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【前編】なぜ「正しさ」が重視される社会になったのか?(文字起こし)

この記事は、「ベーシックインカムちゃんねる」の「なぜ「正しさ」が重視される社会になったのか?」の文字起こしになります。

記事の最後に「要約(まとめ)」を載せています。

元動画の時間が長く、一記事にまとめるとページが重くなってしまうので、【前編】後編に分けています。




導入

「正しさ」という言葉に、もはや良いイメージを抱いている人は少ないかもしれません。

今では、自分たちを「正しさ」の側に位置づけることにためらいのない人間であるほど「正しさ」を振り回すような社会になっている感じもあります。

この動画では、今の社会において「正しさ」がどのように作用しているのかを言語化しようとします。

当チャンネルでは、「正しさ」という言葉・概念を、やや独特な形で位置づけているのですが、ただそれは、今の多くの人が「リベラル」や「ポリコレ」と認識しているものとそれほどズレてはいないと考えているし、最後まで説明を聞けば納得してもらえると思います。

「正しさ」について、すでに議論の積み重ねがあります。

「近代的なものの考え方・近代思想」においては、人種や出自や階層などを問わない、すべての人が納得できる普遍的な「正しさ」が追求されてきた側面があります。

例えば、「カント」の「定言命法」などは、そういう「普遍性の追求」の極端な例と言えるかもしれません。

このような「あらゆる人間に当てはまる普遍的な正しさの追求」について、ここではそれを、「正しさ」であると位置づけます。

一方、「個別の事情に配慮する」ことも「正しさ」であると考えられることが多いです。

例えば、「ロールズ」の「無知のヴェール」という有名な思考実験があります。

まず、「自分自身がどんな人種や出自や階層か、どんな人間かがまったくわからない」といった状態を仮定します。

そうやって自分自身の立場を考慮できない「ヴェールを被せられた状態」であるとした上で、もし自分が最も不利な立場の人間になったとしても納得できるような社会を目指していくべき……みたいな考え方で、このような多様な人々の事情や弱者性に配慮していこうとするタイプの「正しさ」の追求もあります。

ここではそれも、「正しさ」であると位置づけます。

「あらゆる人間に当てはまる普遍性の追求」と「各々が置かれている個別の事情への配慮」といった、「最大」と「最小」の両極端を、ここでは「正しさ」に位置づけるということです。

その上で、そういった「普遍性(最大)」と「個人(最小)」との間にある「中間的なもの・中途半端なもの」を、「正しくない」と位置づけます。

つまり、普遍的でもなく個人を尊重するわけでもない、「特定の集団に利するローカルな正しさ」を、ここでは「正しさ」に反するものと見なすということです。

ただ、このような「中間(ローカル)」を、単に「正しくないから良くない」と考えるのではなく、「正しさ」に反する一方で、「豊かさ」を実現するものと考えます。

あくまでこの動画での見方ですが、ここでは、「普遍的なもの(グローバルなもの)」という「最大」と、「個人」という「最小」を「正しさ」と位置づけ、その中間である「ローカル」を「豊かさ」と位置づけて、「豊かさと正しさが相反する」と考えます。

過去動画などを見たことのある人は知っているかもしれませんが、このチャンネルでは、「豊かさと正しさが相反する」という見方で多くの物事を説明しようとしています。

これについては、べーシックインカムを実現する方法というテキストのサイトも公開していて、そこに詳しく書いてあります。サイトへのリンクを概要欄に貼っておきます。

今回の「正しさ」に関する話は、過去動画と被る内容も多いかもしれませんが、これから、学術研究、専門性、ポリコレ、社会革命、男女対立などをテーマにした動画を作っていく上で、前提として参照する用のものをこの動画にしようと思うので、改めて「豊かさと正しさ」について説明したいと思います。


「集団のため(豊かさ)」と「個人のため(正しさ)」

このチャンネルでは、「集団」を重視するのが「豊かさ」、「個人」を重視するのが「正しさ」で、両者が「相反する」という枠組みを提示しようとしています。

まず、「集団のため」と「個人のため」が、必ずしも一致しないことに着目します。

人に与えられているリソースは有限であり、それを「他人を有利にするため(集団のため)」に使うか、「自分が有利になるため(個人のため)」に使うかはトレードオフです。

極端に対比するなら、持っている時間や労力のすべてを、エッセンシャルワークやボランティアなどに使った人と、受験勉強や資格試験やキャリアアップなどのために使った人がいたとして、どちらが今の社会で有利なポジションに立ちやすいかというと後者です。

「集団のため(豊かさ)」を重視する作用は、他人を有利にするため(集団全体に寄与するため)にリソースを使うことを個人に強制するような性質があり、ゆえに「正しさ」に反する、「豊かになるが、正しくない」ものと考えます。

一方で、「個人のため(正しさ)」を重視する作用は、個人が競争に勝とうとする(自己利益を追求する)自由を認めようとするのですが、そうすると「集団のため」にリソースが使われなくなるので、ゆえに「豊かさ」に反する、「正しいが、豊かにならない」ものと考えます。

世の中には「誰かのためは自分のため」みたいな規範がありますが、ここではそのような「規範・モラル」を、「集団のため(豊かさ)」を重視する作用であると位置づけています。

対して、「個人のため(正しさ)」を重視する作用として働くものは、「市場」です。

これについては後々詳しく説明していきますが、実は「市場のルール」は、「個人のため(正しさ)」を評価する一方で、「集団のため(豊かさ)」をマイナスに評価します。

「市場」が「集団のため」を評価しない顕著な例は、「出産や育児」です。

「出生(人口の再生産)」は、「集団のため」の最たるものであるとここでは考えていますが、「市場のルール」は「出生」を実質的に大きくマイナス評価します。

子供を産み育てるために必要になる金や時間を、市場からサービスを購入したり、市場で貨幣を稼ぐために使ったほうが、ずっと余裕のある暮らしができるからです。

ゆえに、「貨幣・市場経済」が浸透した社会では出生率が低下していきます。

さらに言えば、「個人」が重視される社会になっていくほど、成長した子供が親の面倒を見るべきという価値観も当たり前ではなくなっていき、子供を産み育てることのメリットが失われていきます。

「出生」のような試みは、家族や地域や国家といった「ローカル」がそれを認めて支援しなければ難しいのですが、ただそれは、「子供を産み育てなければ一人前ではない」などの加害的な規範を伴いやすく、また、子育て支援などのための政府支出の増加は、市場による貨幣的な秩序の正当性を権力によって歪めることになり、そのような諸々の理由から、「人口の再生産」を重視する「集団のため(豊かさ)」と、「市場のルール」を重視する「個人のため(正しさ)」は相反する、という見方をここではしています。


「ローカル」が「豊かさ」、「グローバル・個人」が「正しさ」

先に、「普遍的(グローバル)」という「最大」と、「個人」という「最小」を「正しさ」に位置づけ、その「中間」である「ローカル」を「豊かさ」に位置づける図式を出しました。

なぜ「ローカル」が「豊かさ」なのかというと、「集団のため」が重視されやすくなるのは「ローカル」が意識された状態だからです。

まず、「集団の大きさ」が「最小」である場合、これはつまり「個人」という状態であり、当然ながら「個人」が重視されると考えます。

次に、「集団の大きさ」が「非常に大きい(グローバルである)」場合、実はこのような状態でも「個人」が重視されやすくなります。

なぜなら、大きな集団であるほど、「集団のため」と「個人のため」が遠くなり、「集団全体の利益になること」よりも「自分自身の利益になること」を追求したほうが、個人にとっては合理的になりやすいからです。

対して、「集団の大きさ」が中程度だったり小さかったりする「ローカル」な場合は、「集団のため」と「個人のため」が近くなり、集団全体の利益が自分の利益にもなりやすいので、「集団のため」が重視されやすくなります。

ゆえにここでは、「中間(ローカル)」を「豊かさ」に位置づけています。

例えば、それを行うことで、「集団」に不利益がある代わりに「自分」だけは利益を得られるような何らかの行動があるとします。

このような行動は、「大きな集団(グローバルな状態)」であるほど行われやすくなります。

「集団がマイナス1000点されるが、自分がプラス1点される」といった行いがあったとして、単純に考えて、集団が1000人より少ない「小さな集団(ローカル)」であればそれをやると損で、集団が1000人より多い「大きな集団(グローバル)」であればそれをやったほうが得です。

「集団(社会)」は、「個人」の生活や安心の土台ではありますが、その集団が大きくなるほど、全体の衰退によって個人が被る不利益の割合は小さくなるので、自己利益を追求するのが合理的になります。

一方、集団が小さいほど、全体が衰退したときに個人が受ける影響も大きくなります。

特に、外敵がいて「集団」が弱くなれば滅ぼされる(自分の生命が脅かされる)といった状況では、「集団のため」を強く重視せざるをえなくなります。

「ローカル」は「敵」がいるほど機能しやすいということです。

また、自分のことだけを考えるような利己的なふるまいは、「小さな集団(ローカル)」であり世間の目が光っている場合は難しく、「大きな集団(グローバル)」であり他人との縁が希薄な場合ほどやりやすくなります。

「個人のため」を否定し「集団のため」を重視させる規範やモラルは、「集団が小さいか中程度のローカル」である場合に強まりやすく、「集団が大きいグローバル」である場合に弱まりやすいです。

このようにして、集団が極端に小さい(個人)である場合と、集団と個人とが遠い状態(グローバル)である場合に「個人のため(正しさ)」が重視され、集団と個人が近い状態(ローカル)である場合に「集団のため(豊かさ)」が重視されると考えます。

これが、先に出した、「グローバル・個人」が「正しさ」、その「中間(ローカル)」が「豊かさ」、という図式です。

あくまで抽象化した図式になりますが、まずはこのようなイメージを提示した上で、では具体的に、例えば「近代国家」といった事例は何だったのかということを考えます。

「近代国家」というのは、国民国家という「大きな集団」であるにも関わらず、「集団のため」を重視させる強力なイデオロギー(ナショナリズム)が機能していたし、またそうしなければならない外敵の脅威(世界大戦という状況)によってそれが起こっていたものと考えることができます。

しかしそのような近代国家においても、世界大戦後には「グローバル」の影響力が強まることで「ローカル」が弱まっていき、「個人のため(正しさ)」が重視されるようになっていきます。


学習することが現代の武器?

