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幻の猫をエアーナデナデする。

猫を飼いたい。喉から手が出るほど、猫が飼いたい。

猫が飼いたすぎて喉から出てしまった手が、幻の猫をナデナデしている。


娘が生まれる少し前、私は猫を飼い始めた。生まれてひと月もしないうちに我が家へ貰われてきたメスの子猫は、甘えられる母猫がもうそばにいないと気付いてから私にべったりになった。仕事に行くために椅子に座って化粧をしていると、それを察したかのように膝に乗っかってくる。夜はかならず私の布団に入って一緒に眠る。

名前はチーと名付けた。小さいからチーちゃん。どういうネーミングセンスなんだと自分でも思う。採用されなかったもう一案は、茶トラだからトラちゃん。どっちもどっちだった。

娘が生まれて、チーちゃんは私と一緒に娘のお母さんになった。日々ベビーベットの娘の足元に鎮座して見張りをしていた。

私が家事をしている最中に娘が泣き出すと、ストン、とベットから降りる足音がして、私の足元にやってきてニャーニャー鳴く。まるで「お母さん、私たちの娘が泣いてますよ。臭かったからオムツかもしれませんよ。」と言っているようだった。

その頃まだ若い猫だったチーちゃんは、家猫らしく日々元気を持てあましていて、何きっかけか分からないタイミングで猛ダッシュを始めることがあった。唐突に部屋の中を駆け回る。この突然の運動会で我を忘れて走り回っている時でも、床を這いずり回っている娘を華麗にジャンプして避けていた。絶対に踏んではいけない、と心に誓っているようだった。

娘にしっぽをむんずと掴まれて引っ張られても、やや険しい表情をしながら逃げもせず怒りもせず耐えている。寝そべってくつろいでいる自分が娘に枕扱いされても、穏便に逃げ出す機会をうかがいながら我慢している。

とにかく優しい可愛い猫だった。

ところがある日、このチーちゃんと唐突にお別れする日がやってきた。

娘が3歳くらいになった頃、私は毎日咳が止まらなくなった。最初は風邪かな、と思っていたけれど全然治らず2週間以上続いた。しまいには呼吸困難になるほどの咳の発作が出てしまった。あわてて病院に行き検査をしてもらうと、喘息だった。

大人になってから出ることがあるのかとびっくりしたけれど、お医者さんいわく、素因を持っていれば環境の変化や体調の変化で突然始まるのだという。おそらく出産で体調が変化したこともあるかもしれないと言われた。

猫を飼っている話をすると、また発作が起きてしまうかもしれず危険なので、できれば手放した方が良いとのことだった。私にとってはもう一人の娘のような存在で、手放すなんてとても考えられい。けれども、2度目のひどい発作が起きて覚悟を決めることになった。

友人に猫が大好きな子がいたので、もらってもらうことにした。

悲しくて仕方なく、喘息が出てしまうので会いにもいけず、しばらくはチーちゃんのことで頭がいっぱいで辛かった。会いたいなぁ、会いたいなぁ、とそればかり考えていた。街で似た猫を見かけるたびに思い出して泣けた。

喘息はそれ以来、ぴたりと治ってしまった。

***

娘はチーちゃんの記憶はほとんどないという。けれども彼女の奥深くに刻まれた猫の思い出が、最近になってマグマのように吹き出した。

やたらと「猫が飼いたい。」と言う。ソファーに寝転がって「ここに猫がいたらいいのに。」と言いながら、その彼女のお腹に乗っていると思われる幻の猫をエアーナデナデし、可愛い猫動画を漁っては身悶えしている。

毎日毎日、唐突に「どうしてウチには猫がいないんだろう!」と、ひとり言をいう。

そりゃぁ、私だって飼いたい。飼えるものなら2匹でも3匹でも飼いたい。でもどうだろう。あれからかなり時間が経っているし、あの時以来一度も喘息が出ていない。

飼いたいなぁ。けれどももし万が一、ということが起きて。

お別れするのだけは、もう2度とイヤなんだよなぁ。


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