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MIU404が描いた「キャラクターの生身さ」 ーゼロ地点の先に求めるものー

(※キャラクターについての個人的な感想文です。今もまだTwitterで感想大会を眺めながら咀嚼中で、解釈や考察などという大層なものではありません。考えが偏っていたり気づきが足りなかったりすると思いますが、ふわっとした感想として読み流してください)

MIU404最終話『ゼロ』OAから、早くも一週間が経とうとしている。

バディとして今もこの街のどこかを走り続ける伊吹と志摩の姿で終わった最終回、誰もがみたかった最高のエンディングに涙し、私はこの作品に出会えたことを感謝した。文句なしのハッピーエンド、続編を作る必要のない終わり方。それでも続きをと願わずにはいられない、エンタメとしての魅力、キャラクターとしての圧倒的な力強さーーそういうことを、放映翌日に泣きながら書いた。確かに綺麗に完結したが、その上でなお、彼らの新しい物語を。願わくばシーズン2でもう一度出会いたいーー
作品が終わる悲しみに耐えきれず、自分の気持ちを落ち着けるために書き殴った文章だが、思いがけず予想以上の方に見ていただいたらしい。不慣れな文章で恥ずかしいことこの上なかったが、共感したというコメントを複数いただき、少し救われた。

あれから5日。AIポリまるくんがサービス終了し、ANNでのアフタートーク、綾野さんのインスタストーリーで蔵出し写真展が終了。制作の裏側を覗く楽しみと、着々と進む撤収の空気に、私は立ち直れないでいた。終焉を受け入れられない。悲しみで食欲を失ったまま、体重が2キロ落ちた。何をしても痩せなかったのに…人体って不思議だ。
それでも、どんなに辛くても、自分の大好きな作品が愛されているのは幸せだ。視聴率も良かった、満足度も首位タイらしい。公式本も出るし、なんと全話分がディレクターズカットになるらしい。もうすぐ最終話グッズも届くだろう。至れり尽くせりだ。
埋められない心の穴を抱えたまま、私は全11話を噛み締めた。何も手につかないから、泣いていない時はANNを聞いて、MIU404について考え続けた。そしてなんとなく、前回のロスnoteを更新しなければいけないなと思った。

このメモは、最終回を経て考えたMIU404のキャラクターについてのごく個人的な感想と、前回記事への自問ーーつまり、「本当に続編を作る必要がないのか?」という問いについての雑記である。少し長くなるが、ディレクターズカットや公式本が来る前に、もう一度主人公ふたりについて考え直しているお仲間にお付き合いいただけたら、幸いだ。

まず最初に、MIU404の見応えは、焦点を絞ったことによって生まれたのだろうということについて触れたい。
捜査ものでバディもの。作中で起こる事件は、猟奇性ではなくあくまでリアルに。そして犯罪に走ってしまった人間の事情、弱者への眼差し、正義と「間違った選択」がいかに表裏一体であるか。それを、犯罪者や被害者のみならず、刑事である主人公の二人をも通して見せるというのが、この11話のメインテーマだ。
脚本の野木先生は名前に込めた意味を紹介した上で、伊吹と志摩を「人として足りない二人」と評した。MIU404の主眼はまさにそこに一貫していた。
ひとりではふらふらと彷徨ったり、きちんと力を見いだされず暴走してしまったりする未熟な二人を、お互いの視点を借りつつバディとして描ききること。だからラスボスの久住は、悪役としてのアイデンティティを披露する必要がなかった。
いらないなら、中途半端にねじ込まない。彼の側の動機や、いかにも悪役然としたバックグラウンドを一切描かず、物語を盛り上げるためだけに不必要な属性を足すようなことは、一切しなかった。さらに「お前らの物語にはならない」と他者の人生を消費するワイドショー的な風潮に一石を投じ、「描かなかったこと自体」に意義を持たせている。私のような無知の素人目にも、鮮やかすぎる手腕だった。
悪との最終対決に際してここまでストレスなく完走できる作品は、意外と少ないのではないだろうか。志摩ほどではないが、私も海外の刑事ドラマは好きな方だ。しかし、よく出来た作品でも、考えてみたらちょっとこちらが忖度しなきゃ無理があるなあなんて展開は、わりとしょっちゅうある気がする。