「個人・ローカル・グローバル」の図式によって言いたかったのは、「個人」という「最小」から「グローバル」という「最大」へ向かう途中に「ローカル」という「豊かさ」があることです。

このような図式において、例えば、近代的・合理的な思考が目指してきたような「あらゆる人間に共通する普遍性(グローバル)の追求」は、途中までは「豊かさ」として働きうるのですが、「グローバル」という「最大」まで行き着くと「正しさ」として働きます。

今も、「学習することが現代の武器」だと考えられていると思います。

しかし近年の先進国で起こっているのは、過去よりも教育機会が充実してメリトクラシーが強まり、多くの人がより必死に勉強するようになっているのに、むしろ少子化によって社会を維持することが難しくなっている(集団が弱くなっている)……といった現象です。

どうしてこのようなことが起こるのかというと、近代化が「中途半端(ローカル)」である場合にはまだ「豊かさ」が重視されるのですが、それが「ローカル」を突破して「グローバル(正しさ)」まで行き着いた場合、むしろ「豊かさ」が否定されるからです。

我々は、学習しすぎる(近代的・合理的な思考を強めすぎる)ことでむしろ、「豊かさ」を成立させる「社会(ローカル)」を相対化し、それが間違っていると感じるようになってしまいます。

これについて説明するために、以降では、「自然」な状態との対比を持ち出すといった形で、我々にとって「社会」とは何か、を考えます。


「自然な本能」と「不自然な社会」

「個人」と「社会」の違いについて、ここでは、「個人」の特徴が「遺伝子」に規定されていることで、「社会」の特徴が「遺伝子の外部」にあることだと考えます。

我々サピエンスは、「教育、文化、物語、法律、道具」など自らの遺伝子の外側にあるものに多くを頼っているわけですが、ここではそれらをまとめて「社会」と呼ぶことにします。

そして、サピエンスおける「個人の本能(遺伝子)」と「社会(遺伝子の外部)」は、「変化の速度が違う」ゆえに乖離していくことになったという見方をします。

「遺伝子」が、何世代もの個体を跨ぎながら少しずつ変化する非常に遅いものであるのに対して、「社会」という「遺伝子の外部」は、信じる宗教が変わるなどのキッカケで急速に変化しうるものです。

実際に、ここ数千年で「社会」は劇的に変化しましたが、我々の種としての「遺伝子」はそこまで変化していません。

ここでは、我々の内側にある「遺伝子」の変化の遅さを、「自然」であると考えます。

対して、急速に変化する「社会(遺伝子の外部)」を、「不自然」であると考えます。

我々サピエンスが「遺伝子の外部」という「不自然な社会」によって他の自然な生物よりも圧倒的に強くなったという話は、詳しくは過去動画でしているので、説明が足りなければそれを参考にしてください。

サピエンスの強さというのは、「自然な生物」は変化の速度が遅い(実質的に変化できない)のに対して、サピエンスだけが「遺伝子」を介さずに変化できるので、勝ちパターンを見つけ出して一方的に勝ち続けることができる……みたいな感じです。

遺伝子による変化で競い合うのが「自然な生物」としての生存競争なのに、「社会」を持つサピエンスだけが別の時間軸にいて、ゆえにサピエンスは「不自然」に強いんです。

ここで「自然・不自然」という概念を持ち出して言いたかったのは、「サピエンスは努力して能力が高くなるから強い」みたいなイメージとはちょっと違う考え方をしているということです。

むしろそのような「能力が高くなるから強い」という感覚は、「自然な本能(遺伝子)」の側のものと考えます。

メリトクラシーやルッキズムなどの競争が影響力を持っている現在、「自分や誰かが優れた個体かどうか」というのが、多くの人の関心事になっているかもしれませんが、そうやって今の人たちが憧れやすいような「自然な生物として優秀な個体」を、「不自然な社会」の力で蹂躙してきたのが、我々サピエンスが過去にやってきたことでした。

サピエンスの「不自然な社会」には、「本能的には納得しにくいけれど実は強い」という性質があります。

「弱く思えるが、実は強い」というのが我々の「社会」の特徴なんです。

逆に言えば、我々が「自然な本能」によって好ましく感じるような優秀な個体は、「不自然な社会」の強さと比べれば、「強く思えるが、実は弱い」ものであるということです。

そしてこれが、「学習しすぎる」ことでむしろ社会集団が弱くなってしまう理由です。

現状の競争社会において、勉強などの努力によって強くなろうとすること(優秀さを証明しようとすること)は、「優秀な個体が生き残る自然」への回帰を志向し、「実は集団を強くしていた社会」に逆行するものになります。


「本能」に反する「強い社会制度」

「豊かさと正しさの相反」に紐づけるなら、「不自然な社会(遺伝子の外部)」が「豊かさ」で、「自然な本能(遺伝子)」が「正しさ」になります。

両者が相反する理由は、「社会」の変化のスピードが、我々自身の「本能」を引き離してしまったからです。

我々の「本能(遺伝子)」はまだその大部分が「自然」であるのに対して、我々の「社会」は、「本能」と相反するように「不自然」さを強める方向に発展していきました。

現在に至るまでの歴史において、サピエンスの集団同士の生き残りをかけた争いがあったわけですが、その争いにおいては、「いかに強い遺伝子か」ではなく、「いかに強い社会か」が問われてきたことになります。

ではその「強い社会」がどのような性質を持っていたのかというと、「自然な本能」を否定して、「不自然」なレベルで「個人のため」ではなく「集団のため」を重視させてきた「社会」が、結果的に生き残ってきたと考えられます。

サピエンスが備えてきた「不自然な社会」の多くは、「自己利益のための競争の否定・禁止」などという形で、「集団のための協力」をメンバーに強制する性質があります。

「自然」な状態においては「競争」が起こりやすく、例えば多くの生物は、異性を巡って同性間競争を繰り広げます。

サピエンスも、より魅力的な異性とツガイになるために、自らの逞しさや美しさなどを競い合おうとするような生物としての特徴を持っています。

対して我々の「社会」は、「自然」に起こるような「競争」を否定して、生物としては「不自然」なほどに「協力」を促してきました。

それは例えば、「結婚」や「身分」などの旧来的な社会制度です。

サピエンスが備えてきた「結婚・婚姻」という社会制度は、「自然」にはツガイにならなかったような男女を周囲の圧力やお膳立てによってむりやり夫婦にするような仕組みであり、これによって性淘汰的な「自然な競争」を否定して、全員を社会集団に組み込む形で「不自然な協力」を促してきました。

あるいは硬直的な「身分」制度も、個人が自分の実力で優位に立とうとするような「競争」を禁止して、「協力」を行われやすくさせるものだったと考えることができます。

競争を否定・禁止することで、「個人として競争に勝つため」ではなく、「集団に貢献するため」にリソースを使われやすくするのが、「結婚」や「身分」などの伝統的な社会制度なのですが、これらが重視されてきたのは、過去にそれをしてきた集団が生き残ってきたからです。

我々は本能的には、「各々が競争に勝つために努力することで強くなる」と思ってしまいやすいのですが、むしろ競争を否定して協力させる制度のほうが「実は強い」ことが多く、であるがゆえに、「結婚」や「身分」のような硬直的な制度が旧来の社会において影響力を持ってきました。

そしてここでは、競争に正当性を感じる「自然な本能」のほうを「正しさ」、競争を禁止して協力を促す「不自然な社会」のほうを「豊かさ」と位置づけ、両者が相反するとしています。

「本能(遺伝子)」は我々の「感情」や「快・不快」を規定しているので、「本能」が否定されると不幸になりやすいです。

もっとも遺伝子による「痛み」や「不安」などの機能も、「それがあるから生き残りやすかった」という理由で引き継がれてきたものなのですが、サピエンスの「社会」はそこからさらに、「本能的にはそれをしない」ような行動を強制してきた側面があり、たとえそれで個人が不幸になりやすくとも、集団が生き残りやすくなるのならその「社会」は引き継がれていきます。

もちろん多くの人が耐えられないような「社会」もそれはそれで破綻してしまうので、「自然な本能」をまったく無視することはできないのですが、不幸ではあるが破綻しない程度に集団へのコミットを強制する「不自然な社会」を形成してきた集団が生き残りやすかった、ということです。

