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JPEEエストニア・アンソロジー VOL4. 寄稿文「究極のライフハック術としてのエストニア移住」

本稿は、2023年11月に出版された「JPEEエストニア・アンソロジー VOL4.」に私が寄稿した「究極のライフハック術としてのエストニア移住」の全文(校正前)である。

当アンソロジーは、本記事公開時点でVOL1.からVOL.3の全3編が刊行されており、いずれも製本版と電子書籍版の両形態にて販売中だ。また、英訳版も存在し、日本語はもちろん、英語でも読むことができる。テーマがエストニア在住の日本人観点の合同紙ということで、かなりニッチな本誌なのだが、テーマに負けず、その内容もかなりニッチである。私ですら分からないことも多々掲載されている。

私はこれまでVOL1.にも寄稿した経験がある。興味のある方は、是非、そちらもチェックしてほしい。

以下に、私が執筆した内容の全文を記載するが、正直に言ってしまえば、この記事は執筆用のメモである。なお、当アンソロジーが販売されるなか、その一部とはいえ全文公開してしまうことは、本アンソロジーの提供価値を下げることにつながる懸念があることは否めない。そのため、本稿は、全体には部分的な公開のみとし、全文は有料販売にて読むことができるように設定している。しかも、その販売額は当アンソロジー本体と同額とするため、全文を読みたい方は、よほど私に寄付したい場合以外、当アンソロジーの方をご購入いただきたい。

末筆ながら、アンソロジーに寄稿しても、私の懐にはお金が一銭も入らない。シンプルに、コミュニティに寄与したい一心で寄稿している次第だ。


究極のライフハック術としてのエストニア移住

    「ライフハック」という言葉は、2004年に米国で使用されはじめて以来、今や、世界中のあらゆる場面における様々なライフハック術が考案され、様々な書籍や動画、Webサイト、あるいは口コミの形で拡散され、世界中の人々に実践されている。その内容も、飛躍的に効果があるもの、簡便なものから、自身には合わないもの、ガセやデマであり実用性に欠けるものまで、多岐に渡り、その実数を把握することは、実際に尋ねてみたものの、Chat GPTにもできないほどである。今や世界中の人が、大なり小なり、自覚的になり無自覚的になり、ライフハック術を駆使しながら生きる時代となっている。

   しかしながら、ライフハックというものは、人生を必ず幸福にするものでもなければ、効率よく簡便に生きられることを確約してくれるものでもない。世界中に無数にあるライフハックの中には、そういうものもあるのかもしれないが、それを探しだすだけで、ひとつの人生が潰えてしまうことは想像に難くない。情報過多とも言われる現代社会において、自分にフィットするライフハック術というのは、見つけるだけでも一苦労である。

   しかも、万が一見つけられたとして、それを実践すること、そして継続することには、非常に高い心理的ハードルがある。三日坊主という慣用句が示す通り、どんなに素晴らしいライフハック術があったとして、それらを意識的に覚えていたり、継続することは非常に困難なのである。そもそもとして、どういったライフハック術であれ、それを堅実に実践し、継続することができる人間性があるのであれば、ライフハックなぞに頼らずとも、おおよその場合、真っ当な人生を歩むことができていることだろう。

   本稿では、以上を踏まえて、エストニアへの移住をひとつのライフハック術として扱い、それを通して実際に得られるメリットを紹介していく。

現状を変えるのに必要なことは、環境を変えることである

   終身雇用という制度が実質的に終焉を迎えて久しい。欧米諸国ではもとより一般的であった転職という選択肢を、日本人の労働者も選択しはじめ、現状の職場を去って新しい職場に加入することで、自身の待遇を向上させたり、はたまた新しいことにチャレンジすることが、今や日本でも職業選択における一般的な選択肢となっている。転職というのは労働環境を変えることであり、転職者である彼らは、それを通して、自身にとっての労働環境の品質向上や、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)の向上を実現している。

   また、漫画や小説、アニメといった創作物の世界では、異世界転生や転移をテーマにした作品の台頭が後を経たない。そういった作品を指す"Isekai"が英語としても通じるほどに、いわゆる「異世界もの」というジャンルが一世を風靡している。これらの異世界ものでは、元の世界である現実世界は、大なり小なりネガティブな事物として表象され、別の世界はポジティブな事物として表象されることが多い。もちろん、中には転生や転移がポジティブでなく、ネガティブなものとして記されているものもあるが、いずれにせよ、こうした異世界ものにおいても、主人公が世界レベルでの住環境の変更を行う、あるいは意図せず行われることで、元の世界では得ることのできなかった体験をすることができている。そして、それらの作品が共感や好意的なインプレッションを与えることで、消費者に、一大ジャンルとして支持されているのだ。