MIU404は、事件の猟奇さや手法の物珍しさ、主人公らの特殊能力に頼らず、お仕事ドラマとしての誠実さもみせた。
その上で、刑事バディものという「やり尽くされた」フィールドで、主人公ふたりのキャラクターと関係性に焦点を絞るという真っ向勝負を仕掛けたのだ。余計なブレがないから、のめり込める。私は、この作品の構造的な魅力の一つに、この思い切りの良さがあると感じた。

「新しいバディものを」という正面勝負の結果は言わずもがなだ。志摩一未と伊吹藍というキャラクターは、こうして絞られた焦点の先で、テンプレートに収まりきらない、複雑な愛すべき人間として生き生きと人々を虜にしている。

では、11話を通して描かれた主人公ふたりは、一体どういう人間で、彼らはどこに行き着いたのだろうか。
最終話が社会に投げかけるメッセージについてのレビューは複数見かけ、どれも素晴らしかった。しかし、キャラクター自体に対する考察はツイッター上のファンコミュニティで加熱するばかりだ。そこで、未熟で偏りのある視点だとは思うが、ここからは私の個人的な感想でふたりを見つめたいと思う。

志摩一未から考えてみる。

まず、最終回を経て志摩一未に抱いた感想は、「良い奴」になりたいんだろうなあということだ。8話で伊吹の部屋を訪れた志摩が呟いた「お前、良い奴だなあ」という言葉。あのしみじみとした調子には、純粋な憧れが滲んでいたように感じる。

志摩について印象に残っているのは、11話、ドラッグでみた悪夢の中で久住に銃を向けながら言った台詞だ。

“俺は他人のことなんてどうだって良いんだよ“
“心配するふりして、善人のふりして人間らしく見えるように振る舞っているだけ“

このシーンが誰の夢であるかについての解釈は人によるようだが、私は志摩のバッドトリップと受け取って視聴した。メフィストフェレスことメケメケフェレット久住は、二人のみる悪夢の中で、彼らの最も恐れているシナリオを展開するキーだ。この夢における久住は現実の久住ではない、実際の彼は邪魔者を排除しようと海に息することしか考えておらず、志摩や伊吹に対する揺さぶりとそれに対する問答、その末に彼らの出した答えは「生死の分かれ目に際して顕になる本性」、すなわち自己への懐疑だろう。その中で志摩が、自らを「人間らしく振る舞っているだけ、善人のふり」と評したことが、初見時の衝撃だった。ヤクでふらふらになる演技への衝撃ももちろんあったのだが。

志摩が他人のことをどうでも良いと思っているはずがない。
彼にはきちんと警察官としての正義と倫理観があり、8話で憔悴した伊吹には「相棒」と呼びかけ手を差し伸べている。9話では終始、不安定な伊吹の心情を慮り「間に合う」という言葉をおまじないのようにかけ続けている。助かったはむちゃんと伊吹を抱き寄せて泣いた彼が、「他人のことなんてどうでも良い、人間らしく見えるように振る舞っているだけ」なはずがないのだ。
では、彼にそのような自己評価を下させた理由はなんだったのだろうか。

私はそれを、志摩が「感情に共感しない」タイプの人間だと自覚しているからではないかと考えた。

志摩は理屈の人間だ。物事を俯瞰的にみる。他者の感情のみならず、自分の情動ですら、論理的に処理しようとする節があった。それは彼の優秀さを支える良さでもあるが、感情そのものに寄り添って共感していればと強く願ったことが、志摩の人生にはあったのだろう。ーーたとえば、あの夜の香坂の気持ちを想像して、彼の誘いに乗っていたら、とか。そういう視点で考えたときに、志摩は自分を「他人のことなんかどうでも良いと思っているやつ」と評したのではないだろうか。
香坂の一件を経て彼は、そういう自分を信用しないことにした。その後伊吹と出会って、彼の距離感に巻き込まれ、6話ではトラウマに踏み込まれた。それ以降、志摩は確かに、少し変わった。10話の最後、目黒の交差点で相棒の判断を良しとしたのが最もわかりやすい例だろう。志摩は、あそこで病院を選ぶ伊吹のようになりたかったのかもしれない。「伊吹みたいな奴がお前の相棒だったら」と死んだ香坂に零したのは、そういうことではないだろうか。