伝統的な「結婚」や「身分」のような社会制度も、「本能」に反する「不自然」なものではあるけれど、耐えられないくらい不幸にはならない、という範囲に収まっているものが多いと思います。

しかしそれらは「不自然な社会制度」ではあるので、我々が「個人」として思考したときに「間違っている」と感じやすく、「近代的な価値観(正しさ)」が重視されるようになると影響力を失っていきます。

ここまで、伝統的な「結婚」や「身分」のような「競争を否定する社会制度」が、「本能的には弱く思えるが、実は強かった」ことを説明してきたのですが、ただこのような見方は、前近代的な社会においては当てはまっても、近代社会には当てはまらないのではないかと考える人が多いと思います。

実際に、「個人の自由と権利(正しさ)」を重視する「近代化」が進むことによってより一層「豊かさ」が増進されてきた経緯があるのですが、以降ではこれについて説明していきます。


アクセルとブレーキの比喩

ここまで、「個人のため(競争)」を否定して「集団のため(協力)」を強いるような「不自然な社会制度」が、個人の「自然な本能」としては間違っているように感じるものの、「実は強い」ものだったことを説明してきました。

一方、「個人のため」を重視する「近代化」によって、「近代国家」というより強力なサピエンスの集団が可能になってきた歴史があり、ではこれをどう考えるかというと、過去動画では何度もこの話をしてきたのですが、「アクセル」と「ブレーキ」の比喩を使って説明します。

ここでは、「不自然な社会制度(豊かさ)」を「アクセル」と考えて、「自然な本能(正しさ)」を「ブレーキ」と考えます。

また、「個人の自由と権利」を重視する「近代的な価値観」も「ブレーキ」の側の作用であると考えます。

このような見方において、「個人を納得させる作用」を「ブレーキ」であるとしているのですが、先に述べたように、あまりにも「本能」に反しすぎる(個人が納得できない)ような「社会」は破綻してしまいます。

つまり、「社会」による理不尽は、個人がぎりぎり我慢できる(納得できる)程度に収める必要があります。

それは逆に言えば、「個人を納得させる作用」を取り入れることで、より「不自然な社会(アクセル)」を強めることができるということです。

一般的な乗用車などを考えても、もし「ブレーキ」がなく「アクセル」の機能しかなければ、危なくてほとんどスピードを出せないか、すぐに事故が起きてしまうと思います。

「アクセル」を制御する「ブレーキ」があることで、より強く「アクセル」を踏めるようになります。

同じようにサピエンスの社会においても、「集団のため」を重視する「アクセル」だけでは限界があり、「個人のため」を重視する「ブレーキ」を取り入れることによって、より強力な「アクセル(集団のため)」が可能になります。

そして、「ナショナリズム」のような「極端に不自然なイデオロギー(強いアクセル)」を、「市場競争・民主主義・近代思想」などの「個人を納得させる作用(ブレーキ)」によって制御してきたのが、近代国家であると考えます。

「近代化」という「ブレーキ」を取り入れたからこそ、「ナショナリズム」のような強力な「アクセル」が可能になった、という見方をしているということです。

とはいえ、「個人のため(正しさ)」を重視する作用は、あくまでも「ブレーキ」です。

サピエンスの「豊かさ」は、「個人のため」を否定して「集団のため」を重視させることに頼っているので、「個人のため(正しさ)」が強まると「豊かさ」は失われていきます。

「ブレーキ」が強すぎると速度が落ちていくように、「個人の自由や権利(正しさ)」が重視されすぎると、サピエンスの「社会」も成り立たなくなっていく(「自然」な状態に戻っていく)ということです。


理性が本能を再評価する

 
ここでは、「自然な本能」と「近代化」を、どちらも「正しさ(ブレーキ)」の側に位置づけていて、つまり「近代的理性」には、サピエンスが「社会」を形成する過程で否定されていった「自然な本能」を再び重視する性質があるという見方をしています。

この動画で先に、「個人・ローカル・グローバル」の図式を出しましたが、それと接続するなら、「ローカル」が「社会(豊かさ)」であり、対して、「個人」が「自然な本能」、「グローバル」が「近代的理性」で、ともに「正しさ」であると考えます。

「近代的理性」は、「不自然な社会」という「ローカル」に相反するという形で、「自然な本能」と同じ「正しさ」の側であることになります。

「近代的なものの考え方」においては、特定の「ローカル」を超えた普遍的(グローバル)な原理が追求され、ゆえに旧来的な社会(ローカル)が否定されやすくなります。

また、「集団のため」を重視する「ローカル」は、各々の「個性(遺伝的多様性)」を否定して、「男なら、女なら、◯◯の身分なら、」などといった形で個人を特定の型に当てはめようとしてきたものでした。

そのような「ローカル」を否定しようとする「近代的理性(グローバル)」は、これまで「ローカル」に否定されてきた「個人の自然な本能(遺伝的多様性)」を再び重視しようとします。

実際に、現在の国際社会(グローバルな価値観)が掲げる「多様性」や「人権」などの概念は、同質性を強要してきた「ローカル(伝統的な社会制度)」に対して、各々の個性(遺伝的多様性)を尊重させようとする性質があると言えます。

もちろん「個人」の側から言っても、「近代的個人として合理的に思考しようとすること」は、「ローカル」を相対化してその呪縛から解放されようとすることであり、それによって「普遍性(グローバル)」に向かおうとすることになります。

このようにして、「グローバル(普遍性という最大)」と「個人(多様性という最小)」が、「ローカル(豊かさ)」と相反する「正しさ」において接続されると考えます。

そしてこの関係をここでは、「近代的理性が個人の本能を再評価している」と見ます。

一般的には、「理性と本能が対立している」イメージがあると思います。

しかしここでは、「社会」と「本能」が対立していて、「理性」は「本能」の側に付くという見方をしています。

そしてこのような「理性による本能の再評価」は、「ローカルを相対化する普遍性(グローバル)」が影響力を持つことによって起こると考えます。

また、この動画で先に、「自然」においては「競争」が起こることを述べました。

そして、今の社会における「ビジネス・メリトクラシー・ルッキズム」などの「競争」には、「グローバルまで行き着くことによって再評価された自然」という性質があると考えます。

この詳細については後々説明していきますが、市場(貨幣)には、特定の「ローカル」を超える「グローバル」を志向する性質があります。

また、メリトクラシーやルッキズムなどの競争は、各々が「ローカル」を超えた「グローバル」な情報に触れることで激化しやすくなります。

「グローバル」が影響力を持つほど、「個人のため」を否定してきた「ローカル」が弱まり、それによって「競争」が激しくなる、という考え方をします。

ただそのような「競争」は、我々の本能的な感覚に反して、「強くなる」のではなく、「実は弱くなる(ブレーキとして働く)」ものです。

「ビジネスやメリトクラシーなどの競争が行われていて、その勝者が優遇される状態」に、我々の「自然な本能」は納得感を得やすいのですが、そのような納得感を重視すると「社会」が否定されて「自然」へ退行してしまうと考えます。

しかしながら、これも当チャンネルの過去動画で何度も主張してきたことなのですが、現代においては、「正しいから豊かになる」という倒錯が影響力を持っています。

「競争」は「ブレーキ」なのに、「各々が競争に勝つために努力するほど社会全体が豊かになっていく」みたいな、「ブレーキを踏むほど速度が上がる」と考えるような誤りが起こりがちということです。

この倒錯が起こる理由として

  • 我々に内在する「自然な本能」が「競争(正しさ)」のほうを好ましく感じやすいから

  • 近代化という「ブレーキ」が「より強いアクセル」を可能にしてきた経緯があるから

とここまでこの動画で説明してきた形になります。

「頑張った人が報われる状態(個人に納得感が与えられる状態)」というのは、普通に考えれば「アクセル」に思えますが、実は「ブレーキ」として作用するものだった、という話です。

ここまでしてきた「豊かさと正しさの相反」の話に関して、まだ説明が不十分と感じるなら、「なぜ働くのがつらいのか?」や「メリトクラシーの問題点は何か?」という動画を過去に出しているので、それらを参考してもらえたらと思います。


敵がいなくなると集団が弱くなる

この動画で先に、「学習することが現代の武器」だと考えられている一方で、それが行われすぎた先進国においてむしろ集団が弱体化していると述べました。

「学習(近代教育)」は、それがある種中途半端であれば、「ナショナリズム(強力なアクセル)」を成立させる「ブレーキ」として「豊かさ」にも寄与するのですが、学べば学ぶほど強くなるわけではなく、「グローバル」まで到達することで、「豊かさ」に反する「正しさ」として働きやすくなります。

特に、近代化と情報化が進んだ現代の先進国における「学習」は、「個人」を一気に「グローバル」に接続させるような性質があります。

いまだに、出生、治安維持、インフラ整備、エッセンシャルワークなどの社会に必要な仕事は、「集団のため」を評価しようとする「ローカル」なしには成り立たず、それが「正しさ」によって切り崩されていけば、「社会」が「自然」な状態に退行していくように、「豊かさ」が失われていきます。

