。大半の劇中劇は一つの舞台で演じられるし、演劇愛好者らの自宅と稽古場、仕事場とその途上にある駅や車内など、この世界の広がりに比べれば、ごく狭い空間に撮影は限定されている。キャメラの前に現れた、その小さく、少なく,狭く、弱い場所のミニマルな物事を補うようにして,あるいは導かれるように随伴して、キャメラや観客までもフレームインして映し出されることになる。そこに映っているのは、わたしたち観客のようでいて観客でない。ある時には観客であり、ある時には観客でない。わたしたちは、時に俳優と同じポジションに立ち、時に別のポジションに立つ。
ミニマルな設定や振る舞いには、大かがりなものも添えられている。相対的な大いさを感じる設定の一つは、電車の車内と車外に映された物事だろう。都市景やそこで刻まれる時計は、流し流されてしまえばただの日常の景色に過ぎない。しかし、その日常にも映画からは分節された別の物事が起こっているに違いない。夜景に点る窓の光のひとつひとつの、そのうちのひとつはわたしたちの光かもしれない。映画の都市の景色の中にはわたしたちがいたかもしれない。この俳優たちを乗せて走る電車に並んだ電車の中にわたしたちはいなかっただろうか。見えたり、見られたりする関係を保ちながら、わたしたちが乗る電車も走っている(のがこの映画には見えているはずである)。
多摩川の橋の上を渡る二人がいる。このやたらと細長い舞台の上を彼女らは歩いて渡りながら話をしている。彼女らが、歩きながら、動きながら、そして舞台に立ちながら発する言葉には重みや大事さがともなっている。右岸と左岸をつなぎ、夜と昼をつなぐ朝に、彼女と彼はいつしか手を繋いでいる。彼女らの横を車、バイク、自転車、歩行者が通り抜ける。同じように映画を通り抜けるわたしたちがいて、わたしたちを通り抜ける映画があるように感じられる。通り抜けるのは瞬間的である。その写り(移り)または移ろいを語ろうと言葉を発しようとする。言葉は大事なものであるがゆえに詰まり、重く、遅い言葉によって、映画のその瞬間を捉えようとしても、いつも逃げられしまうように感じる。
(2020/08/17)


頭という玉、目玉の対蹠

『不気味なものの肌に触れる』(2013年)

ダンスには抽象性があり、二人の男子高校生は黒い服を着て、あるいは肌を晒して踊る。しかし、それは果たして素肌といえるのだろうか。
河口付近に位置する水戸のあたりで撮影されているようである。「川又」と記された車のナンバーはないから、架空の創作の地名ではあるのだろう。深い緑のミニ那珂川らしき静かな川沿いを走っている。ボーリングのレーンは、必ずしも川とは言えないが、高校生たち、あるいは河川事務所の作業員たちは、こうした川に沿って現れる。「ポリプテルス・エンドリケリー」は架空の魚類ではなく、実在する種であるが、彼女あるいは彼をめぐって物語は展開している。
2人の男性(石田法嗣染谷将太)のダンスシーンが見どころではある。振付師の砂連尾理が指導するシーンは3つほどあり、冒頭と終盤にも見えている。人と人とが流れるように動いていることの不気味さは、魚の不気味さであり、水を流している川の不気味さにも通じている。川沿いには木が生え草が覆う。主人公たちは、アスファルトの上に寝たり、土の上に寝たりもするが、河川の堤防や堤外の表層をなすコンクリートやグレーチングといった構造物も美しく、橋とその欄干も印象的に上下関係を使った画面に立体交差しながら現れている。川の底には何かがあるらしく、「テッポー水」という洪水や氾濫を予感させる言葉も吐かれる。雨も降り、川沿いには、染谷将太が演じる千尋のネクタイを揺らす風が吹く。気象や植生、そして都市インフラの大仕掛けの中に人間は叩き込まれている。そうした不穏な緑の氾濫の中に、赤い血が滲み、不安な言葉たちが発せられている。
「川向こう」という彼岸が指示される。映画には「見えない部分」があり、後頭部にある不思議な突起物は、頭部を球体とするなら、眼窩の対蹠地に存在する。自らの眼には決して触れることのないものを感じるためには、他者が必要となる。その他者とは、高校生の2人、さしあたっては恋人であり鏡のようでもあるお互いであるかもしれないし、1人の女性(水越朝弓
)なのかもしれない。また千尋の兄(渋川清彦)にとっては恋人(瀬戸夏実)であるのかもしれない。その間には愛なり暴力なりが介在しているように描かれており、「触れる」という言葉の上では些細な接触に現れるものは、そのスクリーン世界においては暴力的に不気味なものにも見えている。
(2020/09/05)