しかし、人は簡単に救われないし、コロリとも変わらない。事態が悪化し追い詰められた志摩は、警察官として正しく強くありがながら、「俺たちが持っていない何か」を持つ伊吹のような信念で動くことは、不可能だと感じた。疲れてしまった。そして結局、独善的な判断で伊吹を遠ざけ、「信じなきゃ良かった」という言葉を盗聴される。結果として伊吹はひとりで海へ向かい、志摩はまた間違ってしまったのた。悪夢の中の久住に、連携取れてないやんと笑われていることから、彼がそれを悔いていることがわかる。電話を切られた志摩は、伊吹を傷つけたことにーーそしてそれがまた間違いへのスイッチであったことに気づいて、後悔したのだろうか。横たわって呼吸を塞がれる伊吹をみて、何を思ったのだろう。

志摩は伊吹のような人間にはなれない。それは志摩が一番よくわかっている。だから、「ああいう刑事が一人くらいいてもいい」「たくさんの人を助ける」と勝手に希望を託して、遠ざけようとした。他者の感情に肉薄して共感し、それをベースに怒ったり動いたりできる人こそ人間らしいとするなら、なるほど志摩は、他人のことなんてどうだって良い、心配するふりして善人のふりして人間らしく見えるように振る舞っているだけ、と自分を責めることができる。

そう考えると、悪夢の中で放った「銃声を聞けば伊吹は目を覚ます、そしてお前を許さない」というセリフは、もしかしたら彼の願望なのかもしれないと思った。誰かを信じて、可能性に賭けられる人間。私は伊吹のいう志摩の「死にたがり」についていろいろ考えを巡らせてきたが(そして今もあれこれ考えている最中だが)、自らの命を賭けられる自棄さは、もしかしたら歪んだ形で表出したヒロイックへの憧れなのかもしれない(この点については正直曖昧だし、他にも様々な理由があるだろう。ディレクターズカット版や公式本を手掛かりに考え続けたい)。

話がだいぶ込み入ってきたので一度切り上げるが、これがざっと、最終話の時点で志摩が抱えていた問題だ。と思う。たぶん。

MIU404の凄いところは、この性質こそが、志摩の有能さと表裏一体になっている点である。感情自体に共感しないからこそ見える選択肢だってたくさん存在するあるし、相手を俯瞰的に分析する癖のおかげで、「感覚は鋭いが論理的思考への落とし込みと他者を動かすだけの言語化が苦手」という伊吹の性質を説明できた。志摩自身も、自らの能力については正当に評価し自信を持っている。「俺としたことが」という一言からも、彼が案外有能感の高いタイプであることが読み取れるだろう。その上で、マウントを取らないようにと他者軽視傾向を自ら牽制している。たとえば彼を伊吹との対比で「ドライで冷静な」とか、「優秀だが過去にトラウマを抱えていて実は暗い男」だとか、そんなふうに論じることはできない。そもそもこの男、よく考えてみればそこそこ短気だし、負けず嫌いも強く、減らず口も多い。
簡単に消費できる形でラベリングできない奥の深さが、志摩一未というキャラクターにリアルな複雑さを与え、魅力となっているのだ。

この物語で視聴者がいちばん最初にリンクするのは志摩だ。「どうやらやばい奴らしい伊吹藍」に、一見信頼のおける志摩一未の視点を通して出会う。ところがどっこい、パイロット的役割を果たす1話以降、物語の前半で掘り進められるのは志摩の歪さだ。6話リフレインで過去が開示されるときには、視聴者は伊吹と一緒に志摩に踏み込んだ。楽しかった7話を経て物語がクライマックスへ加速する中、志摩の抱える問題が404の命運を分ける重要なキーとなる。偶然と選択の連鎖によって最悪のシナリオから生還した志摩は、自分から謝れる人間だった。
志摩は伊吹のような人間にはなれない。だからこそ、伊吹という相棒と一緒にいれば、また間違ってもちゃんと走っていける。MIU404の爽快なエンディングで、1未満の一未、正負の境を彷徨っていた志摩は、ゼロという場所に戻ってきちんと地に足を付けられた。1には満たないが、マイナスではない。ここから走っていける。私はそういう風に受け取ってみた。よかったね、志摩。