これが、現代において、学習することで集団がむしろ弱くなっていく理由です。

この動画において、「個人のため」よりも「集団のため」が重視される「ローカル」としている状態は、「集団の大きさ」という観点からは、「集団が小さいか中程度の場合」であると考えるのですが、加えて、外敵の脅威など「強くなる動機があること」も「ローカル」の成立に必要な条件になります。

近代国家においては、「集団が大きな状態」であるにもかかわらず「ローカル」が機能していたのですが、それは、植民地支配を目論む他国の脅威があり、富国強兵を要請される世界情勢だったことが大きいと考えます。

もちろん国家が外敵の脅威に晒されている状況は現在も継続中ではあります。

ただ、「巨大なローカル」同士がぶつかりあった世界大戦のあとは、「グローバル」という「普遍的な人間観」が意識され、それによって「正しさ」が重視されやすくなっていきます。

「グローバル」まで行き着いてしまうと、もはや「外敵」は存在しないので、「豊かさ」を追求する強い動機もなくなります。

ちなみにここでは単純化して、家族から国家までを「中間(ローカル)」と括っているのですが、全世界という意味の「グローバル」に限らず、より小さなスケールでも、「グローバル」が「ローカル」を超えて「個人」が意識される、という現象は起こります。

日本の近代化においても、「藩」という「ローカル」を超えて、それよりも「グローバル(大きな集団)」という性質を持つ「日本という国家」が意識されるようになりました。そしてそのような統合の動きには、「個人」を重視する近代化が伴いました。

ただ、「外敵」の脅威に晒されていた当時の「国家」には、富国強兵を進める強い動機が存在し、「個人」を重視する近代化も、「アクセル」を制御する「ブレーキ」として作用するものになりました。

一方、世界大戦が終わり「グローバル」まで行き着いてしまうと、「外敵」という強くなるための動機が失われます。

なおこの理屈で言えば、もし地球が外から侵略されることがあれば、地球規模の「グローバル」であっても「ローカル」になるわけですが、そういうことが起こらない限りは、外敵がいない「グローバル」は「豊かさ」を追求する必要がありません。

実際に、国際社会という「グローバル」が掲げる目標は、人権の保障、格差や不平等の解消、自然環境の保護など、「正しさ」の実現を目指すものになりやすいです。

そしてこのような「グローバル」は、「近代的個人」と接続される形で影響力を強めます。

「グローバル」が「個人の自由と権利」を重視し、また「個人」が「普遍的な人間観」を備えることで、接続された「最大(グローバル)」と「最小(個人)」の影響力が強まり、「中間」である「ローカル」が弱まっていく、という図式です。

ただここで、「数が大きいほうが強い」といった力関係が変わったわけではありません。

現在においても、「国家」や「共同体」などの「ローカル」は「個人」よりも強い力を持っています。

ただ、そのような「国家」などよりもさらに大きな集団である「グローバル」が、「ローカル」の理不尽を防ごうとする形で、「個人」の自由や権利が守られるようになっていきます。

「国際社会のグローバルな連帯」という「最大」と、「民主政治における近代的な個人」という「最小」が接続されて力を持ち、それに挟まれるようにして、国家や地域や家族などの「ローカル」が影響力を失っていく、というイメージです。


ここまでのまとめ(正しいから豊かになるという倒錯)

ここまでで何を説明したかったのかをまとめます。

一般的には、近代になることで我々は「集団」から「個人」になり、貨幣経済や民主主義や近代教育の発展とともに、各々が自己実現のための努力をすることで社会全体が豊かになっていく……みたいな考え方がされることが多いと思います。

しかしここではそれを、「正しいから豊かになる(ブレーキを踏むほど速度が上がる)」と考えるような倒錯であると見なし、別の見方を提示しようとしています。

まず、遺伝子はすぐには変化しないので、現在の我々サピエンスも、「感情」や「快・不快」の多くを「自然な本能」に規定されています。

対して、我々の「不自然な社会」は、「自然な本能」によってそうなる以上に「集団のため」を個人に強制する性質を持っていて、それは「正しさ」に反するものであると同時に、「豊かさ」の源泉でもあります。

これまでの歴史において、「正しさ」よりも「豊かさ」を重視してきた集団のほうが生き残ってきたという経緯があり、そのようにして我々サピエンスは、「不自然」な形で「個人」から「集団」になっていきました

まず「個人」という「自然」な状態があり、そこから「集団」という「不自然」な状態になっていかざるをえなかったわけです。

そしてここでは、「集団のため」を重視する「不自然な社会」が「豊かさ(アクセル)」で、「個人のため」を重視する「自然な本能」が「正しさ(ブレーキ)」であるという見方をしています。

「豊かさ」は「正しさ」に反するものなので、「正しい」状態に戻るとそれが「ブレーキ」になるということです。

このように「豊かさと正しさ、アクセルとブレーキが相反する」とした上で、「アクセル」を強めるためには「ブレーキ」も必要であるように、「正しさ」に反しすぎた社会は破綻してしまうので、より強力な「集団のため(豊かさ)」を成立させるためにも、「個人のため(正しさ)」をある程度は重視する必要があると考えます。

この「アクセルとブレーキ」の比喩において、「ナショナリズム」のような「強いアクセル」を制御するために、「近代化(個人の自由と権利)」という「ブレーキ」を取り入れたのが「近代国家」であるという見方をします。

我々は、市場競争やメリトクラシーや民主主義のような「個人」を重視する「ブレーキ」の作用を取り入れることで、より大規模な集団の協力を可能にしてきました。

ただ、「個人のため(正しさ)」を重視する作用はあくまで「ブレーキ」であり、それが強くなりすぎると「アクセル」が弱まります。

「貨幣」や「人権」のような「ブレーキ」として使われていたものが、国家という「ローカル」を超えて「グローバル」に到達し、国家を上回る影響力を持ち始めた、というのが、世界大戦後に起こったことでした。

「国家(ナショナリズム)」と違って、「グローバル」には外敵が存在せず、「豊かさ」を追求する動機がありません。

特定の「ローカル」を相対化する「グローバル」は、今まで「ローカル」に抑圧されていた「個人」の「自然な本能」を再評価し、そうやって接続された「最大」と「最小」の「正しさ」が、「ローカル(豊かさ)」と相反するという形になっています。

このような考えを、集団と個人が近いときに「集団のため」が重視されやすくなる「ローカル」、集団と個人が遠いときに「個人のため」が重視されやすくなる「グローバル」、の図式と合わせて、「ローカル」が「豊かさ」で、「グローバル・個人」が「正しさ」であるとします。

一般的には、「集団」から「個人」になることで豊かになった、と考えられることが多いですが、ここでは、「個人」から「集団」になることで豊かになったが、再び「個人(グローバル)」が意識されることで、むしろ今は「豊かさ」を否定する動きが進んでいる、という見方をします。

このようにして、「個人(正しさ)」が重視される先進国において、これからの「社会」の維持が危ぶまれるくらい、集団が弱くなりつつあるということです。


貨幣は「グローバル・個人」に向かう

「個人」と「グローバル」が「正しさ(ブレーキ)」であるという構造をここまで説明してきた形になりますが、その「正しさ」に具体的な効力を与えているのが「貨幣」です。

一般的には、「金を稼ぐために各々が努力することで社会が豊かになる」と考えられているのに対して、ここでは、「貨幣・市場競争」はむしろ「ブレーキ」として働くという見方を提示しようとしています。

まず、「貨幣」には、それ自体に「個人・グローバル」な性質があります。

「貨幣」が社会に浸透するほど、「私的所有」が認められやすくなり、また、特定の共同体(ローカル)を超えた、普遍的・客観的な価値の基準(グローバル)が意識されやすくなっていきます。

集団に対して「個人の成果」を明確にし、「ローカル」を相対化して「グローバル」にしていくという形で、「貨幣」は「個人」と「グローバル」を重視する作用になりやすいということです。

前近代的な社会において、人々は共同体における「ローカル」な決まりに従って生産活動を行い、生産物を分け合っていました。

「貨幣」は、そういった特定の共同体を超えてモノをやり取りするときに発生しやすいものなのですが、ゆえに「貨幣」は「ローカル」を超える尺度になり、「この生産物なら(この仕事なら)◯◯円の価値」という客観的な基準を普及させていきます。

そのようにして「グローバル」を志向する「貨幣」の影響力が強まった現在、もちろん国や地域ごとの物価などの「ローカル」な事情が完全に消えたわけではなくとも、我々の仕事や生産物の価値はグローバルな尺度で比較されやすくなっています。

「貨幣」という客観的な尺度でグローバルに労働が評価されるようになることで、特定の地域における個人に十分な対価が支払われていない状態が是正されていきます。

そうやって「ローカルによる理不尽」が防がれて「個人の権利」が守られやすくなっていき、ゆえに「貨幣」は「正しさ(ブレーキ)」として作用すると考えます。

なお、実は「個人を守る客観的なルールを介すること」は、それ自体にコストがかかります。

これに関しては「なぜ働くのがつらいのか?」の動画で説明しているので詳細は省きます。

例えば、家庭内で貨幣を介さずに行われているやり取りを、すべて貨幣を介して行う場合を想像してみてください。

仕事を定量化して、交渉して契約を結んで、法務や税務などもちゃんとやる……みたいに厳密に「ルール」に則ると、「個人の成果が客観的に評価される」点において理不尽が防がれやすくなるのですが、そのためのコストがかかります。