反復されたことを反復すること

『うたうひと』(2013年)

冒頭から泣ける.ショットは律義なくらいに刻まれており,30分でいえばほぼ100ショットがカウントされ,そのリズムは持続し,約120分の尺で400カットほどが見えている.
東北地方のお年寄りたちが話をしているのは,日本語であり,東北の方言や訛りも混じる.圧巻は,彼女ら彼らの地の語りはまだ理解の範疇にあるものの,昔話の物語を語り出した時,それを語る言葉だけでなく,その物語世界が理解を超えた細部と風景をもって語り出されることである.
とはいえ,民俗や口碑に通じた者であれば,その昔話という物語たちが類例や変種の布置の奈辺にあるのかを想定することもでき,神話や伝説としての聖なる語りは,歴々たる幾代もの語り手たちに語り継がれることによって,いつしか落胤として落ち延びたような烙印も見え隠れする.この作品が投げかけている問題は,おそらくそうした語りそのものではなく,映像のほうにある.
いわゆるZ形式として,パラレルに際どくすれ違う視線を導入することによって,それぞれの語りの部屋からキャメラの存在を消してみせるマジックがある.小野和子という舞台回しによって,語り手と聞き手がツーショットで対面して現れるだけではない.語り手の佐藤玲子氏,佐々木健氏,伊藤正子氏が一堂に会し,麻雀卓を囲むように揃った四人の面子で語り出す場面が,作品の最初と最後に映し出されている.また,聞き役の小野にしても,道路を走る車中において,聞くことや語ることの意義,そして自身のライフヒストリーの一部を語り出す.車中は揺れている.キャメラも揺れ出し,フレームも震え出す.車窓からの風景が横に流れ,環境音や走行音のノイズが録音され,場面に流される.
川が見える.国道と思しき幹線を右折すると川を渡る橋があり,土地とその場所にぐっと近づく感覚がある.この感覚は,何気ない地の会話から物語世界へと飛躍する際の違和感と似ている.言葉の語彙やローカル性,語るリズムやトーンが「むかしむかし」という語り口を合図に突如として変わるあの瞬間の浮遊感でもある.また,とどまるところを知らない滑らかな饒舌をシームレスなままに音声として記録し,映像としては正面ショットの切り返しをデクパージュする異想にも近しい.日常を延長した記憶や風景の縁または突端では,その崖のさらに先に,思いがけない広袤を見せており,その広がりに耳を傾けるとき,この世界を包み込んでいるような不可思議なぬくもりは,涙するに値する.
この作品の物語(!)と主題には,小野氏がガイドとしての手腕を駆使して導き出すように,わたしたちの側にはいつも寄り添う誰かがおり,一方の世界は多重にブレており,誰かはわたしのブレであるかもしれないし,そのズレが物語世界を創造しているという認識がある.そしてキャメラや,バスの後部座席などで見切れる酒井耕と濱口竜介の二人の作り手たちは,その不思議を映像にそのまま収めるというよりも,不思議を映像的に再構成しようとする.マジカルにキャメラを消して見せるのもそのためであるが,そのとき,観客はこの語り手や聞き手とダブり,場に臨場することになる.
ここに組まれた座には,小野氏がいう「ひとつの呼吸」があり,「山の中」のように外界からの遮断があり,二人の対面であればお互いの間に,三人以上であれば,車座であるため,視線は座の中央部に集中される.視線と言葉を輪の中に内包した空間として,サークルは魔圏を生み出し,その圏が結ぶ結界は呪術的な方法に依拠している.神降ろしや口寄せの儀式に準拠した手順を踏んでいる.物語には,オノマトペのような擬音や擬態の語が多用され,古風な謡や呪文も含まれる.動物たちが人語をしゃべり,人間と言葉を交わし,異類で婚姻するカオスな世界がこの語りの圏内に降りてくる.ユーモアもペーソスもある物語は,時に聞き手や語り手の人生と重なり合う.そそして,この座を組む人たちは「私の」世界を「のぞく」.この作品に聞こえてくる語りは,幾万遍も唱えるように繰り返されてる.その冗長でもある畳語の反復は,物語単位の重複を経て,お年寄たちに血肉化している.歌うように語るその年寄った主体と語り出された存在は,極度に「私」でありながら,「私」でないおばけの様な者に化している.「のりこしさん」は幻視ではなく,「私」の実存の姿でもある.
この作品に現れている語り手や聞き手は,その意味でただひとりひとりの「ひと」ではない.同サイズの正面ショットの繰り返しは,民俗学でいうところの重出立証法でもあり,犯罪捜査で合成されるモンタージュ写真と同様の効果を生む.この重出が反復され,何者でもない像が結ばれるように,超常的な何者か,例えばお化けや神と呼びうるような,何者かがこの作品には映ってしまっている.
(2021/03/08)


