脚本家を目指す君へ:小林雄次が語るデビューまでの苦悩と挑戦
今回のインタビューは、脚本家の小林雄次さんがデビューに至るまでの経緯やその過程での経験を詳しく語っていただきました。
小林さんは大学時代からシナリオ作家協会の夏の公開講座に参加し、高田馬場のYMCAで知り合った人物との出会いを通じてプロの世界へと足を踏み入れました。ホームページビルダーを使って立ち上げた「シナリオランド」での活動や、ラジオドラマ専門チャンネルでの初めてのギャラが発生した仕事の話など、デビューまでのリアルな体験談や、特にウルトラマンや特撮への熱い思いが伝わってくる円谷プロダクションでのバイト経験、そしてサザエさんの脚本家としてのデビューのきっかけとなったエピソードは、これから脚本家を目指す人々にとって非常に参考になるでしょう。
また、小林さんがプロの脚本家としてのキャリアを築く上での苦労や挑戦、そして弟の小林英造さんとの比較も興味深いポイントです。脚本家として成功するためのアドバイスや、業界での人脈の重要性についても触れられています。
このインタビューを通して、小林雄次さんの人柄や仕事に対する真摯な姿勢が垣間見えるとともに、脚本家という職業の魅力と現実が伝わればと思います。デビューを目指す方々には必見の内容です。
――脚本家の小林雄次さんにデビュー周りのお話を今回伺いたいと思います。
小林さんと僕(高達)はかなり長い付き合いで、知り合ったのは、小林さんが大学2年の頃だったと思います。
そうですね。僕が上京して初めてちゃんと知り合った社会人が高達さんでした。
――小林さんと僕が最初に知り合ったきっかけは、シナリオ作家協会の夏の公開講座でした。
そのときは、講座の最中には出会わなかったのですが、後日でしたよね。ネット上で知り合って、お互い同じ講座を受講していたと分かったのは。
当時の講座は、今よりも多くの受講者がいました。会場も、シナリオ作家協会のシナリオ会館ではなく、高田馬場のYMCAという会場だったと記憶しています。プロになってから、僕は教える側で夏の公開講座のゲスト講師を担当したことがありますが、比べると昔の参加人数の方が、かなり多かった印象です。
――何でですかね?
今はシナリオを学ぶにしても、色々な方法がありますけど、あの頃は対面形式しかなかったからかもしれません。あと、メインゲストとして、有名な方で言うと君塚良一さん。『踊る大捜査線』が、大ヒットした頃のちょっと後だったので、目当ての方も多かったのでは。僕も半分、君塚さん目当てでした。まあ、とにかく活況があって、人数がいっぱいいたことを憶えています。
――今の時代の方がゲームシナリオなど、様々な形でシナリオが求められてると思いまるので、昔の方が多かったとは意外です。
昔が多い理由としては、勉強する「場」が限られていたこともあるかもしれません。当時の講座で憶えているのは、鼻から管を通している病気のおじさんが九州から、東京まで来られててビックリしました。
――初期のシナリオランドを始めたのは、その頃でしたよね。
ホームページビルダーというソフトを使って、個人のホームページとしてシナリオランドを作っていました。そこで夏の公開講座に参加した記録も書いたりしていました。また、脚本家になりたい人向けの掲示板(BBS)を置いたりして、交流できるようにもして、その中の一人が高達さんでした。
――僕もよく憶えています。大学の講義録も掲載されてましたよね。『オイディプス王』なども勉強になりました。
松竹出身の川邊一外先生が、シナリオ論という講義を担当されてまして、僕はその講義録をシナリオランドに載せていました。もちろん先生の了解は取った上ですが。
日芸での学生生活から就職活動について
――日芸での学生生活はどうでした?
