明るい再定義の物語 #1 (シン・エヴァンゲリオンを観た)

シン・エヴァンゲリオンを観ました。何度も観て、同じところで泣いたり新たな気づきを得たりしました。アニメや漫画やゲームやを好きだと自覚した時点で既にエヴァのことが好きだった気がする。ミーハーっぽい好き加減かもしれないけれど、趣味アカウントに放流するにはあまりにも多いので、一度感想をまとめることにしました。途中でたまに旧劇、アニメ、漫画等に脱線することがあります。

都度都度の感想かつ思いだしながらの部分が多いので、箇条書きで書いていきます。できるだけストーリー順に書いていますが違っている部分もあります。一人のツイッターアカウントのタイムラインを延々と遡る感覚で読んでくださると幸いです。また観たいと思ってるのでその時はこの記事に追記するか別の記事にします。

※ガッツリ本編のセリフやシーンに触れています。

※「考察」ではなく個人の「感想」です。





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・これまでのエヴァンゲリオン。でシンのメッセージ性にかかわってくる部分をまとめなおしてくれたのはありがたいなと思った。「これまでの~」の声がマリで、それにも意味がありそうだなとか思いつつ「好き…」と思いながら振り返った。この時点で割と泣ける。

【パリ戦】

・ネルフ側の機体が全体的に生理的嫌悪を覚えさせる感じのデザインでキモよかった。キモいのにどこかカッコいいと思ってしまうのはなぜだろう、44Bの「キッッッモ」感がすごい。機能だけを追い求めて倫理やそれ以外を(資材不足も現実的にあるかもしれんけど、その辺は神パワーでなんとかなってるんかもしれん)廃したらああいうデザインになるのだろうか。

・マリの戦闘シーンの囚われなさや縛られなさは本当に性格出てていいなと思う。普通に無双するの何なんやろうなかっこいいな…パイロットとしての優秀さや器用さはシンジ・アスカの比じゃない気がするけど、それこそ比にするようなキャラじゃないのかもしれない。キャラとしてバランスのある空気の読まなさ加減がかわいいなと思う。(読めないのとは違う。)あのハンドル操縦するやついつかユニバとかでやってくれないかな、絶対楽しい。

・マヤがたくましくなっている。彼女をたくましくしたのはこの14年やろうか、ミサトを筆頭にネルフ職員だった彼らの立場が上がっているのか、マヤが部下を従える立場になっていて、でもリツコのことを「先輩」と呼んでる変わらなさがうれしかった。ヴィレクルーの面々がある意味でこれまでの価値観や世界観的な意味で『女性らしさ』を放棄しているというか、たくましくならざるを得なかった世界観がこのあたりにもしっかりめに描かれている気がした。

・船浮いとる。船バリアするところとかはラミエル戦セルフオマージュかなとか。「おちゃのこさいさいよ」ん…。シンでは何度も出てくるけど、この船とか航空機の装甲とかをあくまでモノや武器として転用するかんじ、そんなもの屁でもなくぶち壊せるパワーを感じる。物理的にも権力的にも。

・エッフェル塔大丈夫なん?このあたりの土地をがさがさ荒らして戦う感じも特撮を意識されていたりするのだろうか。

・「どこにいても必ず~」は、どういうことなんやろうか。(この後も再三書くけど)マリさん本当に何者?

・全体的に音楽がかっこよすぎるのでこの時点でサントラが欲しくなる。


【第三村】

・足跡の描写が「DNAっぽいな…」と思った。後のヴィレの槍の時とか、それっぽい描写が多かった気がする。

・シンジの旧友たちが大人になった姿で出てきたときは本当に本当に嬉しかった。特にトウジが生きててもう「生きてる…!!!!!!」と思った。Qのシャツの描写は完全に死亡フラグだと思い込んでいた。トウジが自分が着ていたおさがりの服をシンジに「着せる」のが印象的だった。この時点ではシンジは「守られる」ポジションにある、今のシンジに道を示してくれる人がたくさんいることが純粋に嬉しかった。

・ヒカリ!!!!!生きてたの!!!!!!結婚!??!?!??!!?おめでとう!!!!!!!!! これまでの話ではトウジはともかくケンスケやヒカリは本編の味付けキャラって感じで原材料ってかんじではなかったから、旧友がそれぞれに大活躍するのが本当にありがたい。