トレンディドラマの廃墟として

『ハッピーアワー』(2015年)

松本のまつもと市民芸術館で鑑賞する。その少し前の1月頃、上京の折に許された時間の中で『野火』(2015年)のほうぎりぎり観ることができたが、この映画『ハッピーアワー』は観ることが叶わなかった。松本へは高遠から車で杖突峠を越えて向かい、高速も乗ったが、道も駐車場も混んでおり、何とか間に合った次第。会場は満席を覚悟していたが、50人ぐらいが集まっていただろうか、いかにも映画が好きそうな人たちの熱が感じられた。
長い作品であるから、途中2回の休憩があったので、小さなパンを夫婦で食い合った。が、やはり腹が鳴ったりして、作品の内容ともシンクロしているようで楽しかった。かなり笑えて面白い映画であった。4時間ぐらい見たところで、およその見通しはついて、トレンディドラマであると感じた。あるいは男女8-9人物語であるなどと思ったりもした。夫婦でこの作品を見るのは無謀であったとも思わない。
トレンディドラマというと皮肉に聞こえるかもしれない。現在の傾向としてのトレンドをとらえたメロドラマという点でもそうであるし、わたしたちが愛してやまないあの頃のトレンディドラマが植え付けた幻想が,その後、この社会でどのように開花し,あるいは落花したのか、という意味でも批評的で「ハッピー」な作品であると感じられた。さしあたっては、いまどきの30代の後半の若者ともいえない男女たちのドラマとして楽しむことができる。
この俳優たちはもともと演技の素人とまではいわないまでもアマチュアではある。そのセリフ回しに導入された棒読みのような演出は、ジャン・ルノワールの演技指導にあった「イタリア式本読み」に範をとったとされる。受け手によっては、小津の映画に現れた笠智衆の朴訥さやその周りを彩る女性たちの奇怪な明るさや暗さを連想するかもしれない。また、より大きな災厄の被害者を思わせるようなキャラクターや神戸の現代史にある廃墟の記憶を、棒読みの「棒」をキーにして解錠してゆく感じは、これか、と唸らせる演出でもあった。麻雀のシーンも四面四角の小津の正面ショットを想起させ、映画史の遊びっぽく感じられる。クラブでソファに腰掛ける女性2人は,向き合うこともなく、視線を交わすこともない180度に並んで、平行な視線を会場に送っている。この平行視線の配置に対応して、仮設の雀卓には45度に隣り合い、また、序盤のワークショップにおける正中線との連繋も感じさせ、よかった。
シーン構成でいうと、やはりWSや朗読の長尺な室内劇も効いており、劇中劇が仕掛けられている。こうした舞台やシーンを渡り歩く人物たちの移動手段に歩を合わせるかのように、神戸やその周辺を都市的に描いていて興味深い。そして、電車、歩道、車中、階段、廊下、バスといった交通の合間合間に、こぎれいであるゆえにどこか地に足のついていないような、人物たちが住まいする部屋たちが出てきており、そこにはからっぽな空虚さが感じられた。
比較的大きなスクリーンでみたせいか,彼女ら彼らの表情に注意を向けないわけにはいかない。映画史としては、ジョン・カサヴェテスが引き合いに出されるのも頷ける。プロフェッショナルと呼ばれる既製の俳優には、別の作品の他の役や商品のイメージが憑いており、表情がどこかコマーシャルになってしまう恐れがある。そうしたプロの欠点もあるのだということを、この大作映画に気づかされる。
休憩時間ではパンを食べたりトイレに行ったりと忙しく夫婦の会話もそこそこであったが、帰宅の途へつく復路の車内では、この映画のあれこれ、人間模様や心理といったあれこれを夫婦でディスカッションしたのも有意義であった。そうした話の中から、アッパーミドルな階層の像を結びつつ浮かび上がってきた。中流階級であっても、もう少し下層に主軸を置いた場合は、このようなコミュニケーション不全とは別の主題を扱わざるをえなかっただろう。トレンディドラマでは、バブルな上昇志向や拝金主義が明らかであったが、思えば小津のホームドラマたちにもやや上昇気味なミドルの雰囲気は色濃かった気もする。小津のピントも、まだ貧しい時代に撮られたにも関わらず、それほど貧しくない部分に合わせられていたように感じられ、映画の力点や重心もそうした階層のうちにあった。この映画をそのような系譜に眺めたとき、20世紀に映画が担った夢の続きとして、悪夢とまではいわないまでも、いたしかたない夢が21世紀のスクリーンに浮かんでいるように思われた。あるいは、現在の神戸の表層がそう思わせるのだろうか。
2か所ほどけっこう泣けた。茶摘みと朗読後の対談のあたりであるが、身体の不穏さ、不気味さが交通と絡むという点で、ミヒャエル・ハネケあたりも想起させるアクシデントな感動があるようにも感じられた。泣けるのは個人的な事情によるところも大きいし、長谷正人が指摘するようにWSや朗読の作法が起こす何事かに呑まれたのかもしれない。
(2016/02/21)