   これらに共通しているのは、自身の内面や外面ではなく、自身の所属する環境を変えることで、成果を獲得している点にある。

   内面にしろ、外面にしろ、自分自身を変えるという命題は、非常に難しい命題である。それこそ、ライフハックという藁にも縋る程に、多くの人類がそれに挑戦し、挫折し続けている。もし、それが容易であるならば、この世に蔓延る諸問題の半分以上は、既に過去のものとなっているであろう。この文章を読んでいる今もライフハックというものが生み出されていること自体が、自分自身を変えることの難しさを物語っている。「モテたい」ことを願い、「痩せたい」ことを祈り、「賢くなりたい」と念じても、もし、それらに向かって行動できたとしても、それらの思いや行動が実を結ぶとは限らない。実際には、自身の内外含めた様々な要因により、それらを実現するための行動とその継続は妨げられ、容易に失敗するのである。歳の数だけの年月の間、変えることのできなかった自分自身を変えるということは、想像を絶する困難を伴うのだ。

   一方で、環境を変えるということは、自分自身を変えるよりかは、いくらか難易度が低い。ただし、自分自身を含めた複数人が所属している環境そのものを、変質・変容・変化といった意味で変えることは、自分自身を変えることと同程度に、あるいはそれ以上に難しい。簡単なのは、あくまでも、自分自身の環境を、別の環境に移すという意味での変えることである。あるいは、変化という意味での変えるの場合は、その環境が、自分自身のみが所属している環境であるならば、変えることが比較的容易となる。

  まず、複数人が所属する環境を変化させることについて、これを難しくしているのは、他者という外的要因の存在だ。もし、これが簡単なら、世の人材管理や組織管理に関するビジネス本は、今頃焚き火に焚べられ、美味しい焼き芋の火種となっているはずである。そうしたビジネス本や動画に一定の需要があるくらいには、複数人が所属する環境の変化というものは至難なのである。

  人間という生き物には理性が伴うが、だからといって、自分自身をいつでも理性的に管理できるのではない。このことは、いつの世になっても、自然資源や人的リソースの著しい損耗たる戦争や紛争がなくならない事実が、明確に示している。身近な例をとっても、腹が減れば飯を食い、眠くなれば就寝し、腹が立てば怒り、時には涙し、意図せず怠惰になったり、望まぬ病に伏すこともあるだろう。このことは、自分自身を変えることの難しさに直結するとともに、複数人が所属する環境を変化させることの難しさもまた物語っている。自分自身の内面ですら、その変化を阻害する様々な要因があるにも関わらず、複数人を相手どる場合には、その人数分だけの内面や、あるいはその数だけの外的要因とも向き合う必要が出てくるのだ。世のマネジャーは、そうした困難と向き合いながら、環境を変え続けることを推進しているのだ。

   自分自身の所属する環境を移し変えることや、自身の環境を変化させることが簡単である理由は、こうした人間の内面的な困難と向き合う手数が、極小化されているためである。仕事や勉強に集中できないならば、喫茶店や図書館などの集中できる場所に行ったり、自室から仕事や勉強に関係しないものを全て排除する。ダイエットが続かないならば、外食ができなかったり、食料を容易に購入できない場所で生活したり、必要外なお金を銀行等に預けてしまう。このように、環境さえ変えてしまえば、その後は、やる気だの意思だのという不確かな内面の介在を許さず、成果に対する行動を継続することができる。これこそが環境を変える意義であり、不足な現状を変え、成果を得るための、究極の手段なのである。

