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たまには日記でも 20240226 文系と理系 三島由紀夫への羨望

私は三島由紀夫の文章がとても好きで、ぼちぼちの分量は読んでいる。
かと言って全てを読み解けるほど読解力も語彙もないわけで、まあ衒学的な趣向と言われても致し方ないとは思う。

さて、話は変わるが私は文系と理系の違いがどうにもわかっていない。
理系は理屈っぽいだの言ったところで法学部や哲学者はもっと理屈っぽいわけであって。論理学からは逃れられない。経済学を真面目に取り組もうと考えれば微積からは逃れられないわけであって。いやこれは日本における経済学の文理設定が誤っているのかもしれない。
反対に理系とて英語からは逃げられず、多量の資料を読み解く国語能力は必要とされており、じゃあ文系・理系のみで求められる能力は何だろうと思う。

仕事で言えば、私は社内のシステムエンジニアの端くれな訳ですが、この仕事は社内業務を聞き取ってあるべき業務システムを描き出す能力が必須であり、となれば「現状把握のためのコミュニケーション能力」と「それを実現するシステムフローを描く能力」がともに必要となる。さてこれは文系職なのか理系職なのか。私は理系の大学を出ており、理系職採用とはされているけれども。

と、考えた時に別に私は文系を名乗っても良いのではないかと思うことが時折ある。その時に併せて思うのが、三島由紀夫的な文章が一切書けないことが私を理系たらしめている一要素なのではないかと思う。

以下は潮騒の一部分である。

若者は彼をとりまくこの豊饒な自然と、彼自身との無上の調和を感じた。彼の深く吸う息は、自然を作りなす目に見えぬものの一部が、若者の体に深みにまで滲み入るように思われ、彼の聴く潮騒は、海の巨きな潮の流れが、彼の体内の若々しい血潮の流れを調べを合わせているように思われた。

潮騒

こう言った叙事的な文章が全く書けないのである。いやまあ三島由紀夫の文章が書けないと言うと、自惚れるなと言う話ではある訳ですが、マジで全く書けない。0.1%三島由紀夫にもなれないのである。
この感覚は夏休みに読書感想文を書けず悩んでいたのと、音楽の授業であった音楽の感想文を書く授業で感じた絶望感と同じだなと思っている。

過去もそれなりに文章書いているので、文章を書くことが苦手というわけではないのだけれど、むしろ仕事でもないのにこれだけ好き勝手にnoteを書いているのだから好きと言っても差し支えないのだろうけど、そう言った文に関しては筆が全く進まない。これは一体どう言った能力の欠如なのだろうか。調べてみたりしてもよく分からない。誰か教えてください。

そのような事を思っていたら、確かSF作家の杵刈湯葉先生も人物の描写がほぼ出来ないと言ったような記憶を思い出した。やはりここら辺に理系と文系の違いが何やらあるのかもしれませんね。えっ?「文系で読書感想文を書けない人がいる」ですか?何ですかそれは。ご冗談でしょう。

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