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D.D.G. -Hope to Live, Want to Kill- (Sequence 1.)

Sequence 1. Worst Buddy.

「げ、えっ……!」
 少女絡生まといの喉からゲロが落ちる。朝に食べた不衛生なパンの欠片が点々とするそれは、廃墟に行手を阻まれたスラムの路地裏を更に汚していく。
 彼女の横には、アタッシュケースを持つトレンチコート姿の男2人。彼らは自身の首筋に刺さった記憶端子メモリバスを抜いた。一瞬、非人間的な接続口が見えるが、すぐに肌色の蓋で閉じられる。
下層エラーのゴミが」
 男は唾を絡生に吐きつけた。既に埃と脂で艶のなくなった黒髪に、赤の他人の唾液が上塗りされる。
上層インテグラに楯突くからだ、屑め!」
 もう一発絡生の横腹を蹴る。軋む音が少女の体内に響く。激痛の衝撃で息が上手くできない。
 その惨状の遥か上空を、物資高速輸送モノレール『トランスポーター』が無関心に通り過ぎていく。上層インテグラ中層アダプタのみを繋ぐカーボンナノチューブを伝うそれは、『下層民は死ね』と言っているかのようだ。
「酷えもんですなぁ。こんな汚くちゃ、そそられもせんですわ」
「全くだ」
 下卑た笑い声が絡生の鼓膜を打ち鳴らす。
 彼女の頭の中には今、過去の記憶が駆け巡っていた。

 ――酷い人生に、なってしまった。
 元々中層アダプタでそれなりの暮らしをして、両親とも仲良く過ごしていたのに。
 両親は報道記者だった。他者の悪を暴いて飯の種にする仕事。彼らは上層インテグラに属する基盤政府マザーボードの人間の悪事を暴く危険な仕事を始めた。自らの首の接続口から電脳線ニューロケーブルを経由し、基盤政府マザーボードネットワークに潜入ダイブ――『暗号化電子データ体』となって調査をするのだ。
 今は情報社会――情報が価値を持つ社会。高価値の情報を持たぬ者は生活はおろか身分すらも差別される――そんな『情報格差データキャズム』が其処彼処にある。中でも下層エラーとそれより上は顕著で、そもそも下層エラーの人々には接続口が無い――従って情報すら得られない。運良く接続口をつけて貰えた中層アダプタ以上の人々も、その社会で良い暮らしをするには、高価値の情報を得るしかなかった。
 絡生の両親にとって高価値の情報とは『上層インテグラ』の情報だった。
 だけど、それを得ることは危険な領域に態々入り込む事を意味する。命の危険を冒してまでご飯を食べさせられたくはなかった。ただ両親と生きて、一緒に笑って暮らしたかったのに。

 生きてこその人生だ。
 死んだら、如何なる情報も更新されなくなる。

 ……両親は調査開始から数日後、コードを首に接続した状態のまま机に突っ伏して動かなくなった。政府の手によってウイルス感染させられ、精神破壊されて発狂死したのだ。
 その体は、冷凍睡眠コールドスリープしたかの様だった。
 後は急坂を転がるが如く――両親の関係者として捕まる事を恐れた絡生は、付け焼き刃の擬装技術で関門ファイアウォールを抜け、情報を持てぬ弱者の溜り場、下層エラーに辛うじて逃げ込めた。
 そこまでは良かったが、スラムにて待ち受けた生活は苦痛だった。情報を持てない彼らは物を奪う、命を奪う。平然と、或いは心を殺して奪わねば生き長らえられない。
 私には無理だった。罪悪感と後悔に苛まれるばかりで、慣れようにも慣れなかった。
 そんな生活から抜け出すべく、上層インテグラの人間を襲って高い情報を奪おうとしたら、当然の如く返り討ちに遭ってこの有様。

 ――走馬燈ウォークスルーが終わり、絡生は思う。
 殺されるのかな。
 殺されるだろうな。
 でもそれは嫌だ。死んでも嫌ではなく、死ぬのが嫌だ。
 ここから逃げたい。生きたい。無様でも何でも、生きてこその人生だ。
 両親みたいに「人生」なんて、真平御免被る。
 生きたい。生きていたい――!

