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連載:私を「クラシック沼」に落した穴(傑)作~その8(番外編)ショスタコーヴィチ偏愛の遍歴

さて、前回は、いきなり1990年夏に飛び、イギリス音楽沼に足を踏み入れたところまでをお話したが、今回はその前、ショスタコーヴィチにどのようにハマって行ったかを少し語るところから始めたい。

手元の資料を見ると、1988年5月に初めて新世界レコードに行ったが、2度めに行ったのはその一ヶ月後の6月26日(日曜)とある。

ショスタコ・ファン三種の神器

ショスタコーヴィチについては、その一ヶ月の間にいろいろ調べ、『自伝』『証言』『生涯』という当時のショスタコ・マニア三種の神器を手に入れていた。

『自伝』(1988年5月3日購入とある)は、ショスタコーヴィチが生前、新聞や雑誌に発表した「公式」の文章を年ごとに集め、さらに編集部がその年のショスタコーヴィチの行動を解説した文章が付くといったもの。

10年程前、ショスタコーヴィチの日記が発売されると噂されていた。ショスタコーヴィチは筆まめで、新聞や雑誌への文章の他、友人への手紙も相当数残されており、分厚い書籍何冊分にもなるが、日記の類は残してはおらず、ついに出版されることはなかったし、今後も出版されることはないだろう。

2000年に出版されたショスタコーヴィチ書簡集。2000通程の手紙が収載されている。

『証言』(購入日不明)は、ソ連のジャーナリスト、ソロモン・ヴォルコフが生前のショスタコーヴィチにインタビューしたものを、インタビュー形式ではなく、ショスタコーヴィチ自身が書いたように編集した、いわばゴーストライターの名が全面に出た「回顧録」。未だにその真偽が問沙汰されているが、個人的にはどっちでもいいと思っている。

しかし、ショスタコーヴィチの生前には知られていなかった《ラヨーク》の存在を予見していたり、ショスタコーヴィチはチャイコフスキーが嫌いだったことを明記(親しい友人には周知の事実だった)していたり、真実も含まれているので、100%嘘、ということはないだろう。だとしたら、ヴォルコフはナボコフ並の相当の文筆家だということになるだろう。

ちなみに先の『自伝』は、この『証言』がショスタコーヴィチへインタビューした(とされる)言説だけでなく、彼が生前発表した文章からも相当数「引用(盗用)」されていることを証明するために出版されたものだとする見方も多い。

『生涯』(1988年3月21日購入とある)は、ショスタコーヴィチが公私共に認める、彼の唯一ともいっていい親友にして理解者だった、音楽学者、演劇評論家、文学者(彼はミハイル・バフチンとも親しかったらしい)、イワン・ソレルチンスキーの息子と娘によって書かれたショスタコーヴィチの伝記。イワンの息子・ドミトリー曰く、自分の名前はショスタコーヴィチから採られたのだという(私は彼から直接聞いた)。

記述の多くは、当時のソ連の社会情勢を鑑み、ショスタコーヴィチと親しかったから知っているような「裏の情報」はほとんどないが、他の伝記や研究書にはない記述があったりして、「あれ?この間ショスタコーヴィチは何してたのかな?」と思って見てみると、「保養所に行っていた」というような記述があったりして、何度も助けられたことがある。

ショスタコ・マイナー曲大人買い

6月の新世界レコード社への買い出しは、かなり気合が入っていたようで、計6種のディスクを購入していた。You Tubeで補足できる限り載せてみよう。
1.交響詩『十月』、映画音楽《若き親衛隊》(+プロコフィエフ:革命30周年祝典詩曲、エシュパイ:カンタータ《レーニンは我等と共に》)

2.未出版管弦楽作品集(スケルツォ第1番、第2番、主題と変奏、映画《女ひとり》組曲、劇音楽《人間喜劇》他)

3.未出版管弦楽作品集(編曲集、映画音楽《司祭と下男バルダの物語》、クルィロフの2つの寓話、タヒチ・トロット、哀れなコロンブス他)

4.交響曲第8番(ロジェストヴェンスキー指揮)+《5つの風刺》より管弦楽編曲版3曲

5.オペラ《カテリーナ・イズマイロヴァ》Op.114(S・トゥルチャク指揮キエフ歌劇場管)

6.ショスタコーヴィチ演説集  (urlか下記画像をクリックで再生サイトに飛びます)

ということで、1988年度の滑り出しは絶好調。
これからもショスタコーヴィチの知らない曲を聴いていくぞと思っていた矢先、一つの大きな出来事が起きた。

タイトル
1988年の9月、ロジェストヴェンスキーが読売日本交響楽団とショスタコーヴィチの交響曲全曲演奏をするというのだ。

最初の曲目は、交響曲第13番《バビ・ヤール》。

この曲は、1975年12月に、早稲田大学のオーケストラがショスタコーヴィチの追悼演奏で取り上げたきり、日本では鳴っていない(歌詞は日本語だったが)。これの演奏を聴き逃したら、プロのオーケストラによる実演は二度と聴けないのではないか・・・。そんな時代だった(N響も、2000年にアシュケナージの指揮で一度、かろうじて演奏しただけだ)。

ロジェストヴェンスキーが、交響曲全曲演奏の第一曲目に《バビ・ヤール》を選んだのは、1986年のチェルノブイリ原発事故を受けてのことかもしれないが、そもそも、当時の日本で、ショスタコーヴィチのこんなマイナーな交響曲を好き好んで聴きに行く愛好家がどれくらいいただろう?