「ローカル」には手っ取り早い(楽になりやすい)という性質があり、対して、「グローバル」は「客観化のためのリソースの消費」が嵩み、それによって「豊かさ」に反してしまいます。

「客観的な評価基準(グローバルなルール)」は実は効率が悪く「ブレーキ」として働き、「ローカルなルール」で適当にやるほうが楽になりやすいのですが、ただ、「より大きなローカル(より大規模な協力関係)」を成立させるためには「貨幣」による「客観的なルール」が必要で、それをこのチャンネルでは「ブレーキがあるから強いアクセルが可能になる」と説明しています。


貨幣は「競争(自然)」をもたらす

これについても「なぜ働くのがつらいのか?」の動画で説明してきたので詳細は省きますが、我々の仕事の多くは、「モラル(豊かさ)」と「ルール(正しさ)」のバランスを取りながら行われています。

「誰かのためになる仕事をするべき」という「モラル」と、「それが徹底されるほど競技的になる」という「ルール」の両輪で経済活動が成り立っていたわけですが、「貨幣」が影響力を持つほど「ルール」の側が強くなっていきます。

スポーツなどの競技において、「ディフェンス」のような相手を不利にする行為が行われ、それは「ルール」の範囲内でうまく行うならばむしろ称賛されるものです。

「市場のルール」は、「より多くの貨幣を稼いだ者がより多くの分配を手にすることができる」というある種の競技を社会にもたらすのですが、そこにおいて、スポーツなどの競技と同様に、「相手を不利にする(貨幣を支払わなければならない状況に相手を追いやる)」インセンティブが生じることになります。

満たされた人間はあまり金を使おうとしない(使う必要がない)ので、相手を楽にしてしまうと、実はビジネスにはなりにくいです。

儲かるビジネスのためには、「なるべく失いたくないものである貨幣を、それでも支払わざるをえないような不利な状況」に相手を追いやる必要があります。

そしてそのような儲かるビジネスは、「競争に勝たなければ損をする状況を煽り、勝者になるための手段を提供する」「複雑化を進めて新しい仕事を作り出し、自分だけがそれを行えるようになることでポジションを得る」「愛着や怠惰などの相手の心の弱い部分を利用する」といったものになりやすいです。

「ルール」の影響力が強まるほど、「ルール」に許される範囲でいかに相手に貨幣を支払わせるか、といった競技的な側面が強くなっていくのですが、スポーツを必死にやるほど「楽」な状態からは遠ざかっていくように、競技的なビジネスが加速しても、生活が楽になるどころかむしろ苦しくなっていきます。

対して、治安維持、インフラ整備、エッセンシャルワークなど、人々の暮らしを素朴に楽にするような仕事は、「相手を有利にする」行いであり、それは「モラル」としては望ましいことではあっても、「ルール」に則った競技としては利敵行為のようなものになります。

この動画で先に、有限のリソースを、「他人を有利にするため(集団のため)」に使うか、「自分が有利になるため(個人のため)」に使うかはトレードオフであることを述べましたが、「モラル」が弱まり「ルール」が強まるほど、自分のためにリソースを使おうとする人が増え、そのようにして、各々が競争に勝つために努力しているのに生活が苦しい(「豊かさ」に反する)社会になっていきます。

もっとも、「モラル」のほうは、私利私欲(正しさ)を抑えることで成立するものであり、「豊かになるが正しくない、集団を重視するモラル」と、「正しいが豊かにならない、個人を重視するルール」とが相反し、両者のバランスを取りながら仕事が行われていると考えます。

多くの人が伝統的・社会的な「モラル」を持って生産活動を行い、それを「貨幣(市場のルール)」で分配しているうちはまだバランスが良かったのですが、「貨幣」の影響力が強まりすぎると、「ルールに許される限りにおいて相手を不利にする(貨幣を支払わなければならない状況に相手を追いやる)」といった市場の競技的な側面が露骨になっていきます。

この動画で先に、ビジネスなどの「競争」が、「グローバルまで行き着くことによって再評価された自然」であることに言及しました。

市場競争はある種の「自然」な状態を志向するということです。

「モラル」よりも「ルール」が強まり、市場競争が「競技」的になるほど、自制心を発揮できなかったり、複雑な仕組みを理解する努力ができない「優秀ではない個体」が困るような社会になっていきます。

そのような「優秀な者が有利になり、そうでない者が不利になる状態」という「再構築された自然」は、我々の「自然な本能」としては納得しやすいものではあるのですが、であるからこそ「社会」の否定になり、「自然」に戻っていくことになります。


貨幣は「ローカル」を切り崩す

市場競争の内容は、「いかに社会(ローカル)を切り崩すか」といったものになりやすいです。

イメージとしては、「ローカル」が切り崩されたときに発生するのが「貨幣」です。

貨幣を手に入れるためには、相手に貨幣を支払ってもらう必要があるのですが、であれば、相手を「貨幣を稼ごうとする人間」にするほど、ビジネスとしては成功しやすくなります。

つまり、「相手を市場競争のプレイヤーにすることで、自分も稼ぎやすくなる」というのが市場競争の特徴なんです。

「他人を競争に引き込むと勝利しやすくなる」のが市場という競技のルールであり、そのような特徴によって、「競争しなくてもいい状態(貨幣を使わなくてもいい状態)」である「ローカル」が切り崩されていきます。

例えば、「幸せな家族」や「安心できる地域社会」は、それほど貨幣を使わなくても生活をしやすい楽な状態なのですが、それらが解体されると「貨幣」が発生します。

単純に、家族や地域を頼れなくなると、各々が一人暮らしのためにアパートを借り、自分用の家具や家電を買わなければならなくなるので消費が増えます。

また、「競争に勝ちたい(自分の相対的な順位を上げたい)」というのも貨幣を支払う動機になりやすく、ゆえに、「より多くの人を相対的な競争に引き込んでそれに勝つための手段を提供する」などのやり方が、稼ぎやすいビジネスになります。

実際に、我々が普段目にする広告の多くは、受験、資格試験、キャリアアップ、美容など、競争を煽る性質のものが多いと思います。

先に、「貨幣(ビジネス)」が「グローバル」な性質のものであることを説明しましたが、「メリトクラシー」や「ルッキズム」などの競争も「グローバル化」によって影響力を強めます。

「ローカル」を超える情報が目に入って「グローバルな他者との比較」が行われ、自身の客観的な立ち位置が意識されるからこそ、多くの人が不安や焦燥やコンプレックスを感じ、少しでも順位を上げるための努力に駆り立てられるようになるからです。

この動画で先に述べたように、我々は「不自然な社会」の力を借りて生まれてきた個体であり、それは言い換えれば、「自然な競争」においては生まれてこられなかった個体かもしれず、「グローバルな競争という形で再評価・再構築された自然」によって、そのような歪みを突きつけられることになります。

「ローカル」に頼って生まれてきた、成り立ちからして「不自然」な存在である(つまり「自然」には相応しくない)我々が、「再構築された自然」としての「グローバルな他者との比較」に直面すると、コンプレックスなどを感じて自己肯定感を持てなくなることが多く、それは例えば、SNSの普及によって強まるメリトクラシーやルッキズムという形で起こっています。

そのような「グローバルに他者と比較される競争」から我々を守ってくれていたのも「ローカル」なのですが、しかしその方法は、例えば、「無能でも有能でもブスでも美人でも、一定の年齢になれば結婚して子供を作り父親と母親になるもの」みたいに「同質性」を個人に押し付ける加害的なやり方でした。

このような事情をここでは、「不自由だけど楽な(豊かになるが正しくない)ローカル」と、「自由だけど苦しい(正しいが豊かにならない)グローバル」とが相反する、としています。

ビジネスは実質的に、家族や地域社会の不和を喜び、メリトクラシーやルッキズムを煽って、競争によって苦しむ人を増やしていく(「ローカル」を解体していく)試みなのですが、しかしそれは悪意によって行われるわけではなく、むしろ「正しさ」を重視することでそうなっていきます。

対して「ローカル」は、集団のために個人を否定する「正しくない」ものである一方で、「グローバルな競争(自然な競争)」によってもたらされる「自由だけど苦しい」状態を否定し、「不自由だけど楽」な、競争に勝たずとも安心して生活ができる「豊かさ」を成り立たせてきました。

なお、社会の持続のために不可欠な「子供を産み育てること」なども、「ローカル」という「競争をしなくて済む状態」があってこそ可能になっていたのですが、市場競争によってそれが切り崩されることで少子化が進んでいきます。

少子化問題に対して、先進国の多くは、まだ比較的「ローカル」が機能していて出生率の高い国から移民を連れてくることで問題に対処しようとしていますが、ここで説明してきたように「市場競争」は「グローバル」な性質のものであり、移民を連れてくる先の「ローカル」もいずれは解体されていきます。


貨幣は加害を防ぐ

この動画では「貨幣・市場」を、加害を防ぐ「ブレーキ(正しさ)」と位置づけていますが、「市場競争は加害的なもの」と思われていることも多いです。

先に述べたように、市場競争は「生活や安心の基盤になるローカル」を解体していくので、その部分を見て加害的に感じるのも無理はないと思います。

しかしこれに関しては繰り返し説明してきたように、「豊かさ」を成立させる「ローカル」にこそ「個人」よりも「集団」を重視する加害的な性質があり、この事情をここでは「豊かさと正しさが相反する」としています。

