見出し画像

オーハシヨースケさんのアプライド.ドラマ「ゴドーを待ちながら」を終えて。

昨日は、
「オーハシヨースケのアプライド.ドラマ体験会、仙台」5回目でした。

今回は長いです。

先ずは、Facebookに書かれたヨースケさんの記事から。

「仙台でのアプライドドラマ体験ワークショップ(3月5日、仙台生涯学習センター)今回で5回目。
ベケットの「ゴドーを待ちながら」をアプライドドラマに。
後半は、日本神話「イザナギ、イザナミ。」
この二つの一見繋がらないお話が根本的なところで繋がっている。
それは世界の構造を映し取っている点。
歴史、出来事ではなく、そこには私たちの心の構造が写し取られている。
そんな4時間半のワークショップ。
小学校2年の女の子から大人まで!みんな飽きずについてきてくれた。
いまこの状況から、一歩、nextstepを、踏み出すワーク。」

ゴドーを待つ、
ウラジミールとエストラゴン。
WSの様子。


ここからは、私の感じたこと。

物語は実に単純に出来ている。
ウラジミールとエストラゴンが、ゴドーをただ待っている。
どんなに待ってもゴドーは現れない。

待っている場所は

ゴドーを待つふたり。


道と、一本の木があるだけ。

2人が待っているゴドーとは、どんな人なのだろう。

何故、2人はゴドーを待ち続けているんだろう。

2人はゴドーに未だ会ったことが無いらしい。

ただ待ち続ける時間、時も空気も固まっているように感じた。


2人が待っている場所の風景を、画用紙とクレヨンで絵に描いてみた。
参加者全員、同じ風景を見ていない、皆んな感じ方が違う、という事が絵に現れていて面白い。

私は、一本の木は「今」を象徴し、手前の道は過去、その反対に続いていく道は未来のように思えたので、それを描いた。過去は暗く雨が降っていて、未来に向かう道は青空が見えている。

それを描くうちに、

ゴドーは誰も見たことが無いのだとしたら、人ではないのかも知れない。
ゴドーはエストラゴンとウラジミールにとっての「希望」なのではないか。
今現在の膠着している状態、空気を変える「何か」をゴドーとし、今を変えてくれる何かを待っているのではないか。

と、そこまで考えたとき、
これまた痛いことに気づいてしまった。😭

エストラゴンとウラジミールは私の中にも住んでいる。

私は「希望」という言葉が好きで、どれほど落ち込んでも、がっかりしても、絶望感があっても、その上に希望を乗せることをしたいし、そうやって今まで生きてきた。おそらくこれからもそうやっていくのだと思う。

その希望の中には、
「必ず解決する、自分が決めた事に間違いはないに違いない、今はしんどくてもきっと状況は好転するはず」という、朝ドラのような展開を期待している私が居る。

でもね、

長く生きてきて、生きるってほんと不条理なものだという事を何度も知り、その度にどうにもならない事に肩を落としていたのも事実で、
それを自覚しつつ、それでも希望は捨てない訳だが、それって絶望したくないからだよな。と。

人生にはどうしようもない時がある。
自分の思い、力ではどうしようもなく、ものごとは動かすことが出来ない。その中でも人は、精一杯の選択をしていく。
精一杯の選択すら出来ないとき、八方塞がりのとき、どうしようもないときもあるよなぁと思いつつ、
自分の中にいるウラジミールとエストラゴンが動けない、前に進もうとしない(或いは進めない)は、誰の人生の場面に見られる事なのかも知れないと感じた。

ヨースケさん

私は答えが欲しい。
そして、殆どの物語りには起承転結がある。
どんな事でも解決策があり、望まぬ形であっても解決という道があると思っていたし、そうありたいと思っていた。

数年前にアレクサンダーテクニークのレッスンを受けていたとき、どうやらそうでは無いという事に気づき始めた。

他にも自分が行うセッションの中でも自身に「解決思考」がある事に気付き、それでもどうにもならぬ事も当然出てきて自分の無力さを嘆いた。
いや、そもそも無力なのだということを知ったとき自身の存在価値はどうなるのか?という問いや、どうにもならんときは、
そもそも 人は人を どうにかしようと操作してはいけない
「祈る」以外に為すべき事が無い事も知った。
私に出来ることは存在することだけかもしれないと。


「ネガティヴ.ケイパビリティ」

答えがないところに留まるチカラ。


2021年から2022年にかけて受けていた、プレイバックシアター研究所の「ファシリテート養成講座」の中で、物語の内容の、一部を切り取り、その前後を想像するというワークがあった。(ゴドーを待ちながら、の、木と前後の道のように)
その場面に関して、其々感じ合う事をシェアする場面があった。
其々違うんだね。
というところで結果はなくて終わったとき、私はモヤっとした。
その話しはどう終結するのか知りたくなったんだ。
答えは自分で川端康成の小説を読めば分かるんだろう。が、それは明かされない。
其々が感じたことを、ただ、大切にしよう、というアプローチだった。

答えのない事を、ただ、持ち続ける。
それは、今まで教わってきた事とは全く異なるプロセスでモヤモヤする。
モヤモヤを持ち続ける、考え続けるにはエネルギーや時間を要する。

