共感、なんて言葉は結局想像力に過ぎない。あなたもわたしも、互いのことを完全に理解し合える日なんてそれこそ永遠に来ない。全部「似たような思いをしたことがある」とか「分かる気がする」に過ぎない。そのうえで、どれだけ思いや言葉を尽くしていけるか、いこうと思うかが自分と相手の関係性を示していると思う。
寂しい、悲しい、嬉しい、幸せ、そんな言葉にすれば等しく同様のすべて、それぞれが、あなたにとって、わたしにとっての唯一性だと思った。

なんだかそう思うと、「わかりあいたい」という言葉の重みだけがひとりでに増していく気がする。全ての心は基本的に一方通行に過ぎないのに。



一冊にまとめる計画の過程で、字を書き始めた頃の文章(捨てたり消したりしたものもあるから、そのなかで残ってきたもの)を読み返していた。いまはもうそんなこと思わないな、幼いな、と思う一方で、大人になったからこそ、感受性が爆発しているみたいなこんな人間がよく生きてこれたなと思う。偶然だなぁ。たまたま生きてこれただけのことを、幸せだ!とか、ラッキーだ!なんて思える日なんて来ない気がしている。人生はやはり諸行無常なので。流れと導きのなかにある。

こういうことを書いていて思うけれど、たまに自分の考え方ってある種の宗教じみているなと思う。信念と呼べば聞こえはいいけれど、宗教っていう価値観を並べたときに「みんなちがってみんないい」が無いと一瞬で崩壊するなぁと思う。何が、とは言えないけど、例えば歴史にならえば戦争が起こるわけで。
腐りきった信念をかかげて停滞すればそれはやっぱり死んでるのと変わらないと思うし、そういうことをしてるからいつか「老害」とか呼ばれちゃうんかなと思う。嫌だな。自分の信じることは自分の道を決めるために必要だけど、相手に押し付けないでいたい。自戒。人生はずっと自戒の繰り返しな気がしました。



話を戻す。自分が過去に書いていた文は、当時の方が大人びて見える文もあって驚く。そんな幼さでこんなこと悟らなくても良い、と思ってしまう。けれども現在の自分には「お前はそんなに甘ったれて!大人になれ!」と思うので、どうしたもんかな。極端な気がする。いつも1か10、または0か100しかない、みたいなかんじ。心や行動やを制御するのは難しいなぁ。気づくべきことばかり気づけないのはやっぱり後々で悲しい。

死守せよ、だが軽やかに手放せ、と以前推しづてに学んだけれど、いやはや本当にその通りだな。とはいいつつ、人生の格言が沁みる年齢になっておんなじことしか言えなくなるのが本当に嫌だ。私の人生の何倍も繰り返し伝えられてきた言葉の歴史を否定したいわけじゃなくて、おんなじ言葉を繰り返すことで目の前の人間に寄り添えなくなっていくのが嫌だ。
伝えたいことは、伝わるように伝えなきゃ。

わたしはわたしで、あなたはあなたで。大切な人のどんな変化にも頷いていようと思う。無関心とは違うけれど、多分、「どんなあなたでも好きだよ」に勝てる二者間での許しは、いまのところ、しらない。

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