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TVアニメ『WHITE ALBUM』 (第十頁)    ~演出解説・批評

今回は、『WHITE ALBUM』第十頁(※第10話)のお話でございます。

★1 片腕を突き上げろ、または「停止すること」

約300カットで程よく構成された今回の挿話では、3人の女が高らかに片腕を突き上げます。

Aパートの冒頭、夕凪市立病院の玄関前の場面。

退院したばかりで松葉杖姿の澤倉美咲。彼女は傍らで「コスプレ」をひたすら演じている七瀬彰の洋服を買いにゆくことを提案します。痛々しい仕草で美咲が高らかに「左腕を突き上げた」瞬間、画面の左端からタクシーが不意に姿をあらわします。そして横並びのふたりを視聴者の視界から覆い隠すかのように、ピタリと「停車」するのです。次は河島はるかです。

大学のラウンジの窓際でひとり、藤井冬弥が佇んでいる場面。昨日の演劇部の舞台の顛末がモブキャラクターによって語られておりますと、窓ガラスに「反射」した田丸の姿があらわれます。無表情なまま田丸の方を向いて立ち上がる冬弥。そして、スタスタと緩慢な動作で歩き始める田丸の足元が画面の手前から俯瞰のアングルで描かれることで、緊張感が張り詰めます。ところが、「冬弥!」という場違いな明るい声音が、田丸の歩行を「停止」させるのです。その直後に連なるカットでは、田丸の描かれた前景に対して、後景で無邪気にはるかが「右腕を突き上げている」のです。

三人目の女は森川由綺です。今回の挿話のラストシーン。振り付けの訓練に勤しんでいる彼女を仰角から描いたカット。「初めての/気持ちだ」という「浮き文字」とともに、由綺が高らかに「右腕を突きあげて」降ろした瞬間、画面は「ブラックアウト」します。こうして「物語」が「停止」することで、EDアニメーションが始まるように見えるでしょう。

また、このカットの直前の場面では、冬弥のアパート前に「停車」した自動車での彼と篠塚弥生のやりとりが確かに描かれておりますよね。しかるに、「女たちの突き上げられた片腕」は、きまって、「停止」という出来事を「物語」に導入いたします。ですからそれらは、画面の連鎖に「停滞感」を波及させる役割を担っているようにもみえるのではないでしょうか。

★2 ぴんと伸ばされた女たちの人差し指

女たちの「片腕を突き上げる仕草」の変奏であり、「停止の契機」でもあるそれらの身振りと共鳴音を響かせているのが、頻繁に描写される「女たちの人差し指」であります。とはいえ、『WHITE ALBUM』にあっては、今回の挿話にかぎらず、「手芝居」に演出的な過剰さが見出されることも、あらかじめ指摘しておきましょう。

では、今回の挿話で描写された「女たちの人差し指」をトレースしてみます。緒方英二の邸宅にレッスンを受けに来た由綺との会話において、篠塚弥生は「まだ終っていません」とつぶやきながら、ぴんと「人差し指」を突き立てて見せます。ラウンジで向かい合って座る冬弥とはるかを横の構図で描いた場面では、「今日の女神?」という台詞とともに、はるかは「人差し指」でみずからを指して見せますね。喫茶エコーズの地下室では、緒方理奈がぴんと「人差し指」を突きたてながら、会話を中断させて冬弥に地図を買いに行かせます。

「スナッピン(指パッチン)」の効果音が画面に重なり、理奈と桜団が「縦の構図」の「切り返しショット」で対峙するテレビ局の廊下の場面では、桜団の長髪のメンバーが、同じくメンバーの幼いひとりの台詞をいさめるかのように、「しーっ」と言って「人差し指」をくちびるにあてて見せます。その直後、両者の緊張状態を緩和するかのように冬弥が画面の奥からあらわれますよね。すると画面には、こちらは「男」ですが、司会者がぴんと「人差し指」を突き立てている「歌う!ポップスタジオ」のポスターを描いたカットが周到に挿入されるでしょう(アイドルたちが番組で「しのぎ」を削るという意味では、「トップをねらえ」という意味さえも担うことができます)。そして由綺のレッスンを描いた場面では、ぴんと伸びた「人差し指」が他の4本の指を導いてゆくかのようなカットが幾つがございます。