そんなに生きてェか

 ……絡生は、とうとう自分の頭が可笑しくなったと思った。
 男2人とも違う声で、しかも男達には聴こえていない様子だったから、単なる幻聴だと思ったのだ。
 だが。
おいおい、よく見ろよ。目の前にいるだろ?
 声は続く。いよいよ自分は終わりバグを起こしたのだと思いつつ目の前を見る。
 何かの拍子に落ちたと思しき1本の記憶端子メモリバス
 ……まさか。
そう、そこにいる
 記憶端子メモリバスが、喋っている!?
 そんな馬鹿な。やはりこれは幻聴――!
混乱してる場合か!
 記憶端子メモリバスからの声に、苛立ちが混じっていく。
【まどろっこしいんだよ! 此処は悠長にお前の考えが纏まるのを待っちゃくれねェ! お前の目の前にあるのは2択だ! さっさと手ェ伸ばしやがれ!】
 謎の記憶端子メモリバスからの言葉で、絡生はハッと我に返った。
 畳みかける様に声は迫る。

【生きてェのか! 嬲られて穢されて死にてェのか! どっちなんだ、お前は!!

 ――そんなもの。
 絡生の肚は既に決まっていた。
「……き、たい」
 指で地面を掴む。匍匐ほふくする。謎の、語り掛ける記憶端子メモリバスに向かって手を伸ばす!

「生き、たいっ!」

 その叫びに漸く男達が気づく。何事かという怪訝な表情は、絡生が掴んだ記憶端子メモリバスを見て一気に血相が変わる。
「テメェ! それを返せ! まだ使う時じゃねえんだよ!」
構うな、俺様をお前の首に差し込め!
 絡生にはもう選択の余地は無い。幻聴でも何でも知ったことか!
 自分の首筋に触れる。肌色の蓋が開く。接続口だ。
「なっ……! お前、下層エラーの人間じゃねえのか!? 何で接続口を持ってやがる!」
 そりゃ、元々中層アダプタの人間だもの。
 心の中でだけ答え、記憶端子メモリバスを突き刺した。中に詰まった情報が絡生の中に流れ込む。薬剤が血管を巡る様に神経回路を通り、脊髄を経て脳へ。脳内データが強制的に更新される。
 刹那。
 がくり、と絡生の顔が項垂れた。体が痙攣して手足が変哲な動きをし始める。
 しかし、より強烈な変化はここからだった。
 髪が――あれだけ黒かった髪が、徐々に。男2人の口端が引き攣る一方、絡生の口元は異様なまでに吊り上がる。
「――は」
 そして。

「ぎゃっははははははははははははははは!!!」

 下品な哄笑。
 先程の少女とまるで別人のそれを聞いて、男2人は明らかに青褪めた。
「最悪、だ……!」
 現実を受け入れたくなくて、1歩、2歩と退がってしまう。
「目醒めちまった! 最低最悪の悪魔がっ!!」
 対する絡生――否、絡生の中に入ったナニカは、男達の狼狽に目もくれず、こつこつと自らの首に刺さった記憶端子メモリバスを突く。
「ぎゃは、ぎゃははっ! まんまとくれちゃってよォ! 俺様が正義の味方だとでも思ってくれたかァ!? 縋る藁はよく見た方が良いぜェ!」
 にしても、とナニカは続ける。
「久々の外だ! どのくらい経った?」
 懐かしさからか、空を抱き締める様に両手を広げる。ちっぽけな人間に広大な空は抱えきれない。その青空を『トランスポーター』が横切ると、ナニカは舌打ちをして中指を立てる。
「クソみてェなモノレールハエが飛び交ってるってことは、まだそんなに経ってねェか」
 ま、と漸く男2人に目を向ける。殺意で煌々ギラギラ光る目を。
「クソみてェな人間共を殺せる機会ができたんだから、良しとするかァ!」
「――戦闘準備!」
 男2人はトレンチコートの内ポケットから記憶端子メモリバスを取り出す。各々、世界王者級のボクサーの経験と念動力系超能力者のデータが入っている。首に刺して情報を取り込めば、忽ち即席プロボクサーとエスパーの完成……という訳だ。
 2対1で挑めば、相手が殺人鬼と言えど流石に問題はない。
「目の前のを排除す――」

