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詠み人知らずになりたい

生まれ育った田舎で、思い出すのも嫌な思い出といえば、
小さな声はいつだって誰かの大きな手によって塞がれていたことだ。
私にとって学校の授業はその際たる例で、国語も道徳も美術も、単一の価値観の答え合わせをする場所だと気づいたときから嫌いになった。それでも等身大の私が生きるにあたり納得のいかないことは、態度に表し言葉にしようともがいてきたから、文章を綴ること、言葉を生み出し操ることの苦しみなら小さい頃から知っていた。
世界と自分自身にシャベルを突き刺して、一人で掘り進める作業。深く掘るほどにマジョリティという安全地帯からは遠く離れていく。そうやって心ゆくまで選んだ言葉も、思想を即するには程遠くて、文豪たちがこぞって死にたがった理由にすら共感を覚えた。メロスが激怒したように、下人の行方を誰も知らないように、始まりはきっと、この世界と自分自身への怒りにも近い「疑問」なのかもしれない。それに気づかせてくれた国語の授業はあながち無意味ではなかったと、今となってはわかる気がしなくもない。

同じく言葉を生み出す、という行為でも、文章を書くことと詩句を作ることでは、それぞれ別の思考分野がはたらいていると思う。私が以前、S&Cの2階で拾ってきた「萬葉集入門(土屋文明著)」によると、万葉集には、有名な貴族や上流階級、庶民、ひいては乞食まで様々の歌が4500首も残っているという。今日まで教科書に出てきては、多くの学生の欠伸を誘ってきた不可解な言葉は、どういうわけか千年以上の時を経ていまだに残っている。残るからにはきっと、この言葉の羅列には理由があるのだ。名もなき誰かが作った、たった十七音が。

彼らにとって「言葉を生み出す」とはきっと、作物を育てたり衣服を作る日々の何気ない営みの中で、美しい自然や愛しい人を目に留めてはいちいち感動することだと思う。

奈良の世を詠んだ人々と、近代で言葉と向き合ってきた者たち。彼らの共通点は、けして楽ではない日々の中で、自身の生を言葉を通じて噛みしめているところにあるのではないか。そう考えると、しょうもない飲み会の中身のない話とか、絶え間なく流れる他人のタイムラインとかにいちいち幸せの物差しをかざしている私たちは、言葉の重み、ひいては命の重みを忘れてしまうのもかわいそうだけど無理もない。

不遇の物書きでも、大人気ブロガーでもなんでもない、「詠み人知らず」は、川で洗濯をする合間なんかにふと世界の美しさを詠い、それは言葉をつたい時代を流れ、いまや全自動洗濯機を回す私たちのまぶたの裏に描き出すことができる。
だから私もまだ、紙とペンと、ひとしきりの孤独が唯一、世界を真空保存する術だと信じているから、きっと名前は残らなくてもいい。
うそのない自分と、うそじゃない今この瞬間を伝える為に、
詠み人知らずになりたい。


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