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4年ぶりの帰省初日。僕はレーニンを拾った。

2021年9月6日。4年ぶりの札幌。帰省。
私の帰省は、こんなはずじゃなかった。そう、私はレーニンを拾ったのである。

レーニンを拾う

そのレーニンは、私が高校時代によくお世話になっていた近所の中古レコード屋にいた。そのレコード屋は、閉店後、棚卸し品を段ボールに入れ、無料で提供していることがよくある。「TAKE FREE」である。かくして、レーニンはそこに紛れていた。

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何を血迷ったのか、彼を発見したのは、そのとき傍にいた母親だった。

彼女は、昔から筋金入りの骨董品コレクターだ。彼女には、常に古いものを愛でる傾向がある。私が少年だったころ、買い物の途中には、よく骨董品モールやその類の専門店に連行された。小学生の頃は、もはや使われなくなった古い「ガラクタ」たちを集める彼女が考えていることが、全く理解できなかった。その反動で、当時流行っていた「嵐」や「KAT-TUN」などのジャニーズ系のアイドルの音楽に自分を無理やり沈め込ませ、同級生女子たちと仲良くなろうと必死だったこともある(今思い出すと、すごい吐き気がする。)。

しかし、「Like mother, like son」なのか。時を経るに連れ、自然とその価値観を自分も持ち合わせていった。そうした母親の薫陶を受けた私の目には、古いものほど魅力を感じざるを得ない節がある。それは、もはや本能であると言ってもいいだろう。そして、目の前で起きている流行の全てについて懐疑的にならざるをえない。

レーニンを見る

「レーニン-演説とアルバム-」。
最初のページを開くと、そこには、「永遠に生きるレーニン」。生きた革命の言葉を粘り強く、ソ連の人民大衆の胸深くにまで伝えようと演説している姿。故郷のゴールキ村で、散策と休養に憩う穏やかな姿。クレムリンの第3インターナショナル会議中に壇上で必死に自らの思想を言語化しようとメモを取る姿。どれも、1920年代前後に本当に彼が生きていた貴重な証だ。

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この黄ばみがかった古本にしかない独特のにおい。印刷に使われているインクの絶妙なスレ具合。巻末には、昔懐かしいペラペラの赤いレコード「ソノシート」。発行日は1970年3月15日。定価400円。そして、今はなき朝日ソノラマ出版社。私が生まれる前である約50年前から、時間と空間を超えて、読者である私に出会うべくして様々な場所と人々の手元を渡ってきたのだ。そう思うと、背筋がゾクッとする。

レーニン。
彼といえば、大学学部生時代に帝国主義論を読んだことがあるぐらいだろうか。当時思想的傾向が酷く左傾化していた私にとって、個人的にこの作品のインパクトはかなり強かった。なぜなら、時代を倒錯的に遡り、彼の言論の的確性を大概にして量ってみると、資本主義発展と衰退のシナリオを全く異なる立場と複合的観点から細かい情報粒度の資料を根拠に考察し、予測、そして理論化している点に衝撃を覚えたからだった。なんて聡明な革命家なのだろう。岩波文庫版の宇高基輔氏による概要文にもある通り、「本書は、現代世界を把握するための重要な古典としての価値をもつ。」とは、まさにある程度その通りだとは思う。

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レーニンを知る

今回この作品を通じて、彼について再認識した点が3つある。

1つ目は、彼が、多くの異民族の血を交えていた人であったことである。レーニンの祖母はカルムィク人(モンゴル系の遊牧民)の娘、レーニンの母はとあるドイツ人家系出身の医者の娘であった。レーニンは、背の低い、ずんぐりした身体付きで会っただけでなく、その顔つきが、アジア系の血を交えた農民であったことは、こうした血統と深く関係しているのかもしれない。そしてより重要なのが、彼が子供のころから、民族的偏見を持たず、偉大な国際主義者として一生を終始したことにも多少繋がっているのかもしれないということだ。

2つ目は、彼の言論の壮麗さである。
著作には、彼の若かりし頃のエピソードがいくつか紹介されていた。例えば、ヴォルガ川沿いの市である田舎のカザン大学法学部在学中に、学生運動に参加したため、放校処分にあったときの役人とのやり取りがある。

役人「なんだって騒動を起こすんだ!若いの!カベが君の前に立ちはだかっているじゃないか!」
レーニン「カベか!ふん、くさったカベさ。突き破るんだ。すぐ、ぶっ壊されちまうさ!」

それ以後、レーニンは絶えず警察の監視下に置かれ、言論活動が度を越すたびに投獄されるということを繰り返していた。しかし、その間にもめげずにパンフレットや宣言文を書いたという。時には、秘密に通信を行うために、書物の行間にミルクで書き、看守の目をごまかすため固いパンでインキつぼを作成した。危ないときには、急いでそのインキつぼを飲み込んでいたという。

彼の言論の要旨を掴むに際し、他にも様々な資料に関する記述が提供されている。

1903年5月、彼は小冊子「貧農に訴える」を国外で書き、ソ連国内に非合法文書として送り付けた。ここで、

「働く人民は自分たち自身の他に誰も頼ってはならない。誰をも当てにしてはならない。働く人間は、自分で自分を解放しない限り、誰も貧乏から解放してくれないのだ。」

と訴えている。紙面では、「これは、まさにレーニンがたえず大衆に訴えた思想の原点である。」と評価している。そして、「なぜ困窮するのか、誰が敵であり、誰と団結しなければならないのか、はっきり掴め。働く人間自らの団結以外に闘う方法はないし、ありえない。」と力説したという。