「遅ェよ」

 元死刑囚のナニカは、1人の男の記憶端子メモリバスを持つ手を掴む。驚く間も与えずそのまま握力をかけて記憶端子メモリバスごと骨を砕き割った。
「が、ああああああっ!?」
「ぎゃは」
 手を抱えて膝をつく男の髪を掴んで立たせる。少女とは思えない強靭な力。
「くそ、この――」
「ほうら」
 ばきり、と軽い音が鳴る。鼻柱にそこらに落ちていた石を叩き込まれたのだ。一撃で軟骨を砕かれた鼻からは、だらだらと血が流れる。
「ぶ、ご……」
 苦しみながら無事な方の手で鼻血を押さえる。その反応を見て元死刑囚は溜息をついた。
「つまんねェな。もう死ね」
 石で首筋を思い切り殴りつける。嫌な音が鳴り響いたかと思うと、そのまま横たわって動かなくなった――首の骨が折れたのだ。
 そして止めに頭蓋を粉砕。痙攣すらも止まる。
 元死刑囚は笑う、殺して笑う。
「ぎゃははははっ! コイツで何人目だ? 多分70は超えたかァ!? もしかしたら77人目の死者ダブルラッキーセブンかもしれねえなァ!」
 もう1人の男は、既に記憶端子メモリバスを首の口に差し込んでいた。全身にプロボクサーの経験が染み渡り、自然とボクサーとしての構えを取る。
 元死刑囚はぎゃはっと嘲る。
「ンだよ、プロボクサーの物真似かァ?」
「……黙れ、元死刑囚」
「『剰報じょうほう刑』で俺様を満足に発狂死もさせられなかったテメェらが何言ってんだ。大体」
 心底どうでも良さそうに死体を足蹴にする。肋骨が気味良く折れた。
「さっきもコイツを助けられただろうによォ」
「弱者に生き残る意味はない」
「……違ェねェな」
 元死刑囚もボクサーの構えを取る。人差し指と中指を並べて、くいと自らの方へ折り曲げた。
 来いよ――言外の挑発。
「望むところッ!」
 男は近づいた。セオリー通りでは勝てない。殺す気で行かねば殺されるのはこちらだ!
 男の覚悟の据わった特攻に元死刑囚は口笛を吹く。
「良いねェ。ちったァ戦い辛え体だが、こっちもやってやろうじゃねェか!」
 赤髪を揺らして接近。互いの有効距離に入り込む。男が拳を顔面に伸ばす。男の目は義眼なのか、何かの情報データが網膜と角膜を行き来しているのが分かる。チートめ、と舌打ちしながらも元死刑囚は簡単にいなし、体勢を瞬時に低くしてアッパーカット。が、これも容易く避けられる。
 べえ、と元死刑囚は赤い舌を出す。
「この乙女の顔に何しやがる!」
「乙女なものか、犯罪者野郎!」
 殴打。殴打。殴打。殴打。
 静かな拳の振り合いが続く。男の方は義眼の援けもあってか、攻守一体を司る本物のプロボクサー宛ら。対する元死刑囚はプロの動きではないが、その場その場の対応力で攻守を実現。
 右ストレート。回避、カウンター左ストレート。防御、後退、接近の上ワンツー。防御、ボディーブロー。掠り、顔面カウンター。掠り、距離を取る。

 ジリジリ迫る勝負は一気に展開する。

 元死刑囚がストレートを放った途端、男がその腕を掴む。
「しまっ――!」
 振り解く間もなく、そのまま腹を蹴り上げられる。肺から空気を吐き出された。
 隙を突いて重い一撃を決められた男はこの瞬間に勝利を確信する。
(元死刑囚のコイツを殺せば、ここで起きたことは全て無かったことにできる! 俺の責任は問われなくなる!)
 自らの今後の保身に悩む必要もなくなる、目を抉られるなんて2度と御免だからな――と安堵した。