「人々を利己的にするから市場は加害的」と思われやすいかもしれませんが、市場が自己利益の追求を許すものだからこそ、それが「個人の自由と権利」を守る「正しさ」の働きになると考えます。

「市場は加害的」というイメージは、近代国家が営利のために侵略戦争を行ってきた歴史から来るところも大きいと思います。

ただこれに関しても、侵略戦争における「利益の追求」の部分は、むしろ加害に歯止めをかける「ブレーキ」として働いていたという見方をします

当然ながら、営利目的の侵略が加害的であることを否定するつもりはありません。

しかし程度問題で言えば、民族や宗教やイデオロギーの違いから起こるような「利益を目的としない侵略」と、資本主義に駆り立てられた「利益を目的とする侵略」とでは、後者のほうが加害に「ブレーキ」がかかりやすかったと考えます。

「利益を得たい」のであれば、侵略先を単に蹂躙するのではなく、むしろ相手側に合理的な考え方を理解させ、ビジネスパートナーにする必要があります。

過去に近代国家が行ってきたそれは不平等で暴力的なものではあったのですが、ただ「利益が目的」という部分は、加害性を抑える「ブレーキ」として働くことも多かっただろうということです。

実際に、広い時間軸で見れば近代国家による侵略は、各地域の「ローカル」を解体して「個人」を「グローバル」に接続する試みであり、それによって結果的には、「私的所有権」や「基本的人権」などの「正しさ」が普及していきました。

もちろん個々の侵略を見れば、現代の基準からは到底許されないような加害的な行いではあったし、当時の人たちが必ずしも「正しさ」を意図していたわけではなかったと思いますが、市場競争において各々が自己利益を追求することには、「正しさ」の影響力を強めていく性質があったと考えます。


「グローバル市場」という「ブレーキ」

現在の「グローバル市場」も、「国家(集団)」が「個人」に対して理不尽に権力を奮うことに「ブレーキ」をかけています。

例えば国家は、企業に対して急に法外な税金を課すとか、資本規制をして国外に資産を持ち出せなくするとか、自国に不都合な人物を逮捕して実質的に資産を手放させる、みたいなやり方で「個人の権利」を制限することが不可能なわけではありません。実際に有事の際にはその類のことが行われやすくなります。

しかし、そのようなことをするリスクがあると見られた(信用できないと思われた)国家からは、資本が逃げ出していきます。

「グローバル市場」の信用を失うと、資本が流出して経済力が低下し、他国との貿易が不利になったり、産業を興しにくくなるなどして、国が衰退しやすくなっていきます。

逆に言えば、資本を呼び込んで国家を発展させるためには、「個人の権利」を守る法や制度を整えて「グローバル市場」からの信用を得ようとする必要があります。

つまり「グローバル市場」は、近代化を進めない国(個人の自由と権利を尊重しない国)に、資本の流出(経済力の低下)というペナルティを与えるように働き、これが「グローバル」と「個人」を重視する「正しさ(ブレーキ)」の作用になります。

「グローバル市場」において、個々の投資家は自己利益のことを考えているだけかもしれませんが、「個人の権利」を軽視する国家が忌避されるので、結果的に国家権力の暴走に対する「ブレーキ」のように働きます。

現代の国家が戦争を起こしにくくなっている理由のひとつは、「個人」に対して加害的なことを行うと、「グローバル市場・国際社会」の信用を失って国外に資本が流出していくからです。

戦争が起こりそうな場合、さらに各国家が経済制裁を行うのですが、「グローバル市場」自体に、加害的な国家にペナルティを与える働きがあります。

もっとも近年の戦争の事例からわかったのは、一定の食料自給率と工業力があり天然資源なども保有している国は、グローバル市場の信用を失っても思いのほか戦争などを続けられるということかもしれませんが、しかしそれでも、原理的な部分で言えば、市場の信用を失った国家は不利になっていきやすいです。

例えば、日本のような資源などを輸入に頼らざるをえない国が、戦争を起こそうとして国際社会から除け者にされたなら、国民の生活水準が著しく下がっていくことが予想されます。

多くの国家にとって「グローバル市場・国際社会」の信用を失うことは致命的で、だからこそ現代の国家は「個人の権利」を軽視するような加害的な行いをしにくくなっています。

このようにして、「グローバル市場」は加害を防ぐ「正しさ(ブレーキ)」として働くのですが、しかしそれは、国家が「豊かさ」を目指そうとする試みにも「ブレーキ」をかけてしまいます。

例えば、「国家の存続のためには出生率の改善が課題だとして、子育て支援のための積極的な財政支出を試みる」みたいなことは、国家が「ローカル」を重視して「アクセル」を強める方針の政策になるのですが、「グローバル市場」という「ブレーキ」によってそれが難しくなっている側面があります。

財政や経済政策の話に関しては、ちょっとややこしい部分もあり、ここで詳しく話すことはできないので、また別に動画を作って説明するつもりです。


競争としての欠陥(格差)が「豊かさ」になる

この動画では、「伝統、宗教、身分、家族、地域、国家」など、競争を否定する社会制度が「アクセル」で、「市場」や「メリトクラシー」のような競争が「ブレーキ」であるとしています。

ただ、ここまで市場競争を「ブレーキ」と説明してきたのですが、市場には「アクセル」として働く部分もあると考えます。

なぜなら、市場競争は「競争」としては欠陥があるからです。

世の中には完全に公平な競争など存在せず、「学力テスト」や「スポーツ」などにしても、前提となる家庭環境や社会環境などの「ローカル」に左右される部分は大きいのですが、しかし競技の場合は少なくとも、毎回のゲームごとに公平なスタート地点が再設定されます。

一方、「市場競争」はそうではありません。

市場競争においては、スタート地点の「資本力の差」が露骨に有利不利に関わり、「富める者がますます富む」ような、いわゆる「格差」が生まれます。

ただ、「格差」によって公平な競争ではなくなるからこそ、市場には「豊かさ(アクセル)」になる部分があると考えます。

例えば、資本の蓄積によって形成される「大企業」では、競争を否定して「不自然」に社員同士を協力させる「ローカル」が働くようになる場合があります。

資本主義において、競争としては欠陥があるから生じる「資本蓄積」によって、「個人」よりも「集団」を重視する「不自然な協力」が成立しうるということです。

スポーツが例えば、11対11みたいに人数を揃えて0対0のスコアから始まるのに対して、市場競争には人数制限などはないし、儲かった企業がどんどん有利な立場を固めていくことができます。

これは「競争(正しさ)」としては不公平で欠陥があるのですが、であるがゆえに「協力(豊かさ)」が成立する余地があります。

ここでは、市場において、各々が自己利益のために努力する「自由競争」の部分が「正しさ」として働き、その競争の結果として格差が生じる「資本蓄積」の部分が「豊かさ」として働くと考えています。

つまり資本主義には、「資本蓄積」という「アクセル」と、「自由競争」という「ブレーキ」の両方が備わっていることになります。

なお、ここで詳細は説明しませんが、「学力」などのメリトクラシーにおいても、「学力競争」の部分は「正しさ」として働き、競争の結果として「身分」のような待遇の差が生じる「学歴差別」が起こるなら、それは「豊かさ」として働くと考えます。

通念上は「競争」が「アクセル」と考えられているかもしれませんが、ここでは「競争」を「ブレーキ」であるとして、「個人間の競争の否定(集団の協力)」を「アクセル」であるとしています。

「我が社のため(会社への所属意識)」や「職業集団の規範・エリートの規範」みたいなものが、「集団のため」の「不自然な協力」を成立させ、「豊かさ(アクセル)」として作用しうるということです。

資本主義における「自由競争から生じる資本蓄積」や、メリトクラシーにおける「学力競争から生じる学歴差別」は、「生まれによる身分」などと比べて、「ブレーキが備わっているゆえにより強いアクセルになりうる」ものと考えます。

競争の結果として「身分」が生じるなら、そこには個人にとっての納得感(ブレーキ)も備わり、より大きな規模の集団の協力(強いアクセル)を可能にしうるからです。

この動画で先に「個人・ローカル・グローバル」の図式を出しましたが、「ローカル」同士が対立している状態が、ここで言う「豊かさ」のイメージです。

すでに述べたように、「外敵」の脅威に対抗しようとする共同体や国家は「ローカル」になります。

そしてここでは、「競合他社に勝とうとする企業同士の対立」というのも「ローカル」になりうると考えます。

「市場のルール」は「ブレーキ」ですが、地域社会や職業集団ごとの生産体制を前提に、生産物を市場で交易して分け合う場合や、一定の規模の企業が競合に勝つために社内で協力して生産に取り組む場合は、「ローカル(豊かさ)」が機能していることになります。

対して、同じ市場で行われるものでも、「個人」が自己実現やキャリアアップを目指して資格をたくさん取ろうとしたり転職を繰り返すような、「自分の相対的順位を上げるための競争」は、各々にとって納得感があるかもしれないが生活が楽にはならない、「正しさ」を重視するものになります。