では、伊吹藍はどうだろう。

伊吹の危うさは、「他者に共感し寄り添う彼の正義が、どうしようもない理不尽と無力さに直面して、ガマさんと同じ選択に陥らないか」というものだった。11話では、警察のルールや倫理から逸脱して一人で暴走した香坂と同じ過ちを辿る志摩と対になるように、伊吹も、折れた指針である自らの恩人と同じ選択を突きつけられる。すなわち、「同情も共感もできない悪に大切な人を奪われてなお、刑事でい続けられるか」というものだ。伊吹はこの悪夢に至って初めて、妻を殺した犯人を許せなかったーー刑事である自分を捨ててでも殺さざるを得なかったガマさんの気持ちを体験したのだろう。
現実世界では志摩は殺されておらず、ふたり揃って海の藻屑となる前に脱出できた。
伊吹があの選択をしなかったのは、たまたま、現実がバッドトリップのシナリオのように展開しなかったからだ。ガマさんには、最悪のシナリオが降ってしまった。伊吹は、偶然と選択の積み重ねで同じ道を辿らずにすんだ。違いは、たったこれだけ。ーーこのドラマは、恐ろしいほど徹底的に、「犯罪者も捜査官も同じ人間だ」という事実を守っている。……あのシーンが夢で本当に良かった。
伊吹の「相棒」という呟きは、初めて聞いた瞬間から耳にこびりついて、ふとしたときに襲いかかってくる。放送翌日は職場で突然泣き出したくらいだ。私は一生、綾野剛のあの演技に揺さぶられていくのだろうなと思うと恐ろしい…
閑話休題。

さて、現実世界では伊吹は人を殺さなかった。志摩が生きているとわかってからは、いつもの彼を取り戻し、ふたりは久住に「許さない、ここで生きて苦しめ」という答えを出し、刑事を続け、いつも通りの掛け合いでハッピーエンド。風呂敷は全て畳まれ、続編に持ち越さない堂々の完結。


……本当にそうだろうか?


私は、11話で盗聴器越しに志摩の言葉を聞く伊吹が忘れられない。
「信じなきゃ良かった」という言葉が、彼にとってどれほどの意味を持つのか。
ガマさんは、己の信念に基づいて伊吹に接し、彼を信じると言った。信じてくれた初めての人、というのは、何も自分の無実だけの話ではないのだろう。自分の性根の良さを信じ、可能性を信じてくれた人。根拠がなくとも、彼の未来を信じてくれた人。
ガマさんという指針を失った彼の手を取ったのは、志摩だった。彼は伊吹の勘や判断を彼なりの理由によって尊重し、相棒と呼んで一緒に走ってくれた。ガマさんという理想を失い不安定だった彼に、間に合う、間に合わせるぞとまじないをかけて掬い上げてくれた志摩がしかし、よりにもよって「信じなきゃ良かった」と言った。
伊吹はその言葉を聞いたとき、笑っていた。自分のために怒らないし泣かない、悔しそうにもしない。伊吹を遠ざけて単独で動いているという話からこの「信じなきゃ良かった」に至る会話の間中、伊吹の表情は諦めに見えた。イヤホンを外す彼の笑みは、やっぱり、と言っているようだ。
11話冒頭、ガマさんの面会に行くシーンの生々しさが忘れられない。
番号を呼ばれた伊吹は心なしか緊張した面持ちで受け付けに行く。その姿は警察官の伊吹ではなく、恩人に会いにきた一人の青年、傷ついたただの人間だ。何度目かの拒絶を受けて薄く笑い、突き返された差し入れを九重に押し付ける。