 その隙を、元死刑囚が逃す筈が無い。

「……ボクシングに蹴りは反則だろうがよォ」
 男の体が総毛立つ。目の前には獰猛な笑みを浮かべる少女の顔。先程決まった筈なのに嘘かの様にけろっとしている。
 義眼が警告を鳴らす。『危険』『距離を取れ』『仕切り直し』と素早く文章が目の前を流れていく。だが、それより早く元死刑囚が動いた。
「まァ、端からルールを守るつもりもねェが――そっちが先に破ったんならこっちだって容赦はしねェ!」
 掴まれた腕を逆に利用して男に接近。あまりに突然の動きで男は反応が遅れる。構わず元死刑囚はキスでもしそうな勢いで顔と顔を近づけた。
 それからその横を通り過ぎ、大きく口を開け。
 ――
「ぎゃ、あああああああああああっ!!?」
 だくだくと濁流のように剥き出しの動脈から血が流れる。最早攻撃どころではない。絶叫する男は思わず元死刑囚の腕を離すが、続けざまに容赦なく股間を蹴り上げられた。
「……人間の肉は不味いなァ」
 もうちょいマシなモン食いたいぜ。
 脂ぎった柔らかすぎる肉を噛みながら、急所を突かれ悶絶する男の頭蓋を踏みつけて砕いた。
 路地裏には咀嚼音だけが響いている。
「……成程な」
 全ての殺しを終え、ガムでも噛むように人肉を咀嚼しつつ、元死刑囚は頭を掻く。
「意識を乗っ取れる時間には限度があるってことか――」
 瞬間、再び首が項垂れる。髪が逆再生の如く赤から黒に戻っていく。
 そして。
「……っぷ、う、げええええええええっ!!」
 項垂れたまま、噛みかけの肉と共に胃の中をぶちまけた。直後記憶端子メモリバスを抜き去り投げ捨てた。接続口は肌色の蓋で即座に閉じられる。
「っ、は、はっ……!」
 絡生は吐瀉物塗れの口から息を喘がせ混乱していた。

 私は――今、私は何をした!?
 殺した。いとも簡単に大の男2人を!
 殺すのは生きるためならば仕方ない、が、殺し方がまずい。不味すぎる。
 首の骨を折るのも嫌だけど、首を、首に、齧り、つ、ついて、殺すなんて――。

 ぬめり、と舌に残る血と脂の味。また腹の底から込み上げるものがあったが。

おい、今まで散々奪っておいてそんな反応かァ?

 聞き覚えのある声が、目の前から届いた。
 顔を上げると、信じたくないことに中肉中背のコートを着た赤髪の男が立っていた。彼は現実には生存しない――絡生の脳内にある彼のデータによって現実世界に像を結んだ幻覚だろう。
 巫山戯るな。科学の発展した世の中で、そんなファンタジーじみたことがあって堪るか。
 悪態をつく絡生に対し、幻覚上の男はぐにゃりと歪んだ笑みを浮かべる。
しかし良かったなァ。ちゃァんと生きられたじゃねェか
「なに、が」
 何が「よかった」だ。
 これなら、こんな胸糞悪い思いをするのなら、あのまま死んだ方がマシだった。
 本気でそう思ったが、死ぬ勇気は絡生には無く、それは絡生の中に入り込んだ彼にも分かっていたことだった――入り込んだお蔭で、思考も共有する形になっているのだ。
 幻覚上の男は1割くらいの同情を込め、肩をぽんぽん叩いて言った。
さ、これでお前は政府のお尋ね者だ
 彼の言葉に、絡生は肝も背筋も冷え切った。
俺様は既に死刑執行された凶悪犯。お前はそのデータを盗み、基盤政府マザーボードの関係者と思しき2人を殺した重罪の共犯者。監視網の張り巡らされた中じゃ逃げる場所なんざどこにもねェ。このままじゃ野垂れ死ぬだけだ
 野垂れ死ぬ。死ぬ。
 その言葉が、重く、絡生にのしかかる。
だから、お前は生きる為に戦って殺し続けなくちゃならねェ――大丈夫だ、俺様がそこんとこは代行してやるよ
 そういう問題じゃない。そう思っても手遅れだということは絡生には分かっていた。

 ただ平和に生きたいだけなのに、どうしてこんなことに。

俺様の目的は、俺様を殺した基盤政府マザーボードを全員殺すことだ――それ以外も殺すけどな
 それでも絡生には、
さて、自己紹介といこうか――
 生きると願うならば、