市場競争は「協力」も行われる「競争」であり、「豊かさと正しさ」の両方を備えているのですが、ただ、差し引きでは、市場は主に「正しさ」として働くと考えます。

その理由は、ここまで説明してきたように、「貨幣」が「個人・グローバル」を志向し「ローカル」を切り崩そうとする性質のものだからです。

たしかに資本主義は「ローカル」も形成するのですが、その目的である「貨幣を稼ぐこと」は「ローカルを切り崩すこと」でもあるので、結局のところ市場は「正しさ(ブレーキ)」として働きます。

かつては、富国強兵に駆り立てられた国民国家が「豊かさ」を強く機能させていたのに対して、現在は、世界中から「資本蓄積(投資)」を集めて競合他社とユーザーを奪い合う「巨大なグローバル企業・テック企業」が「豊かさ」を推し進めています。

巨大企業は、市場において公平な競争を行っているわけでもなく、むしろ政治に働きかけて自分たちに都合の良いようにルールを改変し、搾取的・収奪的なやり方で収益をあげようとしています。

ただ、そうやって得た余剰があるからこそ、世界中から人材を集めて自社のミッションのために協力させ、大規模な研究開発をすることができているし、実際に現在の「豊かさ」の最先端を主導しているのもそのような巨大企業です。

しかし巨大企業であっても、「相手から貨幣を支払ってもらう必要がある」という市場の根底となるルールを無視することはできず、であるからこそ市場競争は「正しさ」として働きます。

巨大企業が提供する最先端のサービスも、貨幣を得ようとするためのものにならざるをえず、それらは提供先の「ローカル(貨幣を使わなくてもいい状態)」を解体していきます。

かつては近代国家による侵略が、結果的に伝統社会の「ローカル」を終わらせていったのが、現在はグローバル企業によるサービスの普及がその役を引き継ぎ、あらゆる地域の「ローカル」から「個人」を解放して「グローバル」に接続させようとしています。

そしてそれらの動きを規定しているのが「利益の追求」を許す「市場のルール」であるということです。


「資本主義か、共産主義か」ではない

このチャンネルでは、「競争するほど社会が豊かになる」を否定しているのですが、「それって共産主義ってことですよね?」みたいなコメントがけっこう来ます。

そういうコメントをする人はあるいは、市場の肯定を「資本主義」、市場の否定を「共産主義」として、共産主義は過去に失敗したので間違っている……みたいなことを言いたいのかもしれません。

ただここでは、資本主義を否定しているわけではないし、共産主義を肯定的に見ているわけでもありません。

このチャンネルにおける「豊かさと正しさ」は、「市場の否定」が「豊かさ」で、「市場の肯定」が「正しさ」、というのともちょっと違います。

先に説明したように、そもそも「市場」というものに、「豊かさ」と「正しさ」の両方があると考えています。

資本主義には、「自由競争」という「正しさ」と「資本蓄積」という「豊かさ」の両方が備わっていて、ただ、市場における「資本蓄積」の目的は「さらに貨幣を稼ぐため」になりやすく、また「貨幣」はその性質上「グローバル」を志向するので、「グローバル市場」の影響力が強まるほど「ローカル」が弱まっていき、ゆえに資本主義は主に「正しさ」として作用すると考えます。

なお、主に「正しさ」として働く「資本主義」と、市場から徴税して「国民のため(ローカル)」に支出することができる「国民国家」の組み合わせは、それなりにバランスの取れたものであるという見方をしています。

対して、「共産主義」は何が問題なのかというと、「市場」という「ブレーキ」がないことです。

「共産主義」と「国民国家」の組み合わせは、「アクセル」の強さに対して「ブレーキ」が弱い(個人の自由や権利が尊重されない)ので、非常に危険で加害的なものになりやすいです。

つまりここでは共産主義の問題を、「豊かにならない」ことではなく、「正しくない」ことであると考えています。

もっとも共産主義が「豊かにならない」というのも、そこまで実態に反した見方ではないとも思います。

先に、個人の権利を守らない国に資本の流出(経済力の低下)というペナルティを与えるように働くのが「グローバル市場」であることを述べましたが、実際に共産主義国家はそのペナルティを受ける形で、経済がうまく行かなくなりやすい(国民の生活水準が低下しやすい)です。

ただ、「共産主義」が不利になるのは「グローバル市場」が影響力を持っているときであって、貨幣がまだ普及していないような前近代的な社会であれば、「共産」はむしろ当たり前のことでした。

近代以降の「共産主義国家」のヤバいところは、国民国家という規模で「共産」をやろうとすることです。

この動画で説明してきたように、国民国家のような大規模な集団は、市場という「ブレーキ」を取り入れるからこそ成立するもので、その「ブレーキ」を後からの政治的決定によって取り除いたのが「共産主義国家」です。

「国民国家」による「共産主義」の採用は、すでにかなりの速度が出ている(強いアクセルが作用している)状態なのに、途中から「ブレーキ」をなくそうとするようなものになります。

それをしたわりにはソ連は長く保ったほうだと思いますが、「当時はグローバル化・情報化がまだそれほど進んでいなかったこと」や「敵国がいたからローカルの強化に国民が納得しやすかったこと」などが要因であると考えます。

ちなみに、出世競争のようなメリトクラシーも「ブレーキ」として働き、そのような「競争」であればソ連は取り入れていました。

しかしそれも、市場競争という「ブレーキ」の代用にはならず、ソ連のような巨大な共産主義国家は、「豊かさ」ではなく「正しさ」の欠如によって崩壊した、という見方をここではしています。


「アメリカは個人主義?」「中国は共産主義?」

このチャンネルに対して、「アメリカは自由の国なのに出生率が高いですよね」みたいなコメントが来たこともあります。

おそらく、自由の国なので「正しさ」が過剰なはずなのに、出生率が高く「豊かさ」が成り立っていて、「豊かさと正しさは相反していないじゃないか」ということだと思います。

これに関して、どの国にも、「豊かさ」として働く部分と「正しさ」として働く部分があると考えます。

「アメリカは自由の国」というイメージがありますが、先に説明してきたように、ここでは「格差(資本蓄積)」は、むしろ「豊かさ」の側であるとしています。

また、地方自治の強さや、マッチョイズムや、進化論を否定する人たちがいるみたいな前近代的な部分なども、「ローカル(豊かさ)」として働くと考えます。

このように、アメリカは「豊かさ」が欠如している国ではないし、また、「正しさ」がそこまで強いわけでもありません。

たしかにビジネスとポリコレは苛烈なのですが、例えば、平均寿命が先進国の中でも突出して低い点などは、生存権のような「個人の権利」を十分に尊重できていないということであり、これはむしろ「正しさ」に反します。

日本などの国が社会保障に多くのリソースを注いでいるのとは対照的に、アメリカは、先進国の基準で「正しさ」のために本来支払うべきコストを支払っていないようなところがあります。

このような点などを加味すれば、アメリカは、たしかに「自由の国」というイメージはあるものの、実態としては「個人の自由と権利」をそれほど重視できていないし、「正しさ」が特に強い国とは言えないと思います。

また、「中国は共産党の一党独裁なのに出生率が低くなってきてますよね」みたいな意見に関しても、社会主義だからといって「豊かさ」が過剰とも言えないと考えます。

たしかに中国は、他の民主的な国家と比べて政治的な自由などが制限されていて、その点においては「正しさ」が欠如しているかもしれません。

ただ、中国が市場競争を否定しているのかというと決してそんなことはなく、ビジネスが苛烈に行われている度合いは他国と遜色ないか、むしろ勝っているくらいだと思います。

また中国は、現在のペーパーテストの起源とも言えるような「科挙」制度を長くやってきた歴史のある国であり、メリトクラシーを重視する個人主義的な価値観が社会に根付いている部分もあります。

それらの点などを加味するなら、今の中国において「正しさ」の作用が極端に欠如しているわけではないと考えます。

このように、資本主義なら「正しさ」の国、共産主義なら「豊かさ」の国、と考えるのではなく、どの国にも「豊かさ」として働く部分と「正しさ」として働く部分がそれぞれあると考えます。

なおここでは、平均寿命が低い(実質的に権利が尊重されていない)などの点においてアメリカを「正しさ」がそれほど強くない国と見ましたが、当チャンネルでは、ビジネスやメリトクラシーによって優秀な者が評価される「プラスの競争」に加えて、弱者性に対して支援が与えられる「マイナスの競争」も、「正しさ」において重要であると考えます。

その「マイナスの競争」について、以降で説明していきます。


【後編】に続きます


まとめ【「豊かさ(ローカル)」と「正しさ(グローバル・個人)」の相反の図式】

  • ここでは、「あらゆる人間に当てはまる普遍性の追求(最大)」と、「各々が置かれている個別の事情への配慮(最小)」を「正しさ」と考える。そして、その「中間」に位置する「特定の集団に利するローカルな正しさ」を「正しくないもの」と考える。

  • 「最大(グローバル)・最小(個人)」が「正しさ」で、「中間(ローカル)」が「豊かさ」であるとして、「豊かさと正しさは相反する」と考える。

  • 有限のリソースを、「集団のため」に使うか「個人のため」に使うかはトレードオフであり、「集団のため」を個人に強制する「モラル(伝統)」などの作用は「豊かになるが、正しくない」、「個人のため」を許す「ルール(市場)」などの作用は「正しいが、豊かにならない」と考える。