ガマさんの一件は、最終話に至るストーリーの中で、「どんなに立派で慈愛に満ちいていた刑事でも、シナリオによってはその矜持を捨てて悪に落ちてしまう」というテーマを担い、一人で走った伊吹は悪夢のルートで同じ選択をしてしまう。1人前じゃないふたり、1未満と虚数、彼らはバディとして揃わなければいけない。正義と間違いのどちら側にでも落ちてしまえる「人間」だからこそ、補い合って相棒として生きていく。バディもののエンタメとしては実に爽快なアンサー。ドラマはその点についてきちんと回収し、わかりやすく明示して終わったと思う。だけど、この出来事が持つ意味は、それだけじゃない。
伊吹の生い立ちを考えれば、ガマさんの一件は物語として大事なパーツでもあると同時に、伊吹にとっての癒えない傷であることがわかるはずだ。そしてこの生傷は、あまりにも大きすぎる。
信じた指針を失い、その人にとって自分はなんの影響も及ぼし得なかったと突きつけられる。嘘をつかれ、苦しみの中で間違っていく過程で自分には何も打ち明けられてない。もしガマさんが伊吹に相談していれば、彼はいくらでも心を動かしなんとかしようと奔走しただろう。彼の力は全く信じられてない。求められてない、また。その伊吹を「相棒」と呼んで繋ぎ止め、抱いて泣きあった志摩にも「信じなきゃよかった」と言われる。その瞬間にやっぱりなと笑うしかなかった伊吹は、どう考えても寂しい人間だ。こちらの胸が破れそうになる。志摩に要らないと言われて悔しくとも、その判断が間違っていると怒ったり、食い下がって向き合わせたりするという選択肢はなかった。

バッドトリップ時の彼の悪夢は、「刑事にぶら下がるしかない、それを取り上げられたら何もない」「クズのままだ」という内容だった。
志摩は自分の善性や気質に疑いを抱いていたが、伊吹が信じられなかったのは自分の能力、ガマさんしか信じてくれず相棒にも不要と言われた「刑事としての素質」、すなわち自分自身の価値、といえるだろう。
彼にとって「真っ直ぐな道に戻った自分」というのは、そのまま、誰かを助けることができる刑事である自分なのだろう。志摩が香坂に思ったような「刑事でなくとも、生きていいれば」というのは、伊吹には多分当てはまらない。
作中、マイルドヤンキー的なオラオラ感でカモフラージュされていたが、伊吹藍の本質は穏やかで、他者の幸せを心から願う人間だ。人の幸せを願い、それを少しでも掬い上げられる仕事だからこそ、「機捜っていいな」というセリフは生まれた。金持ちの気まぐれでもなく、本気でタイガーマスク現象に乗っかってしまう男。それが、伊吹藍の本質ではないだろうか。
彼は、刑事という職業を与えられることでようやく、自己を肯定しているのかもしれない。

ここまで考えてふと、伊吹の「俺のこと信じていーよ」を思い出した。誰も信じてくれないなら俺も信じない、そう思っていた時期があった、と伊吹は言った。信じてもらえない絶望の裏に、人を信じられないことの寂しさも知っていたのだ。
「俺のこと信じていーよ」…これは、すごい言葉だ。「絶対に裏切らない」なんて、ふつう人は約束してくれない。信じることは自己責任だ。伊吹の選択に乗っかった志摩が、伊吹ではなく、信じると決めた自分を責めるように。誰かを信じるリスクは自分で背負わなきゃいけない。それなのに、信じていーよ。これは、信じて欲しいという言葉の裏返しなのだろうか。

伊吹の言動には、自分が信頼されていないという前提がちらついて見えた。馬鹿って言いたいの、とか、信用ねえな〜、とか。しかしそんな伊吹も、志摩との呼吸があっていくにつれ、彼に期待したのだろう。8〜10話を経て、志摩が相棒として自分を信じてくれるのではないか、と。

伊吹は「良いヤツ」だ。8話の志摩の呟きでも、演じた綾野剛さんのコメントでも、彼は常に「良いヤツ」なのだ。太陽と評されていた。人の可能性を信じてあげる、共感性の高い人間だ。腐らず恨まず、弱者に寄り添う眼差しと人を大切にする温度がある。ただどう考えても、自分を「人から信頼されるに足る人間」だとは思えていない。人から求められ、お前が必要なんだと言われ慣れていない。
8話で部屋を訪ねてきた志摩に距離を踏み超えられてきたときの、あの居心地の悪そうな態度を思い出して欲しい。あれはもちろん、ガマさんのことで嫌な予感がしていたという理由もあるだろうが、それだけではない気がする。彼は根本的に「踏み込まれ慣れていない」のだ。

