見出し画像

ジョーカー、破かれた顔(『新潮』2019年12月号)


(『新潮』2019年12月号に寄稿した映画『JOKER』評を公開します。担当編集者より許可いただいています。)

ジョーカー、破かれた顔

黒嵜 想

『ジョーカー』は、ヒーロー「バットマン」シリーズの宿敵である「ジョーカー」の誕生秘話を描く映画である。主人公のアーサー(ホアキン・フェニックス)は、コメディアンになることを夢見ながら、ピエロメイクで各所に派遣される大道芸人だ。向精神薬を服用しながら、同居人の母親を少ない月給でなんとか扶養する彼は、憧れのコメディアンであるマレー(ロバート・デ・ニーロ)とTVショーに共演する妄想に浸るのを、毎夜の楽しみとしている。彼は言う。「幸せなど一度もなかった」。
 本作がこの後に描くのは、そんなアーサーが職と社会保障を失い、ピエロメイクのまま意図せず犯してしまった殺人をきっかけに、貧困層のヒーローとして祭り上げられていく過程だ。広報用の公式サイトには次のような文言が見つかる。「弱者に無関心な社会に見捨てられた男の内面を描くリアルな人間ドラマ」。肯定的であれ否定的であれ、各者の評価はおおむね先の文言に沿うものだ。つまり本作は、アーサー扮するジョーカーを通して現代の社会的弱者の姿を照らし、その不穏当な顛末を美的に描いて(しまって)いる物語として提供され、読み込まれている。

 不平等にあえぐ貧者が富裕層に放つ一撃を映した、社会批判のリアリズム。だが筆者には、本作はそのような評価を向けるに心許ない映画に思えた。本作が描く貧富のイメージがあまりにも単純すぎるからだ。まず、街の権力者トーマス・ウェインをはじめとして、本作に現れる富裕層の姿はどれも断片的かつ紋切り型である。次に、アーサーの職業も、彼が打ち切られる社会保障も、それがどのような社会構造のしわ寄せとして描かれているのか判然としない。言い換えれば、アーサーが抱える貧しさが、作中において例外的で個人的なものなのか、一般的で社会的なものなのかがはっきりしない。バットマンシリーズの舞台「ゴッサムシティ」は本作において、むしろ貧富のディテールを覆い隠す書き割りとして現れている。
 本作の周到さは、ジャンルの制約をリアリズムの省力化のために利用している点にこそある。だが、以上のように振り返った上でむしろ謎めくのは、先述の仕掛けを機能させうるだけのアーサーへの共感だ。本作の断片的な物語や設定は、それ自体で社会的リアリティをもたらすものではない。順番が逆なのではないか。アーサーへの共感が物語や設定に先立ち、それが何に由来するのかを他者に共有せんとしたときに、本作の仕掛けが起動するのだとしたら。ならば翻って、この映画のリアリティはホアキン・フェニックスが演じる、あの身体にこそ求めなければならない。

 本作において新たに書き加えられたジョーカーの設定の一つに、アーサーがもつ持病がある。彼は、強い緊張が加わると自分の意思に関係なく笑い出してしまう発作をもっている。冒頭部、嗚咽なのか自嘲なのか判別のつかない声をあげているシーンに始まり、困窮に追い込まれるにしたがって、アーサーは苦悶の表情をただちに破顔させ、笑い声をあげる。彼がジョーカーとなるきっかけの殺人は、居合わせた富裕層の若者にこの発作が原因で絡まれたことに端を発する。次第に鑑賞者は、アーサーの笑い声が何によってもたらされたものなのか、わからなくなってくる。彼の涙は、ピエロメイクのなかにしか表れない。アーサーはいわば、「泣き顔を奪われた男」なのだ。
 哲学者アンリ・ベルクソンによれば、笑いとは人間的な理知に起因するものであり、無感動を伴うものであるという。だからこそ、笑うものたちの間には理知の共有が確かめられ、同質性が担保される。ジョークに失敗したアーサーが緊張のあまり発作を起こし笑われるとき、彼がジョークを解せず遅れて笑うとき、私たちはそこに失われた表情を想像するほかない。笑いの同質性に、涙が疎外されている。

 ならば、本作における貧困のリアリティとはこの「笑い顔」に他ならない。涙は、非対称を憐れむ「泣き顔」に与えられる。なぜ彼・彼女が、なぜ自分が。職を解雇され、社会保障を打ち切られ、自身のルーツをも見失ったアーサーを憐れむことができるのは、もはや彼自身の涙しかない。にもかかわらず、彼は我が身の孤独に泣く顔すらも奪われた。アーサーが発作により声を上げ、衆目を引き、人々の笑いを誘うたび、私たちはかけがえのない孤独が同質性の渦の中でシェアされる様子を目撃している。ふたたび、笑いに関するベルクソンの言葉を引こう。

純粋な理知の人々の社会では、たぶんもう泣くことはないだろうが、しかし依然として笑うことはあるだろう。他方、つねにものに感じやすく、生とすっかり調子が合い、あらゆる出来事と感情的に共鳴する人々は、笑いを知ることも理解することもないだろう。

 我が身を憐れむ孤独は、涙は、贅沢品となった。しかし「純粋な理知」が社会を満たしたわけではない。「あらゆる出来事と感情的に共鳴する人々」の貧困者たちは、怒りの表情を笑い顔のマスクで覆う。そしてアーサーは、文字通り顔を破くかのように口角を引っ張り上げる。引き裂かれたのは笑いの同質性そのものだ。ジョーカーとなった彼は、画一的な記号に私的な感情を飲み込まれ、発作的な運動を繰り返すピエロたちを笑う。涙は蒸発し、ジョークは失効し、互いの顔の同質性を監視する視線だけが残された。
 本作に喧伝され評された社会的なリアリティと、作中の非社会的な構造のギャップは、それ自体がアーサーの「笑い顔」への共感の難しさ、あるいはジョーカーが完成させた事態を物語っている。この点においてのみ、筆者は『ジョーカー』に現実社会と地続きの感触を覚える。ネット上には「共感」を求める挑発的な文言でパッケージされた「政治運動」が毎日のように飛び交うようになった。いいね!、シェア、署名、デモ。私的感情を公的運動に拡大する方法が、日々効率化されていく。エンジンとなる共感には高速化が求められている。もっとも燃費の良い感情は怒りだ。瞬発的で、対外的で、解放に快楽をもたらす、この感情。溜飲が下がればそれは笑いに転化する。しかし私たちはなおも互いの顔を確認せずにはいられない。
 Why So Serious?

引用文献
H・ベルクソン S・フロイト『笑い/不気味なもの』原章二訳、平凡社、二〇一六年、一五頁

(初出:「新潮」2019年12月号)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?