・ヒカリもトウジも別レイへの受け入れが早すぎる。違和感を覚えるとかそういうことがないのは、たぶんそんなこと言ってられないのが第三村の日常だから。生存に必死なとき目の前のことに専念せざるを得ない、疑問を感じるだけ無駄というか。ハイカイにしたって何にしたって身近に恐怖とわからないものがありふれすぎているのかもしれない。(後に思うのだけど、アスカだけがヒカリやトウジと接触する場面がなくて、それにはいろんな理由があるのだろうけれど、14年前と姿の変わらないアスカを見てもきっと今の彼らは受け入れてくれただろうと思う。でも以前と同じ関係には戻れないし居られないのはきっとわかりきっていて、それはそれでやっぱりアスカにとっては辛いことなのかもしれない…。)

・ヒカリが度々別レイの「なに?なぜ?」に対して丁寧に答えてくれるのはとてもやさしいことだな、と思う。別レイにしたってシンジが目覚めるまでの間はおそらくネルフ側としかコミュニケーションをとっていないだろうし、その中で「命令に従う」ことが全てだった別レイにとって「違っていい」をさも当然のように差し出されるのは青天の霹靂で、おっかなびっくり、でもすごく心地のいいことだったんじゃないだろうか。受け入れ合って少しずつ感情を覚えていく(人間っぽくなっていく)別レイがかわいかったし、エヴァ作品全体の中で綾波レイが癒しポジに立つことがあるんだ…と驚いた。 ヒカリと別レイの会話の中で、普遍的な仕草に意味づけが行われていくんだけど、その中にこれまでの作品の仕草の再定義がちりばめられていた。どんな感動的なシーンも、一瞬の感動も、そのあとに必ずつらいシーンがあるのが旧シリーズだったと思うけど、それらの後味の悪さを全て丁寧に拾って「よかった」と思えるようにしてくれた気がする。食後のカレーの皿のこびりついたままの汚れを丁寧にとってくれた感覚。

・旧シリーズの中で綾波が誰かに「おやすみ」って言っている場面があったかな…と思いつつ、前述したけれど、「おはよう」「ありがとう」「さよなら」そして「手をつなぐ」ことに新しい意味が追加されたことが本当にありがたい。アニメシーンで綾波はクラスメイトに「おはよう」って言ったことがあるんやよね、シンジと絡むことで綾波が変化していくシーンだったけど、シンエヴァのおかげでそこに「一緒に生きていく」思いの解釈というか、シーン構造が重層化する感覚がある。ほかのセリフにしても同じ。

・別レイとシンジは第三村で別々に生活していくけど、周りの人に揉まれながら感情を少しずつ出していく別レイと、かぎられた人間とだけ会話をして閉じた生活をしているシンジ、この2つの構造自体は、これまでのアニメや映画を通して、前者がシンジ、後者がレイだった構造の入れ替わりではなかろうか…と思った。だからこそ今回別レイはシンジに手を差し伸べることができる。受け入れられるまでに拒絶の描写がいくつかあるけど、「したいことをしている」前提があるから別レイはやめないし、これまであんなにコミュニケーション不全だった綾波がこんなにべらべらしゃべってる…とどうしても思ってしまった。拙く思いを伝えるレイはかわいい。感情や行動をひとつひとつ言葉と思いの実感として学習していく別レイはやっぱり人間ではない。 手を差し伸べる仕草やほほえみでヤシマ作戦後を思う。あの時のシンジは確かにレイをわかりたいと思っていたし、それは言い換えれば仲良くなりたいってことだもんな。皮肉なのかなんなのか、シリーズとしてはおなじ「綾波レイ」がここまで違うのは、周囲の人間との関わりの如何であって、アヤナミがここでこのまま社会性を身に着けたら、最終的にはきっとユイさんに限りなく近い人間になったのではなかろうかと思ってしまった。