最終回で相棒継続エンドを迎えた404だが、伊吹が笑って元鞘に収まったのは、ひとえに彼が「良いヤツ」だからだ。志摩は船から脱出した後に謝罪していたが、あれで全てが解決しただろうか?彼の判断ミスによって最悪のシナリオに近づいたこと、一人で暴走したこと、それが間違いだったこと。それについての謝罪は確かに必要だ。2話で自分から謝れなかった志摩が、自らのテーマを乗り越えてきちんと地に足をつけて相棒と走り切ったこと。MIU404は志摩の物語だった。そう考えれば、確かにきちんと幕を閉じたといえる。
だけどたとえば志摩がまたふらついて、伊吹を遠ざけたら?そのとき伊吹は、最終回の盗聴シーンと違う反応を返せるのだろうか?私にはその確証が得られない。なぜなら、最終回で「信用されてなかった自分」に諦めて笑った彼に対して、外部からきちんとそうじゃないよというフォローがされていないからだ。もちろん、これからバディとして一緒に走っていく中でまた、信頼関係を築いていくのだろう。最終回のクライマックスだって、ちゃんと連携が取れていた。ふたりの間にはちゃんと絆がある。でもそれは単に、伊吹が「良い奴」で、腐らず恨まず、少年漫画の主人公のように強かったからできることだ。彼自身が崩れたら、そこにストッパーはない。彼の問題は手付かずのままなのだ。

最終回を見て、伊吹がガマさんの面会に行き続けてることを描いてくれてよかった思った。その上で、簡単に救ってくれなかったのは作り手の誠実さだとも感じた。
伊吹は自分を救ってくれたガマさんを見捨てられない。でも当然、ガマさんはそれに応じない。ここで、物語を綺麗に終わらせるために「ガマさんが伊吹の熱意に簡単に応える」なんて展開があったら、それこそガマさんというキャラが消費されてしまう。もっと言えば、そんな安直な展開で伊吹は救われないし、見る側としても、そんなふうに雑に救って欲しくはない。
だから、ガマさんの一件を生傷のまま描いてフォローしなかったことは、作り手の誠実さだと思う。

かと言って、何度も面会を拒絶されてその度にちょっと笑うしかない伊吹は、間違いなくダメだ。彼は、収監されたガマさんに代わって休みの日に一人で麗子さんの墓を掃除し続けているのだろうか。その姿を思うと、胸が潰れそうだ。

伊吹が笑ってエンディングを迎えられたのは、自分を俯瞰的に見る能力のなさ故かもしれない。そのせいで彼は他者に自分を信じさせたり、理解してもらうように立ち振る舞うと言った器用さをもてないでいる。しかしその代わりに、誰かと比較して自分を憐むとか、そういうこと視点も持ち合わせていない。それが伊吹というキャラの根底にある。自分のエゴや幸せのために他者に何かを求めない純粋さは、まさに太陽だ。しかし、一枚皮をめくればそこには、彼自身の強さだけを杖にして走り続けなくてはいけないという生傷が、なんの手当もないままに眠っている。
確かに彼は、今回幕を下ろした一連の物語において、太陽のポジションを担っていた。しかし実際には一人の人間だ。それが心にずっと引っかかっている。

伊吹は志摩に信頼されてるということを信じているだろうか?次また志摩がフラついて伊吹を遠ざけた時、ちゃんと怒って叱り飛ばせるだろうか?また笑って受け入れるんじゃないだろうか。そうじゃないと言い切る材料は最終回になかった。
そう思うと、私は胃が痛くてメロンパンも食べられない。今度は志摩が、きちんと言葉で踏み込むべきではないだろうか。


長く書いたが、これが、MIU404に残された伊吹の傷についての感情的なメモだ。

ひとつ言っておくと、私は、伊吹藍というキャラの根幹に関わるこの問題を、無理やりに詰め込んで安易に救ってほしかったとは全く思わない。伊吹に対する「信じなきゃ良かった」は志摩の物語のクライマックスとして必要不可欠な谷だった。その上で、「誰しもが正義と間違いの間で揺れている」というテーマに対して、人として足りないふたり同士がバディとして一緒に走ることで、間違ってもやり直せるーー走ることができる、という答えは、間違いなく最高のエンディングだ。正義というテーマをきちんと回収し、結末を続編に持ち込まない、堂々の完結だ。前の記事で書いたこれを、撤回して難癖つける気は毛頭ない。

しかし、「続編を作る必要がないくらい」という言葉については、考えが変わった。
作らなくても良いかもしれない。でも、作る必要がない、とも思えない。これが私の今の気持ちだ。