しかるに、繰り返して描写される「ぴんと伸びた人差し指」は、きまって何らかの行為を「中断(≒停止)」させ、あるいは「遮(さえぎ)る」契機として機能しているようにみえます。とりわけ由綺の「人差し指」はわかりづらいですが、クリスマス・イヴに催される「公会堂」コンサートのための彼女のレッスンを描いた画面の連鎖それ自体が、冬弥と由綺の遭遇の機会を「遮っている」のですから、当然といえば当然でございましょう。

★3 「覗くこと」、あるいは「覗き魔にされる視聴者」

さて、テレビアニメを視聴するとは、ある「フレーム」を通して覗き魔になるということです。今回の挿話では、そのような事態が露見されるようにもみえます。

理奈の記者会見の様子は夕凪大学のテレビ画面にも映し出されておりましたよね。その場面では、いささか不自然な影の落ちている田丸が柱の物陰から鋭い目付きで美咲に視線を投げかけ、それに彼女が気づきます。ここで見逃してならなにのは、隣にいる彰も含め、この空間の中で美咲を除いて誰ひとりとして田丸の存在に気づいているようには見えないことです。

ところが、この空間において、田丸の覗き魔的な存在に気づいている人物がもうひとりだけおりますよね。そう、答えはあなたです。言葉を換えるなら、「あなた」というもうひとりの「覗き魔=視聴者」の存在を前提にすることで、この場面における田丸と美咲の「覗き」をめぐる「緊張関係」が初めて成立するのです。

そのような「覗き魔=視聴者」をあぶり出すテクニックが、今度は篠塚弥生と緒方理奈の元マネージャーである平木とのやりとりにおいて使用されていることを見逃した方はおられますまい。場面は誰もいない夜の事務室。

「縦の構図」を使った「ロングショット」で描かれた篠塚は、ゴソゴソと何かを整理しているかのように見えますね。そして、唐突にかかってきた電話に対する戸惑いの仕草を演じた後、画面には「ボトムショット(真下)」からぐるぐる回転する「魚眼パース」ぎみで描かれた「膨張した蛍光灯」がしばらく映し出され、受話器が取り上げられます。

すると、いかにも「変態めいた男のあえぎ声」が受話器から聞こえてくる。彼女はその「あえぎ声」の主を「平良木さんですね…」と見事に的中させると、平良木は「怖く…ないのか?」と応じます。そして次のカットですね。キャメラ位置はいきなり屋外に設定されます。その視界はブラインドで覆われているのですが、嘘としか思えない出鱈目ぶりで、ブラインドの真ん中が「覗き穴」のようにねじれている。すると、視聴者は「平木の声の持ち主」であるかのような「覗き魔」のポジションをいかんともしがたく強制されてしまうわけです。

そうして、この場面によって、「平良木の声の持ち主」にされた「覗き魔=視聴者」が、決定的なかたちで露呈されるのは、由綺のレッスンの場面です。この場面を含む「ラスト・シークェンス」は、由綺(レッスン室)=冬弥と篠塚弥生(冬弥のアパート前)=理奈(エコーズの地下)の場面の「並行モンタージュ」で構成されておりますね。しかし、それらの「並行性=平衡性」にあって、圧倒的な突出点をかたちづくることで不均衡を炸裂させるのが、由綺のレッスン画面に重ねられている彼女の「荒い息遣い=あえぎ声」なのであります。どういうことでしょう。

彼女の乱れた息遣いは、「物語」の水準を超えて平良木の「いかにも変態めいた男のあえぎ声」と共鳴することで、きわめて「セクシャルなイメージ」をかたちづくってしまうのです。そしてその「セクシャルなイメージ」を可能にするのが、「覗き魔=視聴者」であることは申しあげるまでもありますまい。