3つ目は、彼に対する後世の諸人たちによる賛否を分かつ評価である。
彼に対する評価は、賛否両論極端に分かれているか、ないしは、そもそも彼の功績に対する評価を控えているかのいずれかであろう。否定的評価の場合、とりわけ、レーニンの姿を無慈悲冷酷あるいは残忍な人間として描こうとする試みが行われていたこともあったという。中には当時、レーニンの死を小躍りして喜ぶ人たちもいたらしい。日本でも、レーニンに「冷人」「冷忍」という漢字をあてたりすることがあったともいわれている。

しかしその一方で、好意的な評価も多い。当時レーニンと接した人たちによれば、彼が人間味豊かで、大衆の生活に密着している指導者であり、革命成功後も、質素で飾り気のない生活を送っていたという。その特徴を示す興味深いエピソードがある。飢饉が酷かった頃、レーニンは、地方の同志や農民たちが送る食料を食べるのを恥としていた。小包などが送られてくると、急いで病人や食料不足で弱っている同志たちに分配したという。

同じ時代を生きていた日本人にも、独特の感性を以ってレーニンを評価する人々が一定数いたという。その中には、明治から昭和を生きた詩人小熊英雄や小説家芥川龍之介がいる。

小熊英雄による評価には、例えば、彼の作品「しゃべり捻くれ」の中の一説が象徴的なものとして残っている。戦前のファッショ的弾圧を受けて、プロレタリア詩人・作家が沈黙気味になったときの一言だ。

若し君がプロレタリア階級のために
舌がもつれているとすれば問題だ、
レーニンは、美味いことを云った、
―集会で、だまっている者、
それは意見のない者だと思え、と
プロレタリア詩人よ、我々は大いに、しゃべったらよい、仲間の結束をもって、仲間の力をもって
敵を沈黙させるほどに
壮烈に―。

更に興味深い評価を残しているのが、芥川龍之介だろう。彼は三編の詩「レニン第一」「レニン第二」「レニン第三」を書いた。その中の1つである「レニン第一」は、至って簡潔にレーニンに対する思い入れの深さを込めていると見える。

君は僕等東洋人の1人だ。
君は僕等日本人の1人だ。
君は源の頼朝の息子だ。
君は―君は僕の中にもゐるのだ。

この著作は、レーニンの功績や人柄、特徴を、偏見を交えず、なるたけ外部の評価資料を参照し、客観性を維持しながら複眼的考察を加えているという意味で、良くも悪くも中立的な記述を行っているといえる。そのうえで、この著作が出版された当時の時代背景を鑑みたときに、感慨深い記述が1つあるので紹介したい。なるほど、ソ連がまだ大国として威勢を発揮していたということだろう。

「現在レーニンがつくりあげたソ連邦は、宇宙開発をはじめとして、多くの分野でパイオニア的な役割を果たしつつある。数年前、建国50周年を祝い、国家の土台も強固に固まってきた。レーニンの思想が、直接的に生きている社会主義国がいくつも誕生し、世界史の動向を決定する一大勢力になっている。レーニンが「遺書」において、大国排外主義、偏狭な民族主義をいましめ、官僚主義の危険について警告していた。これは予言的な響きをもっている。」

レーニンから学ぶ

現代という時間軸から、私たちはレーニンをどう評価できるだろう。これについては、個々に自由に委ねるしか方法がないのかもしれない。しかし、彼という人間の思想や生き方、そして行動原理を以って彼を評価しようとした場合、私は、エーリッヒ・フロムの人間性に関する論述を参考にしたいと思う。

「人間は過去において―現在もそうだが―人間的であることのある特定の形態を、人間の本質として認めるというあやまちに、容易に陥った。このあやまちの程度に応じて、人間は自分が同一化している社会の言葉により、人間性を定義したがる。これが全体的な傾向ではあったが、しかし一方では、例外もあった。自分自身の社会の次元を超えた世界を見る人間も常にいた―こういう人間は、生きている時には馬鹿だとか犯罪者だとか言われたかもしれないが、記録された人間の歴史に関する限り、彼らが偉人の名簿に名をつらねている。彼らは、普遍的に人間的と呼ぶことのできる何物か、そして特定の社会がこういうものだとみなしていた人間性とは同じでない何物かを、思い描いていたのだ。大胆で想像力に富み、彼ら自身の社会生活の限界を超えた世界を見る人間が、つねにいたのである。」(エーリッヒ・フロム『希望の革命』、p.96)

上記から、人間には、大きく分けて、2種類あると言える。1つは、自身の社会の次元を超えた世界を見ていない、あるいは見ようとしない者。もう1つは、自身の社会の次元を超えた世界を見る人間、あるいは見ようとする者。レーニンは、ほぼ間違いなく後者に属すると考えるべきだろう。ゆえに彼は、ソ連に革命をもたらした。そして、世代を超えて語り継がれる革命家として、今も人々に名を知られている。

私の帰省は、そんな彼を偶然拾い、彼に対する認識を崩し、見つめ直すことから始まった。4年の隔たりの先には、何倍もの時間的隔絶を経た時代錯誤の必然的邂逅が私を迎えたのである。そんな100年前頃の今、彼は何を考え、如何にそれを人々に伝え、次の社会の到来の可能性に希望を見出し、革命をもたらそうとしていたのか。時代の変遷から翻弄されないように身を守りながらも、それを利用し前に進んでいくための答えは、期せずしてやってきた彼の言論との対話にあるのかもしれない。

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