その時、なんとなく音楽雑誌の通信欄を読んでいたら、「ショスタコーヴィチの音楽について情報交換をしよう」という投書が目に入った。

1988年当時は、もちろんインターネットなどなく、不特定多数が集まるには、こうして雑誌の通信欄で誰かが行動を起こさなくてはならなかった。これがアニメや漫画なら、ファンクラブがあるし、コミケやガタケットなどで同人誌を出せばファン同士の交流は出来るだろう。日本SF大会もある。最近じゃ、文学フリマなんてのもあるそうじゃないですか。

しかし、クラシック音楽はどうだ?

たとえば日本ワーグナー協会がある。日本フルトヴェングラー協会がある。
でも、それらは傍から見ている限り、やはり「学術的」な集まりで、ただのファンクラブではなさそうだ。素人が迂闊なことを言い出そうものなら、「あの演奏は○○版使ってるのに、周知の誤植そのままやってるんですよ。普通はあんな間違い丸出しの演奏しないもんです。だからあの指揮者は何も分かってないですね、だから、あんな演奏、聴いちゃいかんです」とか言われそうでしょう? 「いや、それと演奏の出来・不出来は別問題じゃ・・・」なんて反論しようもんなら、「あんさん何様のつもりや? ○○先生に向かって何言うてまんねん。あんな演奏認めたら、もっとちゃんと勉強して真面目に取り組んでる指揮者にも失礼でしょう」とか周りから散々ディスられて音楽聴くの嫌になってしまいまいそうだ。

だから、「ショスタコーヴィチの音楽について情報交換」という、ふんわりした交流内容には好感が持てた。

そこで、雑誌の交換欄に記された連絡先にコンタクトを取ってみると、私より十歳年上で、ショスタコーヴィチを聴いてきたキャリアも長く、「情報交換」という面では、頼れる人だと思った。

機は熟した

“彼ら”と最初に会ったのは、記録によると1988年8月13日だった。
確か、場所は渋谷の名曲喫茶ライオンだったと記憶している。

ここでは、仮に彼らのうちの1人をF氏、もう1人をK氏としよう。

雑誌の通信欄に投書をしたF氏によると、投書をした切っ掛けは、「機は熟した」と思ったからだという。そこにK氏が突っ込む。

やはりF氏は、ロジェストヴェンスキーによるショスタコーヴィチの交響曲全曲演奏会(といっても1シーズンに1曲ずつだが)の報を見てそう思ったらしい。彼曰く、「ショスタコーヴィチの音楽を聴く人口が一定数いるという確信が持てなければそんな企画やらないだろう」ということだった。

もちろん、K氏も私も、「そんな考え単純すぎる」と突っ込んだのだが、その直後に雑誌『音楽藝術』でショスタコーヴィチ特集が組まれるとか、ショルティがシカゴ響やウィーン・フィルとショスタコーヴィチの交響曲を集中的に演奏して録音を出したり、インバルを始め多数の指揮者がショスタコーヴィチの交響曲全集を録音し出したりと、1980年代後半から21世紀初頭にかけて、それまでにないショスタコーヴィチ・フィバーとでも言える状況になったのだから、今考えると、その時のF氏の予感の正しさには恐れ入る。

F氏とK氏、そしてその後加わったメンバーを含めると、総勢十数名の「濃い」ショスタコーヴィチ好きが集まった。中には、交響曲第4番の日本初演にエキストラで参加した人、早稲田大学交響楽団が交響曲第13番を初演した際のグリークラブのOB、後にショスタコーヴィチの作品を中心に演奏するアマチュア・オーケストラの幹部になった人、音楽評論家になった人など、本当に様々な人材が集まった。時には数名で集まって新譜の鑑賞会を開いたり、演奏会後に集まってそのまま朝まで話し合ったりと、メンバー同士の交流を楽しんでいった。

しかし、それから約35年が経ち、圧倒的に同じ趣味を持つ者同士が集まりやすい状況は整ったというのに、あの頃のような熱狂的なショスタコーヴィチ愛好者が全くピックアップできないのは、どういうことなのだろう?

それでは、今回はここまで。
よかったらコメントで好きなショスタコーヴィチの作品を教えて下さいね。




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