波が立つための条件

『天国はまだ遠い』(2016年)

初見でも震えたが,久しぶりにみて,さらに泣けた.
彼女らと彼はまず何者なのか.それぞれ卒業制作者(玄理),幽霊(小川あん),派遣社員(岡部尚)といった属性はあるが,そこに踏みとどまり,それ以上,前に進めないかのようでもある.100カットに満たない短編とはいえ,彼女らが移動し,運動するカットはごく限られている.
最後の雨降りのシーンでは少しづつだが動き出している.室内でダンスしながら回転する場面がある.洒落た喫茶店では2人が並んで外を向き,幽霊の彼女が静かに歩み,2人の間に入り込むメディウムのように機能する.また,卒業制作の撮影のシーンでは,妹はフレームの外から歩み寄り姉の手を握る.姉は,最初は撮影を遠くから見守っているが,再び静かに歩み出し,妹を見つめる立場から,妹に撮られる立場のほうに,そっとフレームインの動きをみせる.が,画面上では,姉は映されずに,彼の中にインをする.
姉は幽霊として,彼は霊能をもつ依代として,彼女はカメラを操るものとして,それぞれがそれぞれのメディウムとなり,互いの領域に流れ込む.その感応性や官能性がこの作品には迸っている.
運動のない静かな作品ではあるが,サイレントな視線が刺さる.作品中で役者たちの視線が交わるの時間はごくわずかしかない.冒頭からモニターをのぞく男と,そこから目を背ける姉が登場し,彼女らはともに漫画に魅入ることはあっても,不必要に目で会話をしたりはしない.撮られている彼は,レンズをほぼ正面に見ており,妹のほうにはわずかにしか視線を投げない.妹はモニターをのぞき,彼を正面から見据えることはほとんどない.このように視線はいつもすれ違いながら,しかし,いつもはすれ違っているからこそ,時に交わるときにメロドラマが発生するようにもみえる.視線のリレーはサイレント映画の時代からの映画的なフローではあるが,そのフローを微細に表現することで,この静かな短編の優しい表面を仕上げている.スクリーンを波だたせ,姉の涙の大粒が外光を持ち込んだように,ラストには雨が降り,人物(と人物でないもの?)たちが動き出し,雨があがる.さわやかでもある.
(2020/04/04)


