「ネガティヴ・ケイパビリティ」のことを考えている。
前回のアプライド・ドラマ、「ゴドーを待ちながら」を受けてから、
ずっと、「ネガティヴ・ケイビバリティ」のことを考えてる。
答えのない事態に耐える力。
この本を買った。
1回読んで、いま繰り返し、もういちど読んでる。
2回目はスルメを噛んでるような感じで、何故この言葉が生まれたか、この言葉を生み出した詩人キーツの人生を辿る必要が何故必要だったか、が、じわっと分かってきた。
ネガティヴ・ケイパビリティの対角に
ポジティブ・ケイパビリティがある。
ポジティブ・ケイパビリティは学校教育等の中にあり、解決を求める。
私たちは学校という生活空間の中で、物ごとは解決するもの、
解決していくもの、
解決せねばならないもの、
と、教えられてきた。
が、
しかし、
人生は解決ありきでは無い。
解決しない事の方が多い。
答えは外からやって来ない。
本当の答えは内側からやって来るが、意識が外に向いている限り、内なる世界にアクセスしづらい。
そもそも、正解ってあるのか。
数字で割り切れる正解はあるかもしれない。(究極は無いらしいが?数学に弱い私は、詳しいことは分からない。)💦
人のこころ、という、形の無いもの。
その中には、
様々な世界があって、
彩り豊かで、
クリエイティブで、
カオスもあり、
様々な経験や感情もあり、
それを包む肉体も有機的で、
誕生から死までの数十年間
変化し続ける。
解決するって何だろう。
解決しても
それは変化し続ける。
それでも私たちは解決を求めていく。
安心したい。
答えがあるとそこに落ち着ける(ような気がする)
不安なまま居たくない。
(私の最大の不安は自身が滅びていく事でもある。)
そんな事を考えながら、
私はネガティヴケイパビリティに惹かれていく。
答えのないところに居るのは心地悪いが、
答えのないところにこそ、
安住出来るのではないかと。
自分のことさえ分からないのに、
他者にレッテルを貼りたくなる。
あの人はあーゆう人だから、
この人はこーいう人だから。
経験も過去から引いてきて、
あーだったから、
こーだったから。。
それは
私という眼のフィルターを通した、
とても狭い視点に過ぎない。
あらゆる人を、
あらゆる出来事を、
自身も含めて、
決めつけ、
解決した気になったとき、
自ら、
狭い狭い世界に入り込んでいくのではないか。
暗い迷路に、
自身を守るために、
蟻地獄に落ちるように、
身を投じてしまうのではないか。
ネガティヴ・ケイパビリティを知ったとき、(完全に知ったとはまったく言い切れない)
苦しくてしんどい、
解決しないところに留まる、という事を知ったとき、
「解決思考」の方が
もしかしたら苦しいのではないか?
というパラドックスがあるように思えた。
分からんけど。
とりあえず、
思い込みを捨てる。
気がついたらそうしてみる。
そうしてみたい。
できるかなぁ。
(完璧じゃない。)
ひとつの答えでなく、
立体的な視点を持ちたいな。
立体曼荼羅のような。
(花は立体曼荼羅でもある)
花のような視点?🥀?
うーん。
書き殴っている。
答えは無い。
ネガティヴ・ケイパビリティ。
それでいいのかも???
アプライド・ドラマ
「ゴドーを待ちながら」で、
私の心の湖に、ひとつ石が投げ込まれた。
その石は、丸い美しい波紋を描いて、今なお、湖面は揺れている。
それも、また、愉しい。
🌟
次回の、
オーハシヨースケさんの
アプライド・ドラマは
「ゆきおんな」
詳しくはこちらから。
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