ホロコーストと〈わたし〉
アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を訪れて
2024年3月にポーランドのオシフィエンチム(ドイツ語で「アウシュヴィッツ」)にあるアウシュビッツ・ビルケナウ博物館を訪れました。
アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館は、ナチスによるホロコーストの時代のアウシュヴィッツ・ビルケナウ絶滅収容所の場所にそのまま建てられた博物館です。
ホロコーストの時代に、約600万人の少数者(ユダヤ人を始めとして、障害者、同性愛者、シンティ・ロマ、スラブ人など)が犠牲となり、そのうち約150万人は15歳以下の子ども、約110万人はアウシュヴィッツ収容所での犠牲者と言われています。
アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館では、当時のものがそのまま展示されています。当時のものというのは、虐殺に使われたガス缶、犠牲者の髪の毛、鞄、収容所のベットなどです。
ハンナ=アレントの思想と〈わたし〉
アウシュヴィッツに訪れたのは、大学の授業でホロコーストについて学び、興味を持ったからです。大学の複数の授業でホロコーストについて触れましたが、その中でも興味を持ったのは哲学系の授業でハンナ=アレントの思想に触れたときです。
ハンナ=アレントはユダヤ系政治哲学者であり、『人間の条件』『全体主義の起源』『エルサレムのアイヒマン』など著し、ナチズムとソ連のスターリニズムなどの全体主義を分析しました。ホロコースト・戦争・虐殺などの暴力を生み出した全体主義を止められなかった理由として、アレントは、人びとの複数性(人それぞれが持つ個性、独自性、唯一性)が否定されたことにあると考えました。
ナチズムやスターリニズムは、私たちにとって遠いものかもしれません。ホロコーストは近現代史の中で特異のある出来事かもしれません。
しかし、ハンナ=アレントの『人間の条件』の以下の文章を読んだとき、私自身のこれまでの人生と結びつきました。
すなわち、(大衆)社会では、人びとは他者に対する唯一性を失い、画一的な行動が求められるようになったということです。アレントは社会における画一主義が全体主義につながると分析しますが、この文章で言う「ある種の行動」とは全体主義や国民的な国家を建設するために国民に求められた行動であると捉えられます。
画一的な行動が求められるのは、全体主義の社会だけではなく、私たちの普段の日常生活にもあるのではないかと思います。実は、私も小学校から高校まで、学校の同質性に苦しんだことがあります。
「みんな」の中に入れなかったとき自分が「みんな」と違う異質な存在じゃないかと思ったことがあります。自分が悪く目立ってしまったとき、陰口や揶揄いにも遭ったこともあります。それ以来、「みんな」と同じように振る舞わないと仲間外れにされてしまいそうと思い、「みんな」に嫌われないように頑張る生活が始まりました。自分の意見を言えなかったり、相手に賛同するばかりで断れなかったりと、「みんな」に合わせることが多くなりました。
「同調圧力に屈したらダメ」と簡単に言うけれど、私自身の子ども時代は常に「みんな」のことを意識していました。
アレントの『人間の条件』の上記の文章を読んだとき、画一性を求められる社会が自分のことのように感じられました。もし、私がナチ時代にドイツ人として生きていたら、おそらかドイツの「みんな」に従って行動(虐殺に加担)していたのではないかと思います。アレントに出会って以来、人間の同調圧力やホロコーストに至る全体主義に興味を抱くようになりました。
アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館の使命
博物館に入るとすぐ、
”Those who do not remember the past are condemned to repeat it. “
(過去を覚えていない人は、過去を繰り返す運命にある)
というメッセージが現れます。
ガイドの方の言葉で印象だったのは、「全ての人がこの目的を受け入れられるわけではない。虐殺されたユダヤ人からすると、ホロコーストの歴史を記憶するのは苦しい」ということです。
歴史教育に来年から関わる可能性の高い人間としては、博物館で見たこと聞いたこと、ホロコーストの一部に触れたことを記憶し、授業でしっかりと伝える意義を強く感じました。
アウシュヴィッツと〈わたしたち〉
アウシュヴィッツを案内していただくなかで、ガイドの方の問いが印象に残りました。
1つ目については、加害の歴史のある日本にとっても、ホロコーストを学ぶ意義は十分にあると思います。どのように加害の歴史に向き合うべきなのか、ドイツから学べることは多くあるはずです。また、現代日本での差別問題を考えるうえでも、差別や偏見がどのようなプロセスで虐殺になるのかを考えることで、差別や虐殺の防止につながるのではないかと思います。また、規模はもちろん違いますが、いじめ問題を考えるうえでも、誰がどのようにターゲットとされていくのかを考えるのは重要です。
2つ目については、社会科の教師になる者として、とても興味深い問いです。平成時代に生まれ、ずっと日本に住んでいると、民主主義が当たり前で、崩壊することなんて考えるに至りません。
しかし、同じ民主主義体制だったワイマール共和国からナチスという独裁政権を誕生させてしまったことは、とても恐ろしいことです。
民主主義の機能が維持している段階で、同調圧力に屈せず、声を上げることが大切だと思いました。ドイツでは、学校で、デモのやり方を学ぶそうです。私は、デモのやり方なんて学んだことがありません。権力にどう抵抗するか考える、その方法を認識することが、社会科に求められることではないかと思いました。
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