俺様は報炉ムクロ。70人は手ずから殺した殺人鬼だ。よろしく頼むぜ――マ・ト・イ・ちゃん

 この殺人鬼の亡霊データ運命共同体となる情報共有する以外の選択肢など、残されていない。

 『トランスポーター』が再び上空を通過する。少女の居場所に影が落ちていく。

***

ほう、こいつァ……ムエタイの知識か。で、コッチはマジシャンの知識――マジシャン? 一体何に使うんだか
 報炉は、死んだ男達のケースから取り出した記憶素子メモリバスめつすがめつ眺める。所詮は絡生の幻覚でしかないので触れることは出来ず、地面に置かれたそれらを好奇心旺盛な子供の様に見ているのだった。
 対する絡生は、その横でうずくまる。
 ――この元死刑囚の犯罪者は、自分の中に入り込んでしまった。
 嘗て両親から聞いたことを思い出す――記憶端子メモリバスの情報は、刺している時に入り込み、抜けば情報が消えるように出来ていると。どういう仕組みかは分からないが、恐らくは情報を持ち逃げされない為の予防策なのだろう。
 だから報炉に意識を奪われた時、あの男2人は記憶端子メモリバスを刺したのだ。絡生と相手する時にも強力な記憶端子メモリバス――1つは今さっき報炉が物色したムエタイの知識だ――を刺していた。もし抜いて尚有効ならば、再び刺すなんて面倒な行動をする必要はない。
 記憶端子メモリバスを抜き去っても元死刑囚の意識が残留しているどころか、幻覚さえ見て話が出来るのは、前代未聞で原因不明だ。
 だが、目下の問題はそこではない。この男をどうにかする方が先決だ。
 物理的に逃げる事は不可能。この男から逃げるには、何らかの手段でこの男の情報を外に出すか、自分が死ぬかしかない。
 無論、後者は論外。ただ平和に生きたいというのが自分の願いなのだ――たとえ、蜘蛛の糸を掴む様な話であったとしても。
 でも、この男を追い遣る手段なんてあるのだろうか――。
酷ェこと考えるなァ、お前
 報炉のにやけた声に、絡生は体を震わせる。
 何故バレたんだ。疑問符に頭を埋め尽くされて錯乱する絡生を差し置き、報炉は怪訝そうな顔をした。
何ビックリしてんだよ……ってそうか、お前には言ってなかったか。なら、耳の穴かっぽじってよォく頭に入れとけ】
 何かを納得して、絡生の耳に人差し指を突っ込んだ。幻覚の筈なのに、いやに差し込まれた指の感覚がリアルだ。恐怖のあまり震えて動けなくなってしまった彼女に続ける。
【俺様はお前の考えを共有されている。お前が何か危害を加えようとしたら、すぐに分かるぜ】
 絶望。絡生に浮かんだのはただその2文字だ。
 物理的どころか、精神的にも感情的にも逃げ場が無いのか、と。
 更には、追い出すこともまた不可能だ――そう悟った彼女に、報炉は容赦なく追い討ちをかける。
【そん時ァ、俺様がお前の意識を喰い殺してやる

「それは……ッ!」
 それだけは、絡生は望まぬことであった。
 彼女の人生を人質にとった報炉は、ぎゃはっと笑って獰猛な意地悪い笑みを近づける。獲物の喉元を捉えた獣の息が、絡生の前髪を揺らす。
それが嫌なら、嫌でも人形よろしく、俺様に体よく動かされるんだなァ
 報炉は余裕で嘲笑しながら耳から指を抜き、また記憶端子メモリバスの物色に戻った。
 へたりとしゃがみ込む。
 生きたいと思って手を伸ばした筈なのに、
 これじゃ、生きている意味なんてないのではないか。
 報炉に筒抜けなのにも関わらず、思うことを止められなかった。
 その、瞬間だった。

……やっぱり今喰っちまうか

 胸の奥が冷たく寒くなり、体が震え出す。
 絡生の視線の先の幻覚上の男と目が合う。全く笑っていない。
 本気だ。
お前には勿体無ェ――生きるつもりがねェなら全部俺様に寄越せ
 本気で自分を殺す心算つもりだ――絡生の中の生存本能が覚醒する。
「……やって、みなさいよ」
 絡生は手近なプラスチック片を握る。それを自らの首筋に押し当てた。あと一押しで皮を破れる位まで。
 これが今一番生きられる確率の高い行動だ、と絡生は考えた。
 幻覚には物理攻撃は効かない。逃げることも叶わない。
 であれば、現状最も効く脅しは――逆説的に、
 今、報炉は絡生の中に入っている。つまり絡生が死ねば報炉も死ぬ。基盤政府マザーボードに復讐を遂げたい彼は望まぬ筈だ。慌てて馬鹿げた凶行を止めるだろう。
 そうなれば絡生の思う壺――。

