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「直される怖さ」は幻想?自由な文章表現を通じて、自分を解放しよう

「文章を書く」という行為は誰もが、毎日、様々な場面で行なっている。にも関わらず、難しかったり苦手だという声は少なく無いし、できれば避けたいと言う人もいる。思うのだけれどそれは、幼少期から「直されてきたことへの恐怖」に対する心理的な回避行動ではないだろうか。

小学校の読書感想文、もっと遡ると保育園・幼稚園での日記ですら、先生からの「暖かい」赤ペンで誤字脱字や単語の選択、文末表現を「直されてきた」経験は誰しも持っている。

文章は、心の奥から生み出された作品であり、大げさに言うなら魂の叫びでもある。他人が本人の文章を「直す」なんてことは本来あり得ないのだと思う。それは、自己否定につながるからだ。

学校が社会の近代化を果たす装置としての役割を担った故、標準化が求められシステムの中でそれらは行われてきた。先生が悪いのでも、学校が悪いのでもない。ただ、それを必要としていた社会情勢が長く続いたために、既にその状態を脱した現代であっても足枷のように私たちを苦しめているのだ。

でも、既にその足枷は存在していないし、標準化も求められていない。多様性の時代だと多くの場面でメッセージが発せられ、個性を大切にしようと言っている。ならば足元を見よう。自分の言葉で、自分の考えを表現すること。たったそれだけのことだけど、過去の体験から誰しもが「直される怖さ」と戦っている。

それは幻想だよ、自由に表現して良いんだよ、私はそんな気持ちで毎月、メルマガの巻頭記事を書いています。これは、ChatGPTには決して出来ない、最短距離ではない捻れた道を歩んでこそのアウトプットだと、私は信じたい。その先に、主体的なキャリア形成の姿が、漠然と見えてくるのではないだろうか。

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