元々僕は脚本家になりたくて、地元の長野から日芸に通うために上京しました。日芸で映画のシナリオ専攻だったんですけど、入ってみてすぐに分かったのが、本気でシナリオの職業に就きたいと思っている人は一部だけなんですよね。びっくりしましたが、結構同じように感じている人も多かったと思います。例えば日芸の監督コースでも、映画監督に本気になりたい人は多分全員じゃないんです。むしろ少ないとすら思います。文芸学科でも、小説家になりたいと思ってる人は、多分一部なんじゃないかと。他の学部に行くぐらいだったら、他の人とは違う道として芸術学部もいいなぁ、映画も好きだしなぁ~という気持ちで来てる学生も多いんですよね。もちろん、他の一般大学生に比べたら、映画などを好きな人の割合は多いのですが、仕事にしたいかどうかは、やはり別問題。僕は仕事にしたくて上京したんですけど、周りを見たら本気でなりたい人は、ほとんどいなかったです。数人いたかな? という感じでした。それで、ここにいてもプロの脚本家にはなれないなとわかりました。大学が卒業後の面倒までみてくれる訳でもないですし。卒業したら自動的に映画会社やアニメ会社、テレビの制作会社に就職できることもないです。それで、待っているだけではダメで、自分で動く必要があると早めに分かりました。
ですので、在学中から自分で脚本家になるための営業活動を主にインターネットを使っておこなっていました。シナリオランドを作ったのもその一環です。自分の作品の知名度を上げてどうやって業界に売り込むかを考えていました。当時はインターネットが今ほど普及していなかったので、新しい活動だったのかもしれません。
在学中には、他にも色々とやっていました。有線のラジオドラマ専門チャンネルがあって、脚本家を募集していたので応募してみたら、放送されて少しですがギャラを頂けました。このときが、自分のキャリアでも最初にギャラが発生した仕事ですね。こちらは、今ではもう聴くことができないものですが、後に小説家としても有名になる脚本家の秦建日子さんが、番組の演出家でした。秦さんは後に『アンフェア』『ドラゴン桜』『天体観測』など、数々のドラマを執筆したヒットメーカーになります。秦さんがネット上で脚本を募集されていたので、いくつか送ったところ、何本か採用されました。
けれど、それだけでは生活していけるほどの収入はありませんでした。本格的な就職活動もしていなかったので、卒業後はどうしようかと思っていた4年生の頃、自分の興味のある制作会社などに脚本を書きたいという営業メールを送ったんです。その中の一つが、円谷プロダクションでした。元々僕は、ウルトラマンや特撮が大好きだったので、円谷プロのホームページに、脚本家になりたいと連絡したところ、バイトなら募集しているとのことだったんですよ。だから「何でもいいから働きたい」と面接を受けに行ったら、書籍やDVDの関連を扱うメディア部という部署に採用されました。大学4年生の卒業前だったことを憶えています。
――当時円谷プロでは、人材募集があったのですか?
表向きにはなかったと思います。
ただ、それまで円谷プロとのつながりが全くなかったわけではないのです。実は高校時代に、大学説明会などのために上京したことがありました。そのときに、自分で円谷プロにいきなり電話をして、「見学できますか?」と聞いたんですよ。社内や怪獣倉庫を見学したいと思ったのです。16~17歳のときでした。今では、見学は多分無理だと思います。当時の円谷プロ本社には、怪獣の着ぐるみを保管しておく怪獣倉庫というものがありました。砧の成城学園にある、とてもアットホームな昔ながらの場所でした。現在、本社は渋谷に移転して、その場所はマンションになってしまっているんですが。
まあ、それぐらい円谷プロやウルトラマン、怪獣の着ぐるみに思い入れが強かったわけです。だから、いくつかの会社に、脚本を書きたいとメールをした中でも、おそらく一番思いがこもっていたのでしょう。だから、一番反応が良かったのかもしれません。
――円谷プロでバイトをしながら、他の就職活動はおこないましたか? メディア企業に入りたいとか、他の脚本家を募集している会社にチャレンジしようとかはありましたか?