 だが現実は厳しい。たかが生き延びたい少女が思いつく甘い考えなど、この世界は軽々と凌駕する。
 思わず固まる絡生に、ぎゃはと笑って自殺を推奨する。
何だよ。死にてェんだろ? 早くしろや
「……っ」
 死にたい訳、ないじゃない。
 口から出そうになったが、どうにか喉奥に押し戻す。
 だが、口に出さずとも思考に出した時点でお終いだということに、遅かれ絡生は気付いた。
(しまっ……!)
【……じれってェな。手伝ってやるよ
 絡生のプラスチック片を掴む手が掴まれる。当然、勝利を確信して満面の笑みを浮かべる報炉に。
 男の力に勝てる筈もなく、絡生は為されるがままに手を動かされる。幻覚の筈なのに、実際掴まれて動かされるように感じて気持ちが悪い。
 欠片の突起がぴたりと顎の下を捉えた。
良い機会だ、マトイちゃん。冥土の土産に、この殺人鬼が殺人方法をレクチャーしてやろう】
 声が楽しそうだった。生粋の殺人鬼だった。
知っての通り、首は急所だ。太い血管も重要な神経も通ってるからな。だからココだけでも殺し方はごまんとあるが、刺すんだったら、手で触って脈を感じられる部分がおススメだ】
 首に向かって圧力がかかる。刺さる、寸前。
ほら、とくん、とくんって響くだろ? ココに狙いを定めるんだ
 脈の音が煩く、息が荒く。ぷつり、という聞こえる筈のない皮を破る音まで感じるほど鋭敏になっていた。
【あとは一突き、ぐいと捻って抜いてやれば――】
「やめてっ!!」
 絡生は情けなく泣き叫んだ。
 もう限界だった。言葉をかけられ続け1つ1つ丁寧に想像させられるばかりか、実際に痛い目に遭うという恐怖に耐えることなどできなかった。
「……私が、悪かったです、から……お願い、殺さないで……」
自分で自分を殺そうとしたんだろうが、馬鹿め
 抵抗の意志がないと分かり、絡生の手を離してやる。ほぼ同時にプラスチック片は地面に衝突した。
 涙を流す絡生に、報炉は舌打ちと共に吐き捨てた。
泣くくらいなら、最初から自分の命を天秤に乗せんじゃねェ、クソ餓鬼
 絡生には返す言葉も無かった。だが「意識を喰われる」=「殺す」と言われて思いついた有効な手段がアレ以外にあっただろうか、と自問すれば「否」だ。
 生きたい為にとった行動なのに、どうしてここまで惨めにならなきゃならないのだ。何故泣いているのだ。何故、普通に生かして――いや、生きられないのか。
「……でも、生きたいんだもの!」
 泣きじゃくりながら、報炉に訴えかけた。
「お前なんかに殺されたくなかったんだもの! 仕方ないでしょう!? 他にどうしろって言うのよ!!」
 彼が自分の生殺与奪の権を握る殺人鬼だということも忘れて怒号を浴びせていた。
「どうにかできるってんなら、そのやり方を教えてみせてよ! 『どうせ出来ない癖に』とか思うんでしょう、私が出来ないのを分かってさぁ!! お前は良いよな、殺せば全て済むと思ってて、為せるだけの技術も持ってて! 全てを持っている側から見下してる風な――っ!!」
 言い終わる前に。
 絡生の細い首を、報炉の無骨な手が掴む。息の通り道が狭まり、声が止まる。
 本当に今起きているのは自分の幻覚が作り出した事態なのか、と湧いてくる疑問は血中酸素濃度と共に薄れていく。
……知った様な口を利きやがって
 顔には、憤怒が刻み込まれていた。
不愉快なんだよ。どいつもこいつも、俺様の人生を伝記でも読んだかの様にして接してきやがって。お得意の技術でRPGにでもして遊んでみりゃ良いってんだ
 口の端に白い泡が吹き始めているのが分かる。世界が明滅する。思考がすぐにバラバラになる。
 殺される、そう思った。
 でも。
「……そ、っちこそ」
 、とも思っている。
「知った様な、口を、利きやがって……っ!!」
 固く閉じられてゆく報炉の手をこじ開けようと藻掻く。
 命乞いはしてやらない。命乞いなどこの男の道楽の種にしかならぬと手に取る様に分かるのだ。何故か。
 ――だ。思考を共有している、とさっき報炉が言っていたが、それが影響しているのかもしれない。
 どうでもいい。
 今は、何としてでもここを生き抜いてやる――!