人は簡単に救えないし、コロリと変わったりもしない。伊吹という太陽が浮き沈むことはあっても、その本質は変わらなかった、というコメントは、あまりに的確だ。伊吹を傷つける展開は、物語の後半、志摩の「リフレイン」ののちに提示されるべきものであり、そうすれば11話という制限の中でやっつけのように描かない限りは、取り扱うことができない。
このnoteの冒頭にも書いたが、「思い切って焦点を絞ったこと」が、MIU404の魅力を陰で支えている。きちんと取り扱えないのならば、扱わない。伊吹という太陽の皮を雑にめくって、エンタメ的に傷を露出させて適当に「治ったこと」にするよりは、どんなハッピーエンドの主人公だって人間らしいアンバランスさを背負っているんだよ、と残された方が、はるかに良い。
そもそも、私がつらつらとここに書き連ねたような内容を、制作陣が検討していないはずがない。だから、その上で、この歪さも含めて伊吹藍という人間だと言われれば、そうなのかと頷くことしかできない。簡単に誰もがパーフェクトになって終わるわけではないとすること、つまり「久住のディテール描かなかったこと自体に意義を持たせた」ように、ここにも意味があるなら、視聴者は黙ってそれを飲み込むしかない。ただ描かなかっただけだから、問題はないのだ。今日も何処かで密行してるふたりが、この問題に突き当たって、また愛し合うように喧嘩してるかもしれない。その可能性を潰してない限り、確かにきちんと完結していると言って良いのだ。

だから、ここから先に書くことは多分な憶測と、視聴者のわがままだ。

…公式は、本当にそこを描かないことが最善だと思っているのだろうか。
そうでなくともコロナのせいで話数が減り、脚本を圧縮するのに苦労したと聞いた。11話あるだけで御の字、きちんと物語を完成させてくださった制作陣には拍手しかないがしかし、彼らには本当に一ミリの未練もないのだろうか?削れたのは、幻の日常回だけではないかもしれない。
1話で描かれた伊吹は、その後の展開と照らし合わせて振れ幅が大きすぎるように感じる。煽り運転から傷害罪を犯した犯人に対して見せた嗜虐性。背中に銃を突きつけてるフリして震え上がらせるシーン。あの犯人には同情すべき点がなかったために、伊吹の信念の対象外になったのかもしれないが、それにしたって違和感が残る。カッとなって殴った、とは違うーー相手を恐怖させるために意図的にやっていることだ。自分のしたことをわからせる、みたいな説教じみた理由で、こういう嗜虐性を発揮する人だったろうか。その後の物語を見るに、普段の伊吹なら、真っ直ぐ「ダメなんだよ」とか言いそうだけど…と疑問が残る。これは完全なる邪推だが、これは、14話編成だったMIU404で描かれるはずだった伊吹の振り幅の名残なのではないだろうか。

話数が減り、放送時期が変わったことで、物語は少なからず変容しただろう。
私は、もともとの14話編成で描かれる予定だった伊吹が本物だなどとは思っていない。脚本をもとに演者がキャラクターを理解し、その役を生きて、さらにそれを受けて続きの話が描かれる。監督の編集によって彼らが仕上げられる。だから、「こうあるべきはずだったキャラクター」なんてものはない。ifのひとつでしかないのに、それと比較して「足りない」などと言うつもりは毛頭ないのだ。

ただ、それでもこの可能性に言及してしまうのは、冒頭の疑問ーー「続編を作る必要がない」のだろうかという問いが浮上するからだ。
伊吹藍に踏み込む物語、コロナで混沌に叩き落とされ、嫌でも変質を余儀なくされた苦しい時代に生きる人々と、ゼロ地点に至った彼らがどう走っていくのか。描かなくても良いかもしれない。でも、描く必要がない、とも思えない。

私は前回のnoteを書いたとき、「こんなに綺麗に終わったのだから、作り手としては満足で、もう閉じた作品という認識なのかもしれない」「to be continuedできる状態で、あとは彼らがどこまでも走っていく様をファンの心の中に残して、これであっぱれなのかもしれない」と思った上で、それでも「こんなに生き生きとキャラクターを生み出したのだから、彼らに新しいステージを用意してまた走って欲しい」と願った。だから悲痛な祈りと書いた。
しかし、数日を経てその心境には多少の変化がある。