確かに同時並行でいろんなことを考えたり、動いたりはしていました。ネットを使って、他の会社からも、反応があったりしましたね。メールの返事をくれた会社はいくつかありましたし。
ところで日芸って、やはり特殊な背景を持つ学生が結構集まっているんですよ。大久保昌一良さんという脚本家の娘さんが僕の同期にいました。大久保さんは二時間ドラマや『まんが道』の実写ドラマなどで有名な巨匠で、僕が本気で脚本家になりたいと彼女に話したら、父親である昌一良さんを紹介してくれたんですよ。シナリオを読んでもらったり、こうした人脈を通じて、プロの世界に入るためにいろんなことを同時並行でやっていました。
一般企業への就活もほんの少しだけやったのですが、エントリーシートを書くだけで、すごく疲れるんですよね。やっぱり一般企業は向いていないのでは、と思いました。
リクルートスーツも買ってはいないのですが、東宝の説明会には行ったりもしました。大勢いましたが、エントリーシートを出せば第1次面接は全員が受けられると言われたんです。結局エントリーシートの時点で落ちてしまいましたが。日芸から他にも何人か受けていたんですが、みんな落ちていました。多分日芸というだけでダメなのでは?……という話しを仲間としていました。まあ本当のところは、倍率そのものがとても高かったのだと思います。
あとは、NHKのエントリーシートも書きました。天下のNHKなので、当然簡単には受からないですよね。今考えると、NHKや東宝のような大企業にだけエントリーするのは無茶だったとわかります。普通はみんな何十社と受けてるのに。
――NHKだとどの職種にエントリーしたのか覚えていますか?
う~ん、記憶にないですね。そもそも就職活動については、学校の説明会や学生向けのノウハウもほとんど調べずに、個人でやっていました。学校のサポートもほとんど使っていませんでしたし。
日芸は他の学部に比べると、就職サポートも多分弱かったと思います。一般企業への就職する学生の割合は、他の学部より少なかったので、その点もよく分からないままやっていました。2社のエントリーだけで疲れてしまって、「もう辞めた」と思ってしまうくらいでした。本当に何をやっているんだろうと自問自答をしたりもしました。ただ、だからこそ気付いたこともあって、内心では「このまま就職してもいいのか」「エントリーシートを書いているけどやっぱり脚本を書きたい」とあらためて思ったんです。正直、会社員になることに迷いがありましたね。
――例えば今なら、ゲーム会社がシナリオライターを募集したり、シナリオライターを育成するプロジェクトを展開したりしていますよね。もし今、小林さんが大学生だったら、円谷プロは当然として、ゲーム会社なども視野に入れて動かれてましたか?
そうですね。ネットで情報を探していたので、脚本家募集などの検索ワードで色々と調べていました。なので、潜り込めるところや採用してもらえるところを探してたと思います。今ならゲーム会社のシナリオライター募集を見つけて、何社かチャレンジしていたかもしれません。ただ、僕はゲームに詳しくないので、ゲーム会社に熱心に応募することはなかったかもしれません。でも、可能性としてはあったと思います。実際に、僕の教え子も、本当はドラマや映像の作品を書きたいけれど、ゲーム会社で働きながらシナリオを書いている人もいますからね。
――勤めながら脚本家を目指す人も多いですからね。脚本そのものではなくても、近しい職業を選んで脚本の道に進む人もいます。
そうですね。脚本家になるには、制作会社に入るか、全く違うバイトや仕事をしながら空き時間でシナリオコンクールを目指すか、大きく2つのパターンがあると思います。でも、僕自身はあまりコンクール向きではなかった気がしていました。特撮などに興味があったので、一般のコンクールとはそもそも分野が違うかなと。
色々と考えている中で、先ほど述べた円谷プロにバイトで入りました。傍から見ると大変そうな仕事に見えたのですが、実際のところ、今振り返るとそんなに大変ではなかったです。夜にはちゃんと帰れましたし、土日祝日も休みでした。バイト代は安かったですけど、撮影現場に毎日出るような部署ではなかったので、重労働ではありません。ただ、当時の僕にとっては、すごく重労働に感じられました。元々そういった仕事を求めていたわけではなかったので、雑用をこなすのにも慣れていませんでした。社会性もなかったので、仕事をしながら怒られることも多く、2週間ぐらいで疲れ果ててしまって、この環境は僕には合わないと思いました。もちろん、毎日撮影現場に出ることに比べれば緩いかもしれませんが、それでも当時の僕にとっては相当な負担でした。なので、結局、他の道を探さなければと感じるようになりました。ここにいても、脚本家として活躍するまでにどれくらいの時間がかかるか分かりませんでしたし。
円谷プロのメディア部の中で見たタバコ部屋コミュニケーション
――制作会社によっては社員からアイデアやシナリオを募ることもありますが、当時の円谷プロはどうでしたか?