・一方廃人状態のシンジはケンスケとアスカに引き取られて、ケンスケに優しくされたりアスカに蹴飛ばされたりしている。  別の話、漫画やアニメ版でケンスケがパイロットにならなかったのは、ネルフ側にケンスケの父がどうも重要ポジションを担う形で存在しているからっていうのが一枚かんでいそうだけど、新劇においてはトウジもケンスケもパイロットに選ばれていないからあんまり関係ないのかもしれない。そんなケンスケの父はシンでは「事故であっさり死んでしまった」らしい。お墓まいりのシーンでやっぱりシンジは父のこと、母のことを考えるのだろうか。「縁は残る」と言うケンスケの言葉にアスカは今更何も思わないのだろうか。全体的にセルフオマージュというか、これまでの話をなぞりつつ違った話に組み上げるのが本当に丁寧に行われている気がする。

・大人ケンスケはヴィレと第三村をつなぐ人物として、先んじて手を回したり世話を焼いたりする立ち位置。なんだか鍛冶さんっぽい位置にいる。アスカが半分人間じゃないのもシンジが変遷?過程にいるのも理解している様子。そのうえで14歳の心身のままのシンジに「友達だろ」って言えるのはケンスケが大人になったうえで「会えてうれしい」が本心だからだと思う。 この先は勝手な想像だけれど、今作でケンスケが担う役割は結構いろいろあって、平たく言えば「アスカとくっつける」ための立ち位置ではないと思う。14年前の鍛冶さんのような、取り込まれなかった場合のシンジのような立ち位置で彼は居ると思う。あくまで、ような、だから同じではないんだけど、ケンスケとアスカをくっつけるにはこれまでの作品でそういう描写が少なすぎる気がしていて、最終的にシンジにとってのマリみたいに、アスカを導いてくれる立場なのではなかろうか、勝手な願いかもしれない。「ケンケン」呼びなのもアスカが一定以上心を開いている人にする名づけ行動みたいなもんだと思っている。バカシンジしかりコネメガネしかり。やることやってて馬鹿にする必要もなければコネでもない(たぶん)から蔑称が前に来ないだけ、な気がする。 とか言いつつアスカの裸に全然動じてないケンスケがいるんですよね。Ah…。

・今のアスカにとってシンジはガキに成り下がってしまった、というか本当に後半出てくる「私が先に大人になっちゃった」なんだなと思う。特典の薄い本でQ前日譚(あくまで薄い本だけど)が描かれていて、それもあわせて考えるとアスカはもうシンジに対して単に好きとか生きていてほしいとか素直に口に出せる立場でも性格でもないよな、と思う。Qの奪還作戦で呼応するように初号機の反応があったこと、やっぱりうれしかったんだろうし、アスカ自身は選ばれた自負と覚悟のうえでエヴァに乗っているから、責任を負わなかった当時のシンジに対して怒っていただろうし、ガキシンジだったことに落胆したんだと思う。破時点では綾波の対比として恋慕ぽく描かれている気がするけど、新劇場版でアスカがシンジに対して抱く感情は一貫して憧れや羨みに近いものだと思う。現実の恋愛もそのあたり割り切れなかったり差異があまりなかったりするよな、と思いつつ。シンジもアスカもきっとお互いの「自分じゃないところ」に憧れて好きになったのかもしれない。

・何もしないシンジに苛立つアスカ、何もしないでいられることがうらやましいのかもしれない。(アスカの生まれも育ちもそれを彼女に、また彼女自身もそれを許してこなかったから。)レーション突っ込むときの画面の動きが躍動感ともなんとも言い難い揺らぎで、あの時のアスカのセリフもめちゃくちゃ良いなと思う。物語がシンジを大人にさせてくれるとき、彼は大体家出する。家出させてくれるのが以前はミサトさんだったけど今回はアスカでありケンスケで、やっぱり彼は庇護下にあるというか支配下と言い換えてもいいけど、この時点では子供なんだなぁと思う。対等な立場ではない…。ここからちゃんとシンジは「なんでアスカが自分を殴りたかったか」考えていたのが後々わかるのがいいな。 こうやって考えるとシンエヴァはシンジの感情を描くのがメインではなくて、もっと第三者から俯瞰して見た物語になっている気がする 「マジ、うざい!」って言われてましたが今どきの子って「ウザい」言うんやろうか、世代を感じる。ここでもやっぱり真正面から否定的なことを言うのはアスカなんだなぁ。