★4 驚くべき「フレーム内フレーム」のテクニック

「並行モンタージュ」は全編がぶっきらぼうな「ストレート・カッティング(ワイプやオーバーラップ、フェードなどを使用せずにカットとカットを繋いでゆきます)」で編集されている今回の挿話にあって、いかにもふさわしいテクニックでありましょう。この「並行モンタージュ」はラストシークェンスのほかに、理奈の記者会見の場面でも使用されておりますね。

理奈の記者会見の場面では、「テレビ」というメディアを通じて「複数の空間が同時的であること(並行モンタージュ)」を繊細に描いてゆきます。複数の空間に設置されている「テレビ」はこの場合、「フレーム内フレーム」としても同時に機能しております。「フレーム内フレーム」というのは、ようするに、「視聴者にとってのテレビの画面のなかに、キャラクターたちが見ているテレビ」が描かれている「入れ子構造」であると考えてください。

ところで、このような「並行モンタージュ」と「フレーム内フレーム」の同時的な共存ぶりは、とりわけ驚くには値しないささやかな事態です。そうではなく、視聴者のまなざしを不意討ちするのは、理奈のマネージャーとして「テレビに映し出されてしまった冬弥を由綺が視聴してしまう」という倒錯ぶりのなのです。いいかえるのなら、この記者会見の場面にあって、いつのまにか「冬弥と由綺の人物配置が逆転」してしまっている、ということです。「テレビの中(アイドル)と外(一般人)」の階層秩序がしかるべき的確さで崩れ去る瞬間、見る者は思いがけず絶句してしまう。

★5 落下する断片1、あるいはガラス

ここで、多くの方が、今回の挿話の「キー」であるとおっしゃる「リフレクション」と「手紙」についてのお話をしてみたいと思います。

頑健な冬弥の父親が1階の部屋を「そのままにしておく」ために妻の遺影を持って2階に上がろうとすると、主観ショットで描かれた階段の「フォーカス(焦点)」が不意に狂います。そして遺影が落下することで写真を覆っていた「ガラス」が粉々に割れてしまいますね。他方で、この断片化されたガラスと酷似した輪郭におさまってしまうのが、夜の事務室の場面で、篠塚弥生によって、ばらばらに断片化されてゴミ箱に落下する「手紙」なのです(いかなる空気抵抗も受けず、画に描いたようにすべてがゴミ箱に収まってしまう律儀さときたら!)。

「ガラス」にあっては、誰もが指摘するとおり、今回の挿話では「鏡」という舞台装置と「コーヒー」という小道具と緊密に連繋しております。それらは、ひたすら「反射=反映」する虚像を画面の連鎖のいたるところに氾濫させます。きわめて印象深いのは、喫茶エコーズの地下室の場面、大写しで描かれた理奈の「サングラス」の見事なまでの「反射=反映」ぶりでしょうか。

上下さかさまの状態でカウンターに置かれた「サングラス」の鏡面には、「無数の酒ビン」が「反射=反映」しており、定義上、「ビン」自体も物体を「反射=反映」することができますから、この小道具においては、「合わせ鏡のような無限の乱反射」が実現されていることになります。

今回の挿話では、このような「リフレクション演出」に繊細な配慮がなされていることは誰の目にもあきらかでございましょう。あまりの氾濫ぶりに、見る者はめまいさえも覚えるのではないでしょうか。けれども、単純な事実として見落としてならないのは、これらの「反射=反映」の氾濫ぶりはすべて、粉々に「断片化された遺影のガラス」の残滓として機能していることです。言葉を換えるなら、氾濫する「反射=反映」の主題系においては、その端緒に「遺影の断片化されたガラス」が配置されているという事実なのです。

★6 落下する断片2、あるいは手紙

「手紙」という小道具も、今回の挿話では色濃い存在感を放ちながら、画面を活性化しておりますね。

もちろん、わたしたちの関心は誰の手から誰の手紙がわたったか、などの事実関係の確認にはございません。エドガー・アラン・ポーの小説・『失われた手紙』に言及することでテレビアニメーションを侮蔑する行為も慎まねばなりますまい。肝腎なことは、落下する断片として描かれた「ばらばらの手紙」が、今回の画面に見出すことのできる無数の手紙を集約する「提喩」として機能していることであります。

