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小説『生物失格』 3章、封切る身。(Episode 16)

目次
前話

Episode 16:異変。

 抜き足、差し足、忍び足。
 音1つすら立っていないテント群を通る時の自分と奇季は、まさにそんな状態で歩いていた。とてもじゃないが、周囲の人間を起こす訳にはいかない。少なくともビスタのテントに辿り着いて、ビスタとするまでは。会話することもなく、2人揃って静かに目的地へと向かっていた。
 1分経たずに、テントに辿り着く。入り口前には既にあの大男――鎌川鐡牢が立っていた。無言で手を振るが、自分には振り返す余裕が無かった。対して隣にいる奇季は手を振った。これが大人の余裕というやつだろうか。下らないことを思った。
 集合したところで、早速テントの中に侵入する。
 獣臭さが鼻の奥を刺激する。普段より嗅覚が過敏になっている気がして、一瞬声を上げそうになったが我慢した。他の2人はと言えば顔色1つ変えていなかった。
 これから陽動作戦に打って出る人間の顔には思えなかった。

 ……もしかして、自分は選択を誤ったのか? 今更にそんなことを思う。
 実は自分は既にピエロの術中に嵌っていて、例えば奇季も鐡牢もをしているだけだとしたら。そうだとすれば、間違っても助けを求めてはいけなかったのではないか。
 どうにも、自分は心の余裕を失っているらしい。他者へのなけなしの信頼すら揺らいで消え入りそうだ。
 やはり、人間というのはどこまで行っても信頼しきることは出来ない。たとえどれだけの善行を積んで自分の目に良い人だと映ったとしても、一抹の疑念を挟んでしまえば善行は偽善にすり替わり、『良い人』も偽物ではないかと思ってしまう。更に厄介なのは、その善と偽善(悪を前提とした偽善)を上手く掛け合わせてくる場合が往々にしてあるということだ。2つが混じっているからこそ、人間というのはいまいち信頼しきることができない。
 その点、ビスタのような獣は良い。敵か味方かの二元論しか存在せず、思惑だのなんだのと言った交錯に囚われない。そういう関係が心地良いからペットを飼うのだという人の気持ちが、こんな状況で改めて理解できた。

 そう。自分は、恐らく期待しているのだ。
 この獣となら信頼関係を結ぶことが出来ると。
 敵か味方かの二者択一で味方を完璧に選ぶことが出来るのだと。

***

 な。
 自分はまだ子供だ――つくづく嫌気が心を突き刺す。なんでも信じる純粋な子供とそう変わらない。早く大人の汚さとドス黒さが欲しい。
 襲い掛かるビスタの目からナイフを抜き取ると、びちゃびちゃ、と顔面に新鮮な血のシャワーを浴びた。生暖かいその液体で、自分は更に一段と吹っ切れた気がした。
 血に汚れたお蔭で、心も汚れた気がしたからだ。