  • 集団の大きさが大きい(グローバルな)場合、「集団のため」と「個人のため」が遠くなり、「個人」が重視されやすくなる。

  • 集団が小さいか中程度な(ローカルな)場合、「集団のため」と「個人のため」が近くなり、「集団」が重視されやすくなる。

  • つまり、集団の大きさが「グローバル・個人」である場合に、「個人のため(正しさ)」が重視され、集団の大きさが「中間(ローカル)」である場合に、「集団のため(豊かさ)」が重視されやすくなると考える。

  • 「個人(最小)」から「グローバル(最大)」へ向かう途中に「ローカル(豊かさ)」があり、近代化・近代教育(普遍性の追求)は、それが中途半端(ローカル)である場合は「豊かさ」になるが、「グローバル」まで行き着くとむしろ「豊かさ」を否定する「正しさ」になる。


まとめ【「自然な本能」と「不自然な社会」】

  • ここでは、我々の内側にある「遺伝子」を「自然」、我々の「社会(遺伝子の外部)」を「不自然」と考える。

  • 「自然な本能」と「不自然な社会」は、変化の速度が違う(遺伝子に対して社会は変化が早い)ゆえに乖離していくことになり、それが「豊かさ(不自然)」と「正しさ(自然)」が相反する理由になる。

  • 我々の「自然な本能」は「優秀な個体」を好ましく思うが、そのような優秀な個体を「社会」の力によって蹂躙してきたのがサピエンスの特徴。我々の「不自然な社会(豊かさ)」は、個人としての我々にとって「弱く思えるが、実は強い」ものであり、対して、「優秀な個体(競争の勝者)」は、「強く思えるが、実は弱い」ものになる。

  • サピエンスの集団同士の生き残りをかけた争いにおいて、「不自然な社会」は、「自然な本能」と相反するように「不自然」さを強め、「個人のための競争」を否定して「集団のための協力」を強制してきた。

  • 結婚や身分などの伝統的な社会制度は、それを採用した集団が生き残りやすかった(集団を強くしてきた)ゆえに尊重されてきたが、「個人の自然な本能」としては間違っていると感じるものなので、「正しさ」の影響力が強まると否定されやすくなる。


まとめ【「アクセル」と「ブレーキ」】

  • ここでは、「豊かさ」を「アクセル」、「正しさ」を「ブレーキ」と説明する。

  • 「不自然な社会(集団のため)」は、理不尽すぎると破綻してしまうが、「個人を納得させる作用(ブレーキ)」を取り入れることで、より大規模な集団(強いアクセル)を成立させることができる。これを、「ブレーキがあるからアクセルを強く踏める」と考える。

  • 「ナショナリズム」のような「強いアクセル」を、「市場競争・民主主義・近代思想」のような「ブレーキ」を取り入れることで制御してきたのが「近代国家(国民国家)」である。

  • 「個人のため(正しさ)」はあくまで「ブレーキ」なので、それが強くなりすぎると「集団のため(豊かさ)」が否定され、「不自然な社会(ローカル)」が弱まっていく。


まとめ【理性による本能の再評価、グローバルという最大多数派】

  • 「個人の自然な本能(正しさ)→伝統社会のローカル(豊かさ)→グローバルな近代的理性(正しさ)」の図式において、「理性(グローバル)」は「本能(個人)」を再評価し、「社会(ローカル)」と相反する。

  • 「理性による本能の再評価」は、「ローカル」を相対化する「普遍性(グローバル)」が影響力を持つことで起こる。

  • 「ローカル」が弱まることで起こる「自然な競争」は、「社会」を否定して「自然」に戻していくような性質のもので、「競争」が強まると「豊かさ」が失われていく。

  • 「個人の自然な本能」は「競争」に正当性を感じやすい、「近代化(ブレーキ)」によって「国家(より強いアクセル)」が成立してきた経緯がある……という理由により、「正しいから豊かになるという倒錯(ブレーキとアクセルの混同)」が起こっている。

  • 「ローカル」は「外敵の存在(強くなる動機)」によって成立しやすくなり、近代国家のような「巨大なローカル」は世界大戦という状況によって成り立っていたが、「グローバル」まで行き着いてしまうともはや「外敵」は存在せず、「豊かさ」よりも「正しさ」が重視されるようになる。

  • 「数が多いほうが強い」という力関係が変わったわけではなくとも、現代の民主主義においては、「近代的個人という最大多数派(グローバル)」が「国家(ローカル)」の力を上回ることで、「個人(正しさ)」が尊重される。


まとめ【「市場競争」は「ブレーキ(正しさ)」】

  • 市場競争(貨幣)には「グローバル・個人」な性質がある。貨幣は、特定の「ローカル」を超えてモノをやりとりするときに発生し、「グローバル」な尺度を普及させていく。また、私的所有を認めて「個人」の成果を明確にする。

  • 「貨幣」が影響力を持つと、「ローカル」による理不尽が防がれ「個人」の権利が守られやすくなるが、貨幣を介するやり取りは「客観的なルール」に準拠するコストがかかり、ゆえに「ブレーキ」になる。

  • 「市場のルール」は、「より多くの貨幣を稼いだ者がより多くの分配を手にすることができる」という競技を社会にもたらし、それによって、相手を不利にする(貨幣を支払わなければならない状況に相手を追いやる)インセンティブが生じる。

  • 市場競争(ビジネス)は、「優秀な者が有利になり、そうでない者が不利になる状態」という「再構築された自然」を志向し、それは我々の「自然な本能(正しさ)」としては納得しやすいものだが、であるがゆえに「不自然な社会(豊かさ)」の否定になる。

  • 貨幣を得るためには相手に貨幣を支払ってもらわなければならず、相手に貨幣を稼がせる(相手を市場競争のプレイヤーにする)ことで、自分も稼ぎやすくなるというのが市場競争の特徴になる。このような特徴によって、市場で貨幣を稼ごうとする人が増やされていく結果、「ローカル(貨幣を使わなくても生活しやすい状態)」が切り崩されていく。

  • 「ローカル」は我々を「競争」から守ってくれていたものだが、しかしそれは「同質性(不自由)」を個人に押し付けるような加害的なやり方だった。ゆえに、「ローカル」による「不自由だけど楽(豊かさ)」と、「グローバル」による「自由だけど苦しい(正しさ)」とが相反関係にある。


まとめ【「国家権力」と「グローバル市場」】

  • 市場には加害的なイメージもあるが、「利益の追求(ビジネス)」は加害に「ブレーキ」をかける作用になりやすい。利益が目的ならば、侵略先を単に蹂躙するのではなく、相手に合理的な考え方を理解させビジネスパートナーにする必要がある。

  • 当時の国家や投資家がそれを意識していたわけではなくとも、俯瞰して見れば、営利を目的とした近代国家の侵略は、各地域の「ローカル」を解体して「グローバル」に接続する試みであり、それによって「私的所有権」や「基本的人権」などの「正しさ」が普及していった。

  • 現在も、グローバル市場は国家権力に対して「ブレーキ」をかけている。国家は個人の権利を無視する形で権力を奮うことができるが、そのようなことをする国家からは資本が流出しやすくなる。個人の権利を尊重しない国家に、資本の流出(経済力の低下)というペナルティを与えるように働くのがグローバル市場であり、この作用は「集団」から「個人」を守る「ブレーキ」になる。

  • 「グローバル市場」は「ブレーキ(正しさ)」として働くゆえに、その影響力が強くなりすぎると、国家の積極財政など、長期的な「豊かさ」を目指すための試みが難しくなってしまう。


まとめ【資本主義、共産主義、国ごとの「豊かさ」と「正しさ」】

  • 「貨幣」の性質から生じる「格差」によってスタート地点が固定化されていく市場競争は、「公平な競争」としては欠陥があるが、であるがゆえに市場においては「不自然な協力(豊かさ)」も発生する。

  • 市場(資本主義)は、「自由競争(ブレーキ)」と「資本蓄積(アクセル)」の両方を備えていて、「競争の結果として生じる協力」は、「ブレーキが備わっているゆえにより強いアクセル」になりうる。

  • 市場には「資本蓄積」という「豊かさ(アクセル)」として働く部分を持っている。しかし、貨幣には「ローカル」を解体して「グローバル・個人」を重視する性質があり、巨大な企業であっても「相手から貨幣を支払ってもらう必要がある」というルールを無視できず、「資本蓄積」の目的がさらに貨幣を稼ぐこと(ローカルを解体すること)になりやすいので、差し引きでは市場は「正しさ」の作用になる。

  • 主に「正しさ」として作用する「資本主義」と、徴税と再分配などによって「ローカル(豊かさ)」を重視することのできる「国民国家」の組み合わせは、「豊かさ」と「正しさ」のバランスが取れたものであるという見方ができる。

  • 「共産主義」の問題は、「市場」という「ブレーキ」を否定したことであり、過去の共産主義国家は、「豊かさ」の欠如ではなく「正しさ」の欠如によって崩壊したと考える。

  • ここでは、アメリカは自由(正しさ)の国、中国は一党独裁(豊かさ)の国、などと考えるのではなく、どの国にも「豊かさ」として働く部分と「正しさ」として働く部分があるとして、そのバランスで考えるならば、アメリカは特に「正しさ」が過剰とも言えず、中国は「豊かさ」が過剰とも言えない。


【後編】に続きます↓




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