立つこと,転ぶこと

『寝ても覚めても』(2018年)

飯田のトキワ劇場で観てきた.前回この劇場で観たのは是枝裕和の『誰も知らない』(2004年)であったから10年は経つだろう.この館にはけっこう飯田を感じるよさがある.会場はわたしたちも含めて4人ほどで,ほぼ貸し切りといってよいような空席状況ではあった.田舎でみるとこういう情況が多いから,いいような悪いような.
6月に柴崎友香の原作を読んでいたが,書きっぷりは覚えていたものの,物語はほとんど忘れていたので,自らによるネタバレばれもなく,新鮮に観れて丁度よかった.原作のモイスチャ感も印象的であったが,映画にもその感じはあって,そのせいか3回ぐらい泣いた.チェーホフのくだりとスーパーな防波堤のくだりと,あとはどこだったろうか.
上映開始15分ぐらいで,あ,この映像は「川」推しだ,と思って,川ばかりみてしまった気もする.登場人物も見ていたけど,彼女ら彼らの移動が印象された.屋外階段,エスカレーター,堤防やその下の段,歩道橋といったところを移動しており,車やバイクでのお出かけもあるけれど,上下する動きや水平に動いていくモビリティがいかにも都市的で楽しかった.
その人たちの水平垂直移動と絡んでもくるが,画面を切る水平や垂直な構図(をなす要素)も目に刻まれているが,海の水平線や塔などはテーマとの親和性もあるのだろう.また大阪と東京,仙台と北海道という,列島の東西や南北の大きな軸はストーリーにも効いてきている.
結局,水平と垂直を同時に同画面で表す,窓,ドア(玄関や車のも),差し向かいキッチンといったフレーム内フレームもよく使われ,それは劇中劇のが発動する契機のようにも感じられた.原作ではモニタの現れがあったが,映画ではガラスを通した視線も各所でうまく使われていた.
象徴性という点では,夢つながりで件の二人の下の名前に朝やバクがあり,トランペットの鼻歌ではないが,いろは歌の「あさきゆめ」を「あかさたな」のくだりによって連想された.それは象徴というよりことばの問題だろうか.
服装の面白さもある.タバコ,酒,コーヒーなどの嗜好,お好み焼き,たこ焼き,魚介,カレーなどの食もそれぞれに物語にもうまくおさまっており,それはスパイスや酩酊の雰囲気にもつながっていて感心してしまった.
音の不穏というのは原作のテイストでもあるが,破裂,叫び,壊れなど,もちろん波音もっ効果的に使用されている.それでもネコはなぜ泣かないのかは気にはなった.黒く潰れてしまう一部や全体というのだろうか,アンダーすぎる露出の効果も不穏で感動した.これは路上の突発性とも絡むモチーフだろう.
主人公たちの演技にはあまり関心がないのでわからないが,演技している彼女ら彼らは現場でも感動しているだろうな,というのは光や音を通してじんじんと伝わってきていた.濱口の演出や映画の取り扱い方という点で,『ハッピーアワー』のときは,これはトレンディだなと思ったが,今回もトレンディ路線を感じていた.やはり今回も男女7人ではないけど,1人2役どころか,1人で5-6役ぐらいという多数性や多重な人格を錯覚した.
カサヴェテスもメロドラマへの批評性としての理解ができるのかもしれない.濱口映画も,トレンディドラマに象徴される90年代テレビドラマやバブル経済とその崩壊への批評的な,いってしまえば「恨み節」のようなあたりを面白く感じてしまう.
日本で人物の正対ショットとかいうと,どうしても小津がちらつくが,人物との対話でないショットでのキャメラへの正対については,こんな使い方もあるのかと,まだまだ見直す余地があるのだろうと感じた.このヒロインでいえば,バイク騎乗,堤防での海との切り返し,エスカレーターなどのショットだろうか.中空に浮くキャメラや,カメラ目線の高さにまで目線が浮くような状況が発生していて,ラストのツーショットでもランドスケープや自然との正対のような,観客からすると,自分の所在なさ,よりどころのなさ,依代のなさのようなものを感じてしまう不思議さがある.
身振りというか,手ぶりを考えさせられる映画でもある.手仕事は皿洗いなどの仕事をもち,フェザータッチは頬のような指向性をもつが,バイバイする動作などのふらふら加減には往復運動の意味を考えさせられる.