野木先生をはじめとする製作陣からは、作品やキャラクターへのなみなみならぬ愛と熱量を感じる。その人たちが、伊吹藍の無自覚な寂しさを残して、ゼロに降り立った志摩のその先を描かずして、なんの未練もないのだろうか。
この答えは、私には全く、想像もできない。できないが、そうでないといいなと願ってしまう。伊吹藍に踏み込んで欲しいと思うのは、キャラクターを愛する故のファンのエゴだろうか。私はどうしても、彼を作り出した人々に、同じような気持ちで伊吹を思っていて欲しいと思ってしまう。「少年漫画みたいな良いヤツ」である彼の心を案じてやまない。
彼の傷に踏み込む物語は、私たちがいかに11話を反芻しても、妄想しても、祈っても、作れない。今もどこかで密行する404を思うことはできるが、触れられていないままの傷について、視聴者が踏み込むことはできないのだ。脚本とキャストが一体になって初めて、キャラクターは生まれる。だから、他者にとって自分がかけがえのない存在であることを自覚していない伊吹に、まだまだゼロ地点に立ったばかりの志摩が、ごめんなさいだけでなくありがとうと言えるようになる日は当然、ドラマが描いてくれなければどこにもない。伊吹に「助けて」を言わせなかったMIU404はどこまでも誠実だったが、彼の抱える傷をただのひとつの要素として流すには、あまりにも綾野さんの演技が秀逸すぎた。あの表情と声を聞いて終えば、どうか踏み込んでくれと願わずにはいられない。

どうしても続編をやって欲しいオタクとしては、最終回直前のsugarで続編の可能性について「続編が可能な終わり方かわからないからまずは最終回をみてほしい、その後考えます」とおっしゃっていたプロデューサーの言葉、「シーズン2があったらいいな」「ポリも期待しています」というポリまるくんの言葉、そして伊吹を演じた綾野さんのコメントを思い出して、どうしても期待してしまう。(以下引用)

今後の展望は、まずはやっぱりこの『MIU404』を最後まで完走するってこと。完走したあとに、『まだ見ていたい』と思ってもらえたら。スペシャルドラマなのか、映画なのか、どんな形にせよ、このチームでもう1度みなさんにサプライズを届けられたら最高です。(NIKKEI STYLEより)

作り手側がもうやり切った、閉じたと思っている作品について、執拗に続きを強請るつもりはない。しかし、本当にそう思っているのだろうか、というのが最近の疑問だ。こんなことを考えても答えは出ない。ただただ苦しいだけだ。邪推もいい加減にしろと怒鳴られるかもしれない。自分でも無意味な行為だと思う。
だけど、やりたいことは色々あったという野木先生のコメントを思い出すたびに、ああもっと見たかったと思ってしまう。志摩のコンクリート打ちっぱなしマンション回だってやって欲しかった。

続編を待って良いのだろうか。私は欲望がバイアスになって、正常に思考できていないのだろう。少しでも希望をくれればいつまでも待つのに、それも叶わない。ドラマになんてハマるんじゃなかった、こんなに苦しいと思わなかった。それでも、この作品に出会えたことは人生の宝だと思ってしまう。

あのエンディングの先で伊吹藍がどんなふうに泣いて笑うのか、そして隣にいる志摩が今度こそ彼に踏み込んで、彼の思う「良い奴」の真似から始めてみるのか。はたまた、そうではないのかーー今の私は、そういう、考えてもどうしようもないことばかり考えてしまう。そしてMIU404のない金曜日が近づく悲しみに、あの一体感と疾走が1秒毎に遠ざかっていく寂しさに、今も沈み切っている。かなしい、また会いたい。食欲はないまま、メロンパン一個を2日かけて無理やり腹に入れて、どうしようもない気持ちで床を見つめている。

いつか彼らに、ゼロ地点のその先で、新しい物語がありますように。
せめてそう願うことくらいは許さるのではないかと思っている。


感情的で長い上に要領を得ない文章になってしまったが、ここまで付き合ってくださった方がもしいたら、本当にありがとうございます。あくまで全て個人的なメモであり、そして今も鼻をすすりながら考え続けている内容だということを再度明記して、この感想文を閉じたいと思う。

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