「速い、安い、美味い」に慣れている私たちにとって、
「で、結果は何なの?」という男性的思考が優位な時代に生きている私たちにとって、それは驚く事でもある。

ウラジミールとエストラゴンは何を待っていたのか。
(私は何を待っているのか。)
ゴドーは来るのか。
(私にとってのゴドーは私自身かも知れない。)
誰かが何かをしてくれるのを待っていて、ずっと木の下にいるだけのように思う。
そこからどうやって歩き出しますか?という問いと共に、私は今日は木の下に居た。(今日は殆ど寝てたー)←疲れたのです・・←(HSPあるある)。

深まる時間
話を聴くヨースケさん


「アプライド.ドラマは誤読でもある」と、ヨースケさんは言う。

物語りの解釈はひとりひとり違う。
その違いを認め合い、学び合い、ジャッジせずに受け入れていく。
それを聞いて、私は暫く前に読んだミヒャエル.エンデの「果てしない物語」を思い出した。

主人公のバスチアンがファンタージェンの様々な世界を旅する。
そのひとつひとつの世界の中の登場人物たちの個々の物語りが其処にはあるのだが、エンデは「その話はまたどこかで」という表現をして読者の想像に任せ、バスチアンの冒険を追っていく。
私は他の人たちの物語りが気になってしまう。めっちゃ妄想し脳内で新しい物語が出来ていく。
何故あなたはここにいるのですか?どうして今ここに存在しているのですか。

答えは無い。

それはそのまま自分にも当てはまる。
何故私はここに(木の下に、道の途中に)いるんだろう。
ゴドーは来るの?もう歩き出した方がいいんじゃないの?

ゴドーのあと、

イザナギとイザナミの物語りに触れた。古事記のお話し。


イザナギとイザナミの間に産まれたヒルコに焦点をあてて、話しは進んでいく。


今回のお話にいちばん近いような解説のサイト。
ここには書かれてないが、
ヒルコは今現在も、姿形を変えて日本に何度もやって来ているとしたら、それは何だろう。
をテーマに色んなことを考えた。

この物語りも、底辺はゴドーを待ちながらと繋がっていて、人間の持つあらゆる面、普段思考に上がらないものを見つめる時間でもあった。


ここからは皆さんの感想。

まいすさんの記事↑


ぶんぶんさんの記事(Facebookからのコピー)↓

昨日は きょんちゃん主催
オーハシヨースケさんの アプライドドラマ体験ワークショップ

わたくしは 3回目の 参加

今回の テキストは『ゴドーを待ちながら』

不条理劇と名高いこれ…噂に 聞きながら 今まで 一度も 演劇として 観たことない

今回は 以前のように テキストを ヨースケさんが 語り演じることは ほぼなく

大まかな ながれをざっと 説明しただけ

まぁ 演じるも何も 起承転結がほとんどなくて

装置的なものも 一本の田舎道 

一本の木…だものね

台詞ひとつひとつの 重要性とかより

なにこれ?

なんなの?

どういうこと?

何故?と 問い 考える

そして その先には?やら

これまでのこととは?やら

越し方行く末に 広げ

膠着を 次へと 動かすには?

膠着的状況を作り出している理由とは?

…なんてなあたりへと 想像力の 底辺を広げる

共感 洞察 想像 創造…という 「演劇知」とかいうあたりが

生きづらさを生み出す 考えやら 構造を もすこし やわらかく やさしく 生きやすくしてくれるのではないか と 思う

合理性ばかり おいかけてると

やさしくなくなってゆくよね て 思う

色んな所に生かされてゆくといいなぁと 思う

さて どうやってつなげてゆこうか と 宿題のようなことを思う

何枚か きょんちゃん撮影の お写真 お借りしましたる。


「ゴドーを待ちながら」当日のアンケートより。↓

◆「お話の中について考えてみよう」と言うことが、いつの間にか、自分の中の自分と向かい合っているような感じがして、とても不思議な体験でした。
「ゴドーを待ちながら」の話は、今、本当に自分と同じです。
行こう、新しいことをしようと思いつつ、動かない、動けない自分がいる。
とても考えさせられるお話でした。


◆「道」のスケッチの説明を、自分でしてから、他者とのそれを聞いて
"自分の人生の捉え方"なのではないか?と、サーと青ざめるような感じがしました。
「物語は、誤読が正しい」は凄いと思いました。


◆今回も企画ありがとうございました。「ゴドーを待ちながら」噂に聴いてていたけれど、初めて内容に触れさせてもらいまして、題名にあるけど「ゴドーを待つ」ことが大切なんじゃなくて「…ながら」何かするとか、している事の裏打ちされた思いを投影するとか、そんな、本文以外のことの方が、大切だったり、面白かったりするものだね、としみじみ思うのでした。
たくさん間違って楽しむ、誤読する喜びは想像の種だなぁって思います。


◆私も誤読のすすめが、とても印象に残りました。トライしたいと思います。
ゴドー待ちながらを題材として、こんな風なワークショップになるという、とても面白い体験になりました。


◆面白く、興味深いドラマでした。ありがとうございました。


◆自分の中に何が詰まっているのか、掘り出す作業ができたような気がします。
ふだん眠っている感覚を見せてもらいました。
楽しかったです。

ヨースケさん、ありがとうございました!


次回はどんなアプライドドラマかな。
またご案内しますね!
お楽しみに!!



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?