あらすじを超訳してしまえば「関西から関西に戻る映画」のひとことであるが,その戻るまでの間にもいろいろな往復運動がある.仙台との往復,シンガポールとの往復,震災難民としての往復,あのドアからこのドアへの往復など.たとえば,「帰れ」とある人物は言うが,わたしたちはどこに帰ることができるというのだろうか.
人は過去から出立して,現在で折り返し,未来へと戻る往復運動のうちに常にあるわけで,その間には心境も顔貌も変わったりもする.日本で川というと,「ゆくかわの流れはたえずして,しかももとの水にあらず」などという『方丈記』の一節がどうしても頭に浮かぶ.川(水位)の変化や顔の豹変も,そもそもが川と顔の存在のうちにあり,また川と顔の本質的な在り方でもある.
寝て起きるということも夢と覚醒の往復というよりは,体位としての往復として身体的な在り方に関わっており,転んでいる体と立っている体の往復運動と考えたい動作の一環でもある.ネコが寝転んでいるのを見つめているとそんな気が起こってくる.往復運動は反復と言い換えてもいいかもしれない.そこに,交錯や行き違い,運動や位置のエネルギーの増減,振り子や共振といったシリーズの含意がある.
そうした運動群のなかで,よく問題となるヒロインの翻意をどうとらえたらよいのか.原作を読んでしまっていたので驚きは薄れていたのかもしれないが,ひとつには麦(=亮平=東出昌大)への意趣返しや復讐でとらえる見方も確かにある.ヒロインはやられたことをやりかえしたに過ぎない.その対象が同一人物であったかどうかはともかく,日常に反復される人というのはそもそも同一人物なのか,という問いと批評もそこにはある.その意味では,麦という存在も冒頭の時点で既に,何かしらの翻意という意趣返しの必然を自ら負っていて,タイトル前に執り行う朝子への仕打ちは彼の復讐であったかもしれない.そののちも彼は彼で誰か彼女や彼を探していて,あそこに,例えば,牛腸氏の写真のあたりにさまよい出て,亮平に憑依することでその場に居合わせてしまっただけなのかもしれない.そう考えると,亮平の最期は,これから始まる彼なりの復讐劇の予告でもあるし,それは麦という亮平から見れば,罪滅ぼしの終点であったり,映画冒頭へ八つ当たりの対象探しのさまよいへと戻る伏線複線でもありうる.
他方で朝子(唐田えりか)の運動をどうとらえるか.彼女の上京は,半端ではあるが,明らかに麦さがしの一環でもある.また,東北への往復運動も,彼女のいう「正しい」に騙されている観客も多いと思うが,それも麦さがしの一環としか思えない.彼女は,麦の場所についての多くの情報を持ち合わせてはいない.彼の位相や位置あるいは彼の運動の拠点についての情報は「北海道」としかおそらくインプットされていなかっただろう.その北海道に引っ張られて,東京へ,仙台へと徐々に向かう彼女の,ゆっくりではあるが,根強い運動性がこの作品には現れている.
仮に日常と非日常を区分するのであれば,彼女ら彼らの非日常への欲望や立ち入りといった運動は,どこか遡上する動きとして現れていなかっただろうか.それが上っているか下っているかの指標として,あの流れる川の水面が見えているのではないだろうか.
どうして川が汚いのか,地形的にはそこが低いせいともいえる.上からやってくる雨粒も決してきれいなものでもないが,わたしたちのイメージのうちでは,上流や源流は清らかに感じられる.関西の人々はどう感じるのかわからないが,やはり北や東は,南や西よりも相対的に高くあり,より上流にあたるという感覚があるのではないだろうか.そうした上下感覚や方位感覚のうちで,遡上する動きが彼女らにどう起こったのか.
つまり,移動は水平方向だけでなく,上下方向やそれを運動的に感覚する重力をともなっているという問題が再び持ち上がる.舞台というか,一段上,ひとつ上のステージに遡上したとき,人は変わってしまうという映画構造の記録としても観られてよいだろう.そうした構造をとらえたとき,寝ころび,ネコのごろり,土下座などの位置づけも少しはっきり見えてくる.
(2018/11/01)