  例えば、かのスティーブ・ジョブズは、同じ服しかないという環境を自ら作り出すことで服を選ぶ時間を削減し、アルバート・アインシュタインやトーマス・エジソンは、自身にとって最適な場所に研究所を構えることで成果を出した。作家のジョージ・オーウェルは孤島に居を構えて『1984』を執筆し、同じく作家のヴァージニア・ウルフは『A Room of One's Own』というエッセイの中で、静かで孤独な空間の必要性を謳っている。このように、歴史に名を連ねる偉人や著名人たちもまた、環境を作ることで、多大な成果を得ることに成功している。『かぐや様は告らせたい 〜天才達の恋愛頭脳戦〜』(赤坂アカ, 2015, 集英社)でも述べられている通り、「ドラマティックな展開になれば人は変わるなどということはなく、感情は信頼できず、人の感情をコントロールするのはいつだって環境であり、自分の目標を達成出来る環境を自ら設置する能力こそが何より重要」なのである。

エストニアは日本よりも誘惑が少なく、仕事や勉強に集中できる

   先の節において、成果を出すために環境を変えることの重要性を説明した。しかしながら、エストニア移住である必要があるのかと問われれば、実際のところ「No」である。一切不要だ。先の節の具体例にも挙げた通り、例えば勉学や仕事のために集中したいのであれば、別にわざわざエストニアに移住せずとも、喫茶店や図書館に移動したり、あるいは部屋を模様替えすれば良いのである。または、いっそのこと、オフィスや学校に移動したり、コワーキングスペースやレンタルオフィス、それに類するスペースを借りたり買ったりするのも一手だろう。もちろん、目的にもよるのだが、わざわざ小国であるエストニアを選び、移住までする必然性は、おおよその場合、存在しない。ようは、集中するために、どこかに移動したり、環境を作ったりすることのパターンは無数にあり、どれが最適なのかは、究極的には、当人次第なのである。 そういう理由で、以降に紹介する個々のメリットについては「私の場合は」という枕詞が暗に付与されることを承諾いただきたい。

  さて、先述の通り、集中して仕事や勉学に集中し続けるだけであれば、エストニアに移住する必要はなく、読者各位の出身国での環境構築で十分に事足りる。これは本当だろうか。集中し続けるということは、集中し続けている間は他のことを断ち、それに取り組み続けるということを意味している。そうでなければ、環境を変える意味がない。しかしながら、出身国、私の場合は日本を指すが、そこには多くの、集中を断つ誘惑が存在する。それは例えば、都会であれば豊富な商業施設や飲食店であったり、田舎であっても、インターネット上では様々な母語の情報で溢れ、多かれ少なかれ交友関係もあるはずだ。これらは全て集中を断つ要因となりうる。

  一方で、エストニアに移住することで、これらの誘惑に対して、「No」を叩きつけることができる。日本で何をしようにも、どのような情報やメッセージが日本から発せられようとも、日本とエストニアの間には物理的な距離があり、時差もあり、帰国するために必要なフライトには、時間もお金も多大に必要となる。よほどの報酬でない限り、誘惑とコストを天秤にかけても、誘惑に傾くことはない。また、エストニア語ネイティブでない限りは、エストニア国内で受動的に摂取される情報にも言語的な制約があるうえに、よほどアクティブに活動しない限り、継続的な交友関係の構築も非常に難しい。もし、何らかの誘惑に負けそうになっても、エストニア国内で何かをする際の金銭的コストは、円安の昨今では、日本に比べてかかるコストが大きくなるため、誘惑に負けた行動をすることが憚られ、誘惑に対して「No」を叩きつけやすいはずだ。特に、仕事における集中力を得ることが目的である場合、異国の地で無収入であることは生死に大きく関わる。誘惑に負けることが生死に直結するならば、否が応でも誘惑なぞに負けることができなくなる。また、もとより、日本の首都圏や郊外と比較して、誘惑となるものの総数が少ないため、誘惑されづらいという事実もある。余談だが、同じ海外移住でも、これがエストニアではなく、例えばアジア圏、アフリカ圏、南米圏であれば、物価が安い国が多いために誘惑に負けるハードルが下がってしまい、一方、北米やスカンジナビア半島、中央ヨーロッパの場合は、そもそもとして物価が高すぎて、移住そのものが難しい。東欧や南欧であれば、物価的には比較的エストニアと近しい条件となるが、移住経験がないため、ノーコメントとする。エストニアという国は、比較的移住が容易な国且つ、勉学や仕事に集中するためには、適当な国ではないだろうか。