今回の挿話では、手紙の描かれたカットが25カット前後存在しているはずです。いいかえるなら、本編の8パーセントほどを「手紙」が占拠しているということでしょうか。それらのカットは理論的にも物理的にもすべて、断片化することができますよね。だとするなら、それらの断片は篠塚弥生によって「断片化された手紙」とにわかに通底し始めるのです。そして「断片化された手紙」は、喫茶エコーズの地下の場面で、理奈によってひそかに「再構成」されますね。そのとき、理奈は確かに「再構成された手紙の断片」に向けて視線を「落として」おります。

しかるに、「再構成された手紙に視線を落とす理奈の身振り」と「理論的にも物理的にも断片化することが可能な25カット前後の手紙」の描写は、本編を振り返ってみますと、結果的には篠塚弥生によって「(彼女の「視点ショット」による俯瞰のアングルから描かれた)ばらばらに断片化されて落下する手紙のイメージ」の輪郭にきっちりとおさまっているようにみえるのではないでしょうか。

★7 落下する断片3、または「すれ違うこと」

「落下して断片化された遺影のガラス」と「落下する断片化された手紙」のイメージは、前者が「実体と虚像」を生み出し、後者が「(手紙の)等価交換の失敗」を生み出すという意味で、ほとんど同じ役割を演じております。

言葉を換えてみますと、「実体と虚像の分離、あるいは両者が見分けられなくなる」ことは、「手紙の交換がうまくいかない」ことと全く同様に、徹底して何かと何かが「すれ違う」という出来事をみごとな手さばきで「物語」に導入しているということなのです。

★8 レトリスム、あるいは見ることの困難さ

今回の挿話にあっては、これまでのシリーズと同様に、視聴者はひたすら画面にあらわれる文字や数字の解読を迫られます。

たとえば、手紙を読んだり、書いたりしているキャラクターに「内的独白」をあてるといったきわめて陳腐で親切な演出と「ホワイトアルバム」はほとんど無縁であります。「ホワイトアルバム」にあっては、「内的独白」がほぼ存在せず(わたしの記憶が確かならば、十話にいたるまで1~2回しか使用されていないはずです)、視覚的な美しさを措くならば、定石では「内的独白」で処理すべきカットや場面にあって、いささか淡白なフォントの「浮き文字」を、きまって画面の上で視覚化するという戦略が採られているようにもみえます。

今回の挿話を見ておりますと、理奈の緊急会見が映し出されたテレビの電源が消された夕暮れ時の場面、桜団が所属するM3の神崎社長の「視点ショット」から描かれた数字の羅列を解読するには、まぎれもなく「反=人間」的な動体視力が要求されるでしょう。

「カット・ズームイン」で「4797」という数値を視認することはできますが、 “K“ ”C” ”A”がそれぞれ「公会堂」・「カルマ」・「アリーナ」の略号であり、それらのアルファベットの隣に並ぶ数値である「2000」・「1300」・「30000」が各会場のキャパシティであろうというところまでは誰もが視認できるように思われます。

しかし、そのほかは誰にも不可能なのではないか、と洩らす人がいても不思議ではない尺の短さは、「伏線」を超えて「見ること」の困難さを突きつけているかのようにみえます。これと同じ種類の困難に、理奈が喫茶エコーズの地下で「再構成した手紙」をひそかに読む場面にあっても、見る者は直面いたします。こちらの場面でも、「カット・ズームイン」が三回ほど使用されており、それによって、断片的ながらも意味のある文字列をかろうじて読み取ることができます。

けれども、やはり、それらの文字列を繋げて、さらなる文意を「読み取る=見て取る」ことはきわめて困難であり、むしろ人はその「見ることの困難さ」を見てしまうのではないでしょうか。