寝転ぶことと猫のこと、そして野生の眼

『寝ても覚めても』(2018年)

人物たちが崩れ落ちていくようにもみえる。前回の鑑賞時に感じたように大阪、東京、東北を振れ幅とする大きな往復運動が物語を貫いており、川や、川の延長としての海、川の初源としての雨が画面には現れている。つまり、大きな水平運動もありながら、落ちて、流れるという垂直運動が加わったとき、人間は容易に浸食されてしまう。
冒頭のバイク事故で、主役の二人はぶっ倒れてしまう。そして笑う。その後、庭先で岡崎(渡辺大知)はコケる。むろん、彼は、クラブのシーンで踊りながらブレイクし、既に床に背をつけてしまっている。そして、終盤にALSの姿で現れ、水平であるはずのベッド面とともに起き上がってくる。
朝子は、麦の二度目の登場で引越しの直前に崩れ落ちてしまう。その余韻のまま、彼女は東京から東北へ転がり、そして仮設住宅で平川(平らな川!、仲本工事)から移動資金を調達して、さらに大きく大阪へと転がりこんでいく。
朝子の友人であるマヤ(山下リオ)は、雨の中、タクシーで大阪へ発つ亮平を追いかけながら崩れ落ちる。マヤと結婚をしたクッシー(瀬戸康史)は、彼女と結婚する前に、ツルゲーネフのセリフを吐いたのち、しばらくして、崩れてしまい、土下座をしている。親友を名乗る春代(伊藤沙莉)は崩れていない。それは8年ほど経過した後、整形により顔を保っているせいかもしれない。公園で朝子とバドミントンをする場面がある。このラリーで「ごめん」といって大きくシャトルを飛ばしてしまったのは朝子の方であるが、春代が拾いにいったシャトルは微妙な位置に落ちている。しくじり、落としたのは春代の方ではなかったのだろうか。
亮平は、このように周囲が崩れ落ち、浸食され、信じる安心や安定を失いながら辛くも立ち竦んでいるようにみえる。2011年3月の大きな地震と目される地震が劇場で彼を襲った後、路上に崩れ落ちている見ず知らずの女性に、彼は手を差し伸べている。しかし、ボランティア活動で朝子と訪れた後、東京へ帰宅してすぐさま、彼は倒れ込んでしまう。彼をもってしても世界に立ち続けることはできないのである。一方の麦はどうだろうか。寝ては覚め、転んでは立ち上がり、また崩れていく人物たちの間で、彼も流石にバイク事故では寝転んでいた。
列島スケールの水平移動や震災のなか、人物たちは、微妙な上下動を繰り返して震えている。『野鴨』のVTRを見た4人は対面キッチンのフレームの周囲でそれぞれに絶妙な上下の位階を占めて並ぶ。屋外階段から俯瞰で見下ろす亮平とその視線の先の朝子の距離は、まさにその階段によって縮められる。寝ながら笑い、寝ながらしゃべり、寝ながら視線を送る人物たちがいる。堤防を歩き、走り、上下し、行ったり来たりする人物がいる。水とその流れによって浸食されつつあり、右往左往せざるをえない世界において、崩れ落ちない希望はないのだろうか。
猫のジンタン(仁丹?)が寝転んでいる場面は多い。しかし彼女(彼?)は終盤の重要な場面に、やはり現れており、亮平と朝子のコミュニケーションの不通を媒介し、回復させる。この映画を見ていると、河畔にサギが立ち、『野鴨』が浮かんでいる(パネルは転がってしまう)のがみえる。牡蠣がみえ、保冷のケースの中で魚が見え隠れする。こうした動物たちの生き死にの様は、あるいは、河辺の葦やオオマツヨイグサ、ベランダのナスやトマト、庭先のシュロといった植物の様態は、世界の浸食、揺れ、震えのなかで、擬人的には、気丈に振る舞っているようにもみえる。または、全くそれらの地表の運動を受け入れて、なお平然と生を営んでいるようにみえる。わずかに見えている生物相が、波や流れのような大きな運動の中で、震えながら舞台を右往左往する人間どもの間でのさばっている。この「のさばり」が、寝ても覚めても在り続ける不確かな世界の中へ実在性を放っている。
おそらく、岡崎家の母と息子の視線や運動の秘密もこの生物相の不変と可変にある。そして、いつもワンテンポ遅れているような朝子の挙動と言動の遅滞と、その遅れを取り戻す急発進や立ち止まらない猛進の秘密もそのあたりにあるようにみえる。麦の魅力とされる野生は、岡崎や朝子のギョロリとした人間でないような眼によって眼差されている。
(2020/08/14)


