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友人を失う

また貴重な友人を失った。
友人と思っていたのは私だけで、相手にとってはそんな関係でも無かったのかもしれない。

友人を失うことは私の人生においてそう珍しい事でもない、大学生の時には鬱病を拗らせていた時期に高校時代の友人の結婚式に出し物をしようという友人達の誘いのグループライン勧誘を無視し続け、疎遠になった。
勿論結婚式にも行けていない、参加の返事もしていない。もう友達とは思われていないと思う。
鬱病だから参加するのが難しい、参列できないけどおめでとう、そんな言葉すら当時の自分は言うのを恐れていてひたすら時が経つのを待っていた。
時が経つと友人とのやり取りはぱったりと消えた。
グループラインではきっと私への文句が共通の話題になっている、そう思って謝る機会を見誤ったまま時が過ぎた

いつの間にか縁の切れた友人は片手では足りなくなり、辛うじて縁の繋がっている友人は片手でおさまるほどになった
同級生が何をしてるのかもよく知らない、Facebookの更新は途絶えたままだし、そもそも友達ってどんな関係だったかわからなくなってきた
いまや交友の中心はネットで、仲の良い人達と遊ぶような機会もここ数年でぐんと減った

自身の友人の少なさを交友関係の維持が苦手なのだと思っていたが、維持にも色々種類があり、私はきっと人を誘う事と私が何か失言や好ましくない行動などをした時に謝る事が苦手なのだと思う
誘うのが苦手なのは、予定を立てるのが苦手というよりは他人の時間を自分の為に割いてもらうのが申し訳ないという気持ちが大きい
謝る事が苦手なのは、生来的なもので今までなあなあで謝罪して運良く相手が寛大でその心に救われていただけなのだ
高校生くらいになっても謝る事が不得手で、時が経つのを待ち、相手の怒りがおさまったのを見計らってそれまで何も無かったかのように接した事がよくあった
元々発達障害という特性持ちで非言語コミニケーションが苦手という事も影響するのだろうが、とにかく他人という存在は苦手だった
というよりも自分の中でこれをしたら相手は傷つくだろうみたいな予測を立てる事が苦手で、最悪なことに私の場合は予測を立てることはできるがそれによる痛みを想像できなかった
なので自分の発言で傷ついた相手に対しこういう反応をするかもしれないという予測は出来たが、自分はそのような事を言われても平気なので相手も大丈夫だろうという憶測で多くの人を傷つけてきた
そして多くの人が私から離れていった

全ては自業自得である、しかし人間の脳は勝手なもので主の思惑に沿うように記憶や思考を捏造して正当化する
実感を伴わない加害で多くの人が離れた後になってようやく自分のした事に気付く、もう謝って許されるような時期はとうの昔に過ぎている

今残っている、と言うと言葉が悪いが今でも私を好ましく思っている人や付き合ってくれる人を大切にしたい
相手を大切にし過ぎるあまり自分を蔑ろにし、相手に対するフラストレーションが溜まり喧嘩に発展した事もあるのでそこはバランスを見ながらになるのだが

まぁぼちぼちやりますわ

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