エストニアで生きることがダイエットにもつながる

   先の節の末尾で、エストニア生活における、円安に伴う物価高ならびに金銭的コストの増大について触れたが、これは食費にも波及する。

   大前提として、日本という国は、食という観点において、世界的にも非常にコストパフォーマンスに優れた国だ。コスト面では、欧州や米国と比べても自炊のための食料品にかかる税金が安く、外食の単価も非常に低価格となっている。さらには、安いだけでなく、さまざまな食料品は丁寧に梱包され、虫等が混入していることも少なく、非常に高品質だ。日本全国にあるコンビニでは、24時間、多様な美味しい食料品を調達することができる。しかもそういったコンビニ食品や外食店の料理は、時期ごとにラインナップを変え、四季折々、さまざまな食品に舌鼓を打つことができる。さらに首都圏では、世界中の料理を、現地で食べるよりも安価に美味しく食べることができる。もちろん、日本よりも低コストで食事ができる国もあれば、日本よりも高品質な食事をとることができる国も世界にはあるのだが、コストとパフォーマンスを両立している日本の食事事情の水準は、世界的に見ても、最高レベルと言って、決して過言ではない。

   それと比べると、大抵の国での食事は、コストかパフォーマンスのいずれかにおいて、不十分に感じることが多いだろう。エストニアも例に漏れず、そういった国の一カ国となる。エストニアでの食品には軽減税率でも9%の税金がかかり、外食については20%のVATが計上される。そのため、外食は、どんなに安くても5€はかかってしまうし、マクドナルドでセットを買うにも10€前後かかってしまう。日本の吉野家等の牛丼チェーンで食べられる価格で、エストニアの外食を食べられることはまずありえない。また、食材や調味料のレパートリーも日本には負けるし、日本と同様のものが売っていたとしても、日本の数倍近い価格で売られていることがほとんどだ。逆に、日本よりも安く買えるのはヨーグルトなどの限られた食品程度である。実際、エストニアに来てからの私のエンゲル係数は、外食や交際費が少ないにも関わらず、倍以上になってしまっている。味についても、やはり日本の食事は日本人にマッチしており、なんだかんだ日本で食べる食事のほうが美味しいと感じることがほとんどだ。

   こうした食事事情の一方で、一部スポーツジムの利用料金は、エストニアの方が日本のスポーツジムの平均的な金額より安い。年間で200€程度で利用できるジムも各所にあり、もちろん、ジム自体の品質が日本よりも劣るということはない。加えて、首都タリン市内にはジム付きのアパートメントもいくつかあり、月あたり10万円かからない金額で居住することができる。同条件で山手線内側の物件を探したとて、家賃が10万円以内でそういった物件が見つかることはほぼないであろう。また、同タリンは首都であるにも関わらず、道幅が広く、サイクリングロードや、トレーニング器具が整備された公園もいくつもあり、果てには市内から30分以内で森林にも海にも行くことができる。夏場であれば、ランニングやサイクリングなどのロードスポーツの場所に困ることはまずないであろう。筆者の場合、コワーキングスペースの近くの路上に卓球台があるため、よく卓球に参加していた。

   このように、日本と比較して食事事情に不便がある一方で、スポーツに努めやすい環境が整っているエストニアという環境に半年滞在した結果、私の体重は移住前と比べて8kg落ちていた。もちろん、ダイエットの成果は食事や運動、ライフスタイルに依存するため、確約できるものではないが、エストニアは、成果を出すために集中しやすい環境であるとともに、日本と比較して減量しやすい環境でもあるのだ。意識的にダイエットをしたわけでなく、限られた環境や資金のなかで生きていくことが、それだけでダイエットとなるのである。

タリン移住は英語学習にも適している

   英語の学習は難しい。この命題に対して"No."を叩きつけられる日本人は、街行く日本人100人に声をかけたとして、10人とていないであろう。実際、日本語と英語とは、文字も文法も発音も隔絶した言語であり、日本語話者が英語を学習すること、英語話者が日本語を学習することは、言語学的にも難しいとされている。特に日本に住む日本人は、地理的に、陸続きに英語話者が日本を往来することもなく、究極的には、英語を使う必要性がほぼないため、英語を学習する必要性がそもそもないのである。言語学的に困難であり、しかも必要性すらない英語を、一般的な日本人が習得することが難しいのは自明の理なのである。