おわりに,あるいはこのはじまりに

このように観てきたとき,もちろんいくつかの映画にいくつかの共通する要素というのはある.
例えば,『寝ても覚めても』の決定的な場面でもある,麦と亮平の同一画面での登場について,若者4人はテーブルについて座っている.この場面の既視感は,『何食わぬ顔』の競馬場の屋外テーブルの場面にも通じている.あるいは『PASSION』の序盤の男女の着座,『親密さ』の劇中劇のある着座のシチュエーション,そして『ハッピーアワー』で朗読会の打ち上げでの席で桜子,芙美,拓也,公平,こずえといった男女の面々は円座をなしている.また既に指摘した有馬温泉の旅館での雀卓を囲む4人の女性の場面などもこの類型にはまっている.こうしたテーブルを囲み座り,決定的な会話をするうちに,あるいは誰かが登場し,誰かが退場するというパターンもある.『天国はまだ遠い』のビデオカメラを据えてのあの場面では,立ち姿の姉は幽霊ではあるのものの,このパターンの変種ともいえる.『うたうひと』の最初と最後のシーンで小野氏が仕切る場面で行われていることと起こっていることも既に述べたが,このオカルティックな儀式は,観客であるわたしたちをその座に巻き込み,臨場させることによって,そこに醸される妖気や緊張を伝えてくる.おそらく,これらの場面を観ているわたしたちもそこが暗くても明るくても,画面の前に座っているのであるから.
観客の身体性を慮ったこうした演出は,無論,移動空間の撮影としても現れている.『寝ても覚めても』では麦や良平の運転する車にわたしたちはキャメラを通して同乗しているし,西へと向かう亮平のタクシーにも乗せられている.『ハッピーアワー』では摩耶ケーブルカーに乗りあわせ,『うたうひと』のバスの最後部に座っている小野氏たちの前にわたしたちは座り,小野氏のあの話をともに聞いていたかもしれない.そこには車の振動にあわせた,風景の揺れがあり,わたしたちも大人しく座ってはいるものの,視覚からは揺さぶられる情況の情報が入ってきている.『親密さ』のラストシーンが電車の車内で撮られており,わたしたちはあの男女を座席から見守っている.『THE DEPTHS』にも『何食わぬ顔』にも『永遠に君を愛す』でもわたしたちはモノレールに乗り込む.わたしたちはテーブルにも座席を与えられ,乗り物にも座席が与えられている.そして映画を文字通り体験する.つまり,わたしたちはその座っている身体で映画で起こっていることを実験している.濱口が繰り出す幾多の映画の手法のうち,この観客に実験の場を用意するという方法ひとつをとっても,そこには映画史的なアプローチがあることが分かる.これら濱口竜介の映画たちはそれぞれが入り込める映画であるとともに,映画史への間口を用意している.20世紀に映画館で映画に沸いていたあの大衆的な観客たちの隣にわたしたちを座らせてくれるのである.映画のなかの反復や往復運動によって,わたしたちは映画の外から映画の中へ入り,人物たちのその絶え間ない運動によって,20世紀に続いていた「映画」への入り口をうち破ろうとする.あるいはその入口は出口でもあり,20世紀映画がそのわずかな出口から溢れ出ようとしている.今も映画たちはあのかけがえのない持続する「映画」に肉薄しようとしているのである.

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