部署が違っていたんですよね。僕がいたメディア部は、ウルトラマンを作っているメインの部署(製作部)ではなかったので、アイデアを出す機会もなかったです。このポジションで脚本家になるなんて畏れ多い、という気分でした。ただ、今振り返ると、僕がバイトしていた3~4ヶ月間は、とても大事な時期でした。メディア部は唯一、社内でタバコを吸ってもいい部屋だったんです。製作部や上の偉い人たちが毎日のようにタバコを吸いに来ていました。僕の最初の仕事は、そういった方々にお茶を入れることでした。お茶を入れることで繋がりを作り、同時に社会人としてのコミュニケーション能力も身につけることができました。その後のキャリアにとっても、プラスになっています。
タバコを吸いに来る中には、当時の円谷一夫社長(円谷英二監督のお孫さん)や、初代ウルトラマンの特撮監督だった高野宏一さんもおりました。高野さんは製作本部長という一番の偉いポジションにいましたが、タバコを吸いに来る度に僕がお茶を入れて、ちょっとした話し相手になっていたのです。高野さんは一番優しかったですね。2008年に亡くなられてしまいましたが、今でも高野さんを思い出します。ある日突然、「小林君もやりたいことがあったら言ってね」と言ってくれました。その一言が今でも嬉しくて憶えています。当時、僕はただの一介のお茶汲みでしたが、上下のポジション関係なく接して頂けました。高野さんはそういう方でした。
また、その時に出会った方々の中には、後に一緒に仕事をすることになる社員監督の八木毅さんがいらっしゃいました。当時、まだ30代の若手の時代です。また、後にすぐ一緒に仕事をすることになる当時20代のプロデューサー・表有希子さんもです。もし二人ともタバコを吸われない方だったら、僕はウルトラマンと接点がなかったかもしれません。
――でも、小林さんはタバコを吸いませんよね?
全く吸いませんね。
タバコ部屋で重要なことが決まるとか、そういった話を耳にすることが多いですが、メディア部の部屋もそのような場でした。社長が来て話しをするとか、高野さんが「こんな企画が今来ているけど、どう思う?」といった話しをされたり。今思うと、すごく恵まれた環境でしたね。そこで出会った方々との繋がりが、後にウルトラマンの執筆につながるチャンスにもなりましたし。
――円谷プロでの仕事は非常に充実されていたようですが、一方で脚本家になりたいという思いも同じぐらい強かったと思います。
そうですね、僕はお酒も飲めないので、当時は飲み会も馴染めなかったです。ですので体調を崩し、精神的にも追い詰められて、「もう嫌だな」と思うこともありました。悶々と考えることが多かったです。バイトに疲れ果てながらも、どうやって脚本家としてやっていくかを考え続けていました。
――でも、結局円谷プロは辞められるのですよね。
突然でした。切っ掛けは『サザエさん』だったんです。僕がサザエさんにも詳しいという情報を知っていた方がいて、『サザエさん』の制作会社であるエイケンを紹介してくれました。なお『サザエさん』は、必ずしも新人にも門戸を開いているわけではなく、書ける人ならベテランでも新人でも歓迎という方針です。
結果として『サザエさん』が大きな転機となりました。
僕の場合、『サザエさん』の漫画が祖父母の家に全巻揃っていて、子供の頃からずっと読んでいました。物心ついた頃から世界観やキャラクターが刷り込まれていたので、アニメの中でも一番書きやすいんだろうなと思っていました。円谷プロでアルバイトをしつつ、紹介してもらったアニメ会社の方に会いに行ったんです。まだ僕のシナリオを読んだことのない方だったので、実力も分からない状態でしたが、「じゃあチャレンジしてみてください」ということで、1週間後を締切に『サザエさん』のプロットを10本自由に書いてくださいと言われました。
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