・何度も別レイを拒絶するシンジが泣きながらレーション食べるところがさらっと流れて、生きていたくないけど死ぬ勇気もないときに泣きながら食う飯が一番味しないし自己矛盾の体現でしんどいんだよなぁ、と少しばかり共感した。 「なんでみんなそんなに優しくするんだ、僕なんてもう放っておいてほしいのに」って言うシンジくんが本当に切実でつらかった。ここで必ず泣く。ケンスケやトウジが言葉にしたり形にして「ニアサーも悪いことばかりじゃない」って言ってくれても、本人からすれば、たすけたかった綾波は別人のようになっていて、支えて導いてくれたカヲルくんも目の前でああなり、それでも周囲の人間が自分を生かそうとするのを拒絶もできない、苦しいだろうな…。

・別レイは村に属して自分たちの食べるものを自分の手で作ったり育てたり、そういう意味では与えられるだけのシンジくんより自立した存在なんだな、と思う。ただ彼女もまたプラグスーツを自分の意思で脱いで服を着せられるシーンがあって、服を着せられる、着る、選ぶ、これらにわかりやすめに「大人になる」こととか、現在のキャラの立ち位置を表させているなと思った。

・別レイの手を借りて立ち上がったシンジに、「すっきりした?」と声をかけるアスカ。後々になって同じことをマリからアスカが言われるのが良い。ループ構造というかつながりというか、そのあたりすごく意識づけられている。ここでさりげなく次にやるべきことを示してくれるアスカは優しいなというかやっぱりシンジより大人なんだなと思う。 ケンスケの手伝いをするシンジが魚釣りを頼まれて、うまくいかずにちょっと拗ね照れてるシンジがかわいらしかった。割となんでもできてしまいすぎる(できなきゃいけない、みたいな気持ちもあるかもしれない)シンジができないことがあって、それを緩やかに許されている描写があたたかい。これまでシンジは出来ないことを怒られるばかりで許されたことはあまり無い気がする。

・「碇くんのつけた名前になりたい」はプロポーズだと思う。シンジの腹から産まれたんですか? 釣りの練習するシンジが健気。

・別レイが「ずっとここにいてくれればいいのに」って言われているの、良かったな~。本人も「ここにいたい」と思い始めたときに「ネルフでしか生きられない」を突き付けられるのがつらかった。水槽の中の魚たちと同じ。 村の女の子が自分より明らかに年上であろう別レイを馬鹿にせず素直に色々教えてあげるのが良い。そこにこだわる必要がなかったから、というかもっとそれこそ素直に別レイの変化を描きたかっただけかもしれないけど。

・自分の終わりが近いのを悟って書置きしていく別レイ。今までの綾波だったら何も言わずにいなくなってしまっていたと思うので、レイはレイだけどやっぱり別レイだなと思った。ここにきて「さようなら」のおまじないが効いてくる。明るい再定義を、諭すような形でヒカリに言わせたのは意味があるのでしょうか。

・トウジがシンジに14年間を語るシーンで、トウジが上(前)を向いているのにシンジはうつむいているところ、良かった。「ここに居たらいい、もう何もしなくていい」というような、過去のシンジくんが求めていたような言葉を言ってくれているのに、今一つシンジには届いていなくて、それこそトウジを追うように「落とし前をつける」生き方を選ぶことになる。(ここで二人とも画面に向かって左を向いている。誰がどこを向いているか、どんな目をして誰に何を思っているか、それがこの映画では大切に扱われていると思う。)誰かに言われて、とか、誰かを助けるため、とか、自分以外のことが目的で理由だったシンジが、自分の気持ちでエヴァに乗ることを選ぶのは、ひとつ大人になるシーンに思う。確かめるみたいにケンスケが「ここにいてもいいんだぞ」って改めて言ってあげるのがまた良い。シンジの目が赤い、たくさん泣いて確実につよくなっていくシンジがなぜか誇らしくなる。



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ここまで書いても書き漏らしていることがある気がする。長くなりすぎてしまうので、以降は別の記事にします。ここまで読んで下さった方がいらしたら、ありがとうございます。


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21.08.20【追記】

・「ケンケンの役に立て」のアスカ、毎度吐かれても困るとはいえスカーフで首元隠しているのが優しい。

・リョウジに会った後の車内、シンジだけさりげなく防護服を脱いでいるのは…。

・アヤナミがパシャるシーンで、稲刈りについてのセリフはアヤナミのものだけど、抱っこしたかった、好きな人と一緒にいたかった、というセリフがユイさんに被って仕方ないなと思った。

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