そしてそれらの「見ることの困難さ」に直面していながらも、人が涼しい顔でそのような事態をやり過ごせるのは、別のカットや場面で、映像なり、聴覚的な記号として、的確な「コンテキスト」を与えられているからでございましょう。神崎社長のデスクに置かれたメモ用紙が「観客の動員値」に関わる「レトリスム」であることは緒方英二の台詞からたやすく想像できます。

再構成された手紙にあっては、顔を両手で覆い隠し、「遅すぎるよ…」と悲痛な声音でつぶやく理奈の振る舞いから、しかるべき「コンテキスト」が与えられることで、人は「見ることの困難さ」を回避することができるように見えます。

しかるに、何よりも感動的なのは、「見ることの困難さ」という「反=親切」を突きつけながら、それと同時に曖昧に理解できる余地を的確に視聴者に提供することで「伏線」を機能させるという二重性の素晴らしさでございましょう。たとえば、「『攻殻機動隊』シリーズのジャーゴン(衒学的な隠語)はBGMとして無視すればよい」といった意見を仄聞することがございます。けれど、「画面を見ることの困難さ・音響を聞くことの困難さ」という本質的な主題を無視する姿勢は、いかにも「非=アニメーション」的である気がいたします。

★9 「反=親切」、あるいは「つなぎ間違い」という制度

今回の挿話にあって、「反=親切」について触れておかねばならぬカット、あるいは場面がございます。ひとつめは、大学内に設置されたテレビに映し出された理奈の記者会見の模様を学生たちが見つめる場面でございます。

この場面は先ほどもお話させていただいた美咲と彼女を覗き見るかのように鋭いまなざしを投げつける田丸を描いた場面でもあります。ここでは「スクリーン・ディレクション」の「つなぎ間違い」が二回存在しております。状況説明的な俯瞰のロングショットで空間内の構造が画面に提示された後、学生たちのグループ(A)のカットは誰もが画面の右端に視線を向けているのに対して、学生たちのグループ(B)のカットは画面の左端に視線を向けているので、前者は全員が理奈の会見を見ているようにみえるのですが、後者は全員が田丸を見ているようにみえるのです。これらが田丸と美咲を描いたカットを挟んで繰り返されます。

もうひとつは桜団と理奈がテレビ局の廊下で対峙する場面であります。両者が画面の奥から手前に向かって歩いてくるさまが「切り返しショット」で呈示され、続いてほぼ「真俯瞰」のアングルで衝突寸前の両者の位置関係を視聴者に知らせるカットが入ります。しかし、次の瞬間、驚くべきことに画面は「横の構図」に唐突に切り替わり、嘘としか思えない不自然さで理奈と桜団は「すれ違う」のです。つまり、ワン・カット、どちらかが廊下の脇にそれるカットを挟まなければ、どう見ても衝突しているはずなのですが、そのカットが「省略」されているのです。

両者はともに「つなぎ間違い」です。いわゆる「切り返し」における「イマジナリーライン」の踏み越えなどと呼ばれる事態と同種のものでございます。けれども、だからといって早計に糾弾してはいけませんよ。たとえば、前者にあっての「つなぎ間違い」は、空間において異様な殺気を発しているように見える田丸とテレビの向こう側のアイドルである理奈を対等に併置させているようにも見えるでしょう。さらに後者の「つなぎ間違い」にあっては、必要なるワン・カットの「省略」によって、見事に桜団と理奈の、お互いに譲り合わないという心理的な均衡を視覚化しているようにも見えるからです。

「つなぎ間違い」は制度的な約束事であって、「反=親切」なアニメーションには避けて通れない道であります。というのも、コンテ・演出論的な問題として、「制度的な約束事」を遵守するよりも、「つなぎ間違い」を組織的に使用するほうが遥かにむつかしいからであります。「ホワイトアルバム」では、これまでの挿話においても数多くの「つなぎ間違い」が存在しておりますが(今回の挿話では他にも、「錯時法」を使ってはるかと理奈がラウンジで入れ替わる場面が批評的な危険さを感じさせます)、きっちりとダブルミーニングが機能している点を見逃してはならないでしょう。

 
それでは、本日はこのあたりにしておきましょうか。ここまでお付き合いしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。

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