   一方で、諸外国の人々が一般的に日本人よりも英語に長けてるのは、言語学的に日本語よりも母語が英語に近かったり、あるいは生活のために英語を話す必要に駆られたり、あるいは英語で話すことが便利だからなのである。勉強しやすく、且つそれの必要性が高いのであれば、習得の必要性もあがる。ただし、もちろん、これは話者の居住地による事情が大きい。例えば、同じエストニアであっても、首都のタリンであれば十分に英語が通じるが、ロシアの国境に近いナルヴァという都市では、英語よりもロシア語のほうが普及率が高い。これはひとえに必要性の差異といえる。

   つまり、エストニアの首都であるタリンに住むことは、そういった英語が必要になる環境に住むこととイコールである。街では母語であるエストニア語だけでなく、ロシア語や英語が飛び交い、それはインターネットの世界においても同様だ。逆に、この国では日本語は必要でないため、おおよそ日本人間でのやり取り以外で話されることはほぼない。そう、移住した時点で、我々は英語かエストニア語、あるいはロシア語を使わなければならない必要性に駆られるのだ。正確には、移住するだけならばそういった言語は必要ないのだが、現地の人とやりとりしたり、交渉したり、交流したりするならば、絶対に必要になる。特に、性格やコミュニティのあり方の観点から交友関係を築くのが難しいとされるエストニア人との交友関係を持ちたいならば、積極的に英語等の言語を使ってアプローチをしていかなければならない。移住した我々は余所者であり、相手としては、面倒臭い外国人を相手取る必要性など別にないのだ。そして、そうした必要性から、積極的に英語を使うことこそが、英語を学ぶ王道なのである。

ちなみに、英語が第一言語である国に住むことも当然、英語学習が目的である場合、非常に有効な一手である。それにも関わらずタリンの移住を勧めるのは、第一言語が英語でないという立場がエストニア人と日本人では共通しているためだ。つまり、どちらもお互いを英語が母語でなく、英語が話せることが当然ではないと認識したうえで、それでも通じ合えるように会話をすることができるのである。そのため、お互い通じ合えるために簡易な単語や文法で会話されることが多く、英語を母語とする話者よりも話しやすい一面がある。なお、同じ第一言語が英語の国であっても、比較的、英国人はこっちのそういった言語事情を鑑みた上で会話をしてくれる傾向にあると、筆者は個人的に感じている。逆に米国人は「英語を話せることがスタンダード」と思っており、会話をする中でも、相手と通じ合うためのジェスチャーなどをあまりしない節がある。あくまでも筆者の観測範囲の話になるが。

後書き

   私にとっての二度目のエストニア生活は半年が経過した。この半年間、前回の一年間と比べても、幅広い経験を積み、交友関係を築くことができていると自負している。また、エストニア生活に関する質問や相談を日本人から受けることも増えてきた。残り半年で、今回のデジタルノマドビザの期限が切れてしまうため、心残りのないように過ごしていきたい。次は、いよいよスタートアップビザを取得する予定なので、滞在期間中に成果をあげていく所存だ。

   さて、本稿では、究極のライフハック術として、エストニア生活を紹介してきた。ただ、本稿で伝えたかったライフハック術は、環境を変えることにあり、それはエストニア移住に限った話ではない。特に昨今は、社会情勢や円安などの影響で、必ずしもエストニア移住を推奨することはできないのが実際のところだ。もし、本稿に影響を受けてエストニア移住を検討する場合には、外務省などの公の情報源から正しい情報を収集し、適切に判断し、万全な用意をしたうえで移住を試みてほしい。また、集中して成果をあげることも、ダイエットをすることも、英語を習得することも、エストニア移住しなくても実現可能なことだ。エストニアに移住際には、何よりも、現地での生活を楽しく、充実したものにすることを優先してほしいと願うばかりである。人生は一度しかなく、儚く、脆いのだから。

   余談だが、「ライフハック」という語のエストニアにおける表現は、タリンに住む人々に対してであれば、英語が通じることが多いため、英語のまま"lifehack"で十分に通じるはずだ。これをエストニア語で表現する場合は、"elutarkus"が近しい意味を持つが、"wisdom of life"に近しい語であるため、ややニュアンスが異なる語となる点に注意が必要となる。



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一度は行きたいあの場所

元ITコンサルタントのフリーランスエンジニアによる雑記を書いています。いただきましたサポートは北欧移住および某計画の資金とさせていただきます。何卒よろしくお願いします。