***

「……ビスタ、寝ているみたいね」
 奇季の声で、期待から現実に引き摺り出された。そうだ。何はどうあれ、自分はこの2人を信頼することにしたのだ。今更後には引けない。
 もしその信頼が間違いだったとしたら、その対価くらいはしっかりとその身で支払ってもらうだけのこと。払うだけの元気が自分に残っていればの話だけど。
 その時は――警察を動員する。その為に鐡牢がいるのだし、そうでなくとも呼び寄せる手段が存在する――事前に警察(より正確にはそこに囚われている夢果)に根回しをしておいたお蔭で。
「そうだな」
 鐡牢が奇季の言葉に返しながら、続けて提案をする。
「一先ず、起こしてみるか。生物は、目が覚めなきゃ対話はできない」
「そうね――でもその前に念の為」
 そう言って奇季は手渡してきた――ナイフだ。所謂フォールディングナイフで、パチリと回すだけで使える代物。いや、目の前に警察がいるのだが――。
「俺は何も見ちゃいねえよ」鐡牢はそれだけ言った。「家に帰ったらゴミにでも捨てておけ。じゃねえとその時こそ、軽犯罪法でしょっ引くからな」
 ……非常事態だから見逃す、ということか。警察にしては事情がわかる奴で助かった。会釈程度の礼だけしてポケットにナイフをしまった。
 それを見届けた奇季はビスタの檻に近づく。獣の中に残された野生がそうさせるのか、ビスタはそれだけで目を開いて奇季を見据える。
 百獣の王が、マジシャンと相対する。
「……ねえ、ビスタ」
 ぐるる、と数刻前に聞いた大人しい鳴き声がテントに響く。どうやらまだ大丈夫な様だ。ピエロの毒牙にかかっていない。
 奇季も同じ事を悟ったのか、微笑みながら続ける。
「えーた君に協力してくれないかしら? 此処から脱走しようとしてるから、ボディーガードみたいに隣に居てくれるだけで良いのだけど」
 ……。
 そう言えば聞いていなかったな、ビスタの活躍方法。成程、番犬――種族的には番猫か。確かに一定程度は有効だろう。幾ら一緒に過ごす仲間とは言え根本的に相手の種族が違えば、それも自らを襲い得る種族相手であれば、普通は恐怖心を抱く筈だ。対して自分は生憎、信頼することにしたので今更恐怖は抱かない。
 確かに良い手段ではある。普通の思考回路では絶対に気が狂ったと思わざるを得ない提案だが、この状況では一定の説得力を持つことに可笑しさを感じた。
 一体どこの世界に、ライオンを引き連れて敵地から脱出する物語があるだろうか? 事実は小説より奇なり、と言うが正にこの事だ。
 で、ビスタの返事は、先と変わらない鳴き声。自分に向かって擦り寄る様にしている。
 肯定の声ととって良いだろう。
「……良いってさ」
 奇季が笑顔をこっちに向けた。「へえ」と鐡牢は感心した声を漏らす。
「大人しいモンだな。もっとライオンってなりふり構わず襲い掛かってくると思ってたぜ」
「まあ、信頼関係はあるからね」
 ほら、と奇季は自分を手招きする。まずは敷いた協力体制に足を踏み入れた事に感謝すべきだという意図だと思い、ビスタに近づく。
 手を伸ばす。檻の格子を通ってたてがみへ。ざわざわとした硬い手触りが伝わる。ぐるる、と甘える様な声を出した。
 思えば、変な話だ。
 自分はこのサーカスとは関係ないただの一般人。野生生物の残滓が少しでもビスタの中に残っているのならば、見たこともない人のことは警戒する筈なのに。
 こうやって大人しく触られるだけの筈が、無い。
「……」
 それは、ただ野生の牙を抜かれたからだろうか。
 或いは――ピエロの毒牙に落ちたから? 自分には懐くように仕向けたとか。そして、いざという時に裏切るように。
「……」
 嫌な予感が生まれるが、流石に後者はあり得ないと踏む。そもそもピエロとて、異常な魅了能力を持つ以外は普通の人間。こんな展開になる予知が出来る筈ないのだから、此処まで用意周到にはいかないだろう。
 だから、このビスタはただ野生の牙を抜かれただけ……。
 ……。

 コイツ、今後生きていけるんだろうか。

 この脱出で自分に協力をして――つまり、サーカスに仇なす存在となって、? 野生を失い、人間の信頼も失ったら、ビスタは一体何処に進むというのだろうか。
 ……考えても仕方ないだろう。
 自分は、この脱出が終われば無関係になる獣の将来に憐憫を抱くのか? 人間に対しては抱かないのに?
 今は、カナと一緒に生きて帰ることが先決ではないか。
 ……本当に、自分は期待しているのか?
 夢果とは違った形で、分かり合えるかもしれない馬鹿げた未来を?

 やめだ。やめ。
 時間を無駄にして贅沢している場合ではない。倹約をして余裕を持たせないと。
「……奇季さん、鐡牢さん、行きましょう」
「ええ」
「おう」
 奇季が檻の鍵――事前に準備しておいたのだろう、本当に頭が上がらない――でいとも容易く開ける。猛獣ビスタが、檻の中を出た。こんなこと世間にバレたら大騒ぎだな、と思うがどうでも良かった。
「さて、まずはカナちゃんを助けに行かないとね。此処からはビスタとえーた君だけで行って頂戴。私と警察のお兄さんは陽動の準備をするから」
「分かりました」
 カナを助け出せるのならば、それで。
 笑顔でまた日常を送ることが出来るのならば、それで。
 自分は、テントを開けた。自分はカナの寝る中心部のテントに向かう為に。奇季と鐡牢は離れた場所に行く為に。


「……え?」
 
 自分は素っ頓狂な声を上げてしまった。
 後ろの2人――鐡牢は状況が呑み込めていないようだが、奇季は辛うじて声を飲み込んだようで、ごくりと喉が鳴る音が聞こえる。

 テントを開けたその目の前には、
「……?」
 カナ――が立っていた。

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