……今回はその覚悟に免じてやるよ

 舌打ちをしながら、首から手を離した。電池が切れたロボットの如く膝をつき、荒々しく咳込んだ。一方の報炉は溜息をつきながら後頭部を掻く。
ったく、やっぱり人生ってのは順風満帆にいかねェもんだよな――
 殺意と敵意を込めた視線を浴びせる。絡生はびくりと震えるが、先程までより怯えは無くなっているのか、睨み返した。
 殺したい殺人鬼と、生きたい少女。
 これから生きていくにはあまりに不完全で不健全な関係性。しかし両者共に解決策も、そればかりか解決する意志もない。これさえ解決すれば、2人は何処でだって捩じ伏せながら生きていける筈だ。
――おい】
 だが世界は残酷だ。2人の歪な関係が改善されるのを待つ筈がなく苦難を課してゆく。
【意識の操作権を俺様に寄越せ、今すぐにだ

 報炉からの突如の要求にどことなく切羽詰まっている気配を感じたが、言っていることが二転三転するものだから絡生としては混乱する。
「な、にを……?」
 混乱と怒りの混じった疑問を呈すると、それ以上の有無を言わさぬ語調で怒鳴った。
良いから寄越せ! ! 死にてェのか――
 お前は――と言葉は続かなかった。
 突如銃声が建物の上から3発、絡生を捉える。
 轟音が響き渡る空の下、音源となる廃墟の屋上にはシルクハットを被ったスーツ姿の紳士。口髭を弄りながら片眼鏡越しに――風速や照準誤差などの数値が彼方此方あちこち書かれているハイテクな代物だ――硝煙立ち上る拳銃を眺める。
「……ふむ!」
 紳士はくるりと華麗に後ろに振り向く。いつの間に廃墟を登ったのか、赤い髪の絡生――『報炉』が立っていた。
「小生の奇襲アンブッシュを避けるとは、只者では御座いませんな!」
「だとしたらお粗末にも程があるぜ?」
 報炉はぎゃはっと笑う。
「お前も基盤政府マザーボードの人間か、そうでなくても関係者だろ、似非紳士。ブチ殺してやるよ」
「言葉がなっていませんな、狂犬」
 シルクハットを目深に被って呆れる仕草をする。
「大体、小生にはフィラロという歴とした名前があるのです。今後はフィラロと呼称しなさい」
「……頭湧いてんのか?」
 自らの頭を指さして呆れ声を出すが、紳士――フィラロは至って真剣であった。
「名前で呼ぶのは最低限の礼儀。マナー教本も読んだことが無いのですか? 人間としての素養位持ち合わせて欲しいものですな、殺人『鬼』ムクロ殿?」
「……鼻につくぜ、お前」
 ぱきり、と殺意の音を鳴らす。
「殺してやるよ、今すぐにだ」
「言葉遣いも善き人間には大切――折角です、ここで教育して差し上げましょう」
 フィラロは銃を構える。拳銃使いの知識でも流し込んでいるか――フィラロの首に刺さる記憶端子メモリバスの中身に警戒しながらも、報炉は敵意たっぷりに応答する。
「貴族の道楽に興味はねェが」
「『世の中で一番惨めなのは、教養の無いことである』――こんな格言も知らぬ様では、目も当てられませんぞ」
「格言に溺れる奴こそ、目も当てられねェと思うがな」
 報炉は笑んだ。それが合図――フィラロは銃身バレルの照準を報炉の肩に合わせ、報炉は獰猛に白い歯を見せながら再度指を鳴らす!
「小生に勝利してから言うのであるな!」
「上等ッ! ブチ負かしてその鼻へし折ってやるよ!」
 地面を蹴る音と火薬の爆発する音が、同時に弾けた。


To be continued.

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