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神様は乗り越えられる試練しか与えない。乗り越えるとは?

神様は乗り越えられる試練しか与えない。というのは、特定の宗教を信じてない人でもよく耳にする言葉だと思います。

仏法では、似た言葉に願兼於業(がんけんおごう)というのがあります。ざっくりいうと、仏法を行うことで必ず幸せになれることを証明するために、あえて業を背負って(悩みを持って)生まれてくる。という意味だったと思います。

この言葉はしばしば、悩んでる人を励ますときに使われます。

例えば、何か辛いことがあって相談したとき、「その悩みには絶対意味があるよ。願兼於業だから、この仏法で絶対乗り越えられるよ。」といった感じで話したりします。

聖教新聞にも毎日、悩みを乗り越えた体験談の記事があり、座談会などの会合でも体験談が語られます。そして、私も乗り越えられた、あなたも絶対大丈夫、と励ましてくれます。

それは全然間違っていないし、同じ悩みを持つ人の体験談を聞いて希望を持てることはとてもいいことです。

でも、私にはこの言葉が結構プレッシャーになっていました。

悩みや目標を持ったときに、それを乗り越えたという「結果」を出さなきゃいけないと思っていたんです。

たとえば、

資格の勉強をしていて何度も落ちたけど、諦めずに挑戦して合格した。とか、

職場の人間関係に悩んでたけど、誠実に向き合ってみんなと仲良くなれた。とか、

病気が治った。とか

そういったわかりやすい「結果」がないと乗り越えたことにならないから、

勉強を諦めた自分

人間関係がうまくいかなくて仕事をやめた自分

病気の自分

は、まだまだ頑張らなきゃ、頑張って乗り越えなきゃ、だって自分で望んだ悩みだから。逃げちゃだめだってずっと思っていました。

悩みを相談してくれた友人にも、逃げたらまた同じ悩みが出てくるよ、って酷いことを言ってしまいました。

その結果、心を病んで、病院に通うことになりました。

そして、治療を受け、自然に過ごせるようになった今、改めて「乗り越える」ってなんだろうなと考えました。

で、やっぱり、それは、どんな自分も受け入れるってことなんだなと思い至りました。

勉強をあきらめて、情けない気持ちになる自分もいていいし、

人間関係に悩んでる自分もいていいし、

病気でつらい自分もいていいし、

いていいというか、こういうことが起こると自分はこういう気持ちになる。それがどんな気持ちでも、出てきた気持ちを味わう。

自分から出てくる気持ちを味わうことが人生の楽しみであって、楽しいこともつらいことも自分の気持ちを引き出す刺激に過ぎないのかなと思いました。

試練があったとき、戦いたいと思えば戦ってもいいし、逃げたいと思えば逃げてもいいし、どっちを選んでもオッケーで、自分がこうしたいと思ったことをして、それを選んだ自分にオッケーを出せたときが、乗り越えたってことになるんじゃないかなと思います。

試練を乗り越えるということに正解はないという話でした。

追記

どんな結果になってもオッケーなんだとすれば、そりゃあ、乗り越えられないものはないですよね。まあでも、自分が思っていた結果にならなかったときに、その自分を本当に受け入れるって大変だから、やっぱり乗り越えるって大変です。うん。