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「木村ゼミ27期の軌跡」発刊に寄せて

私がその昔、一橋大学社会学部(教育学・教育史専攻)でお世話になった恩師の退官にあたり、記念誌を編集するプロジェクトが2021年7月に立ち上がりました。木村元(はじめ)先生は通算で27期(28年)もの間、200名を超える学部ゼミ生、および同規模の大学院ゼミ生を送り出して来られ、2023年3月に定年退職のため学校を去られることになります。私は1996年に学部3年生として本ゼミのスタートとなる「一期生・9名」の一人として加わり、もうすぐ49歳になろうとする今ふたたび、その先生を送り出す役割をいただくという望んでも得られないミラクルな経験をさせていただいています。

遡ること約2年前のある時、一期生の中で(おそらく)最も暇そうにしていた私に目をつけた先生から連絡をいただき、「何か形に残したいのだけれど、それをみんなで考えて進めてほしい」という不定形のオーダーをいただいたところから始まりました。学年の異なる27期のメンバーにアクセスできるのはメーリングリストと、Facebookグループのみ。アクティブユーザーがそのうち何割かもわからない中で、自ら率先して手を挙げてくれた13名の年齢も職業も居住地も異なる皆さんで「編集チーム」を組成しました。

それから12か月、毎月1回のオンライン編集会議と、その間をつなぐslack(グループウェアソフト)での情報のやりとり、章立てから取材手配、素材集め、本人インタビュー、大学の歴史と社会変化をリンクさせた年譜の作成、木村ゼミ語録集、私のゼミノート、あいつ今何してる?動画、1期生によるゼミ草創期を振り返る対談、などなど実に多様で興味深いコンテンツが編集メンバー自身の中から発案され、徐々に形になっていきました。その過程はコロナ影響および遠隔地メンバーをつなぐため全てが非対面で行われ、様々な補助ツールを駆使してクオリティを高めることに成功しました。

なかでも中核を担うコンテンツの一つが「OB/OGエッセイ」。それぞれの現在地点から数年前の過去を見つめたとき、大学時代に木村ゼミへ身を置き教育史に正面から向き合い議論を重ねた日々が、どのような学びとして現在に活きているのか、あるいはそうでないのか。薄れる記憶の断片を掘り起こしながら、それぞれに内省し文章として紡ぎ出した22編のエッセイ。その全てがオリジナル脚本の活きたストーリーであり、実に読み応えのあるものになりました。

私自身が当時の学びを振り返る過程で気づいたことは、まさに今自分が取り組んでいるキャリア自律や生き方はたらき方の多様なあり方を提案するその根源となる要素が、そこにあったことです。いつの間にか「自分の内側から出ている」と信じて疑わなかったものを支えるインプットの多くは、木村ゼミでの学びと「問い」により考える機会をいただき、自分の言葉で表現し相手に理解を促す過程を経て生まれてきたものだったのです。

そういう意味で、自分の関心ごとが既存のレールを正確に早く走ることではなく、新しいレールを未知の方向に向かって敷いていく方へ向いていることの必然性に気づきました。「スキルノート®」は、生まれるべくして生まれた理念であり取組だったのです。私一人の力ではなく、ご退官される先生を初め同期との学びや後輩たちとの交流の中でゆるやかな時を経て醸成されたものが今ようやく、形となってあらわれて来ています。

ご退官される木村先生へ、感謝の気持ちと、まだまだ長いこれからの人生をより有意義なものとしていだたきたい気持ちを胸に、自分自身の学びを振り返る一遍のエッセイを書かせていただきました。これまで長い間、本当にお疲れ様でした。そして、人生を豊かなものとするための「問いの力」を鍛錬いただいたことに、深く感謝します。3月下旬に大学教員としての「最終講義」があります。その日が来ることが待ち遠しいような寂しいような複雑な気持ちですが、私たちが学んだその輝く時間を言葉で残しておきます。

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「好きなことで、生きていく」自由への気づき

「1995年4月」と口にしてみるとその響きはとてつもなく昔のことに聞こえる。21歳になったばかりの自分は朧げな期待と見えない不安を抱いていたと思う。当時いったい何に関心を持ち、どのように生きようとしていたかの質感は忘れてしまったが、ともかく身の置き場として1995年4月に木村ゼミの門を叩いた。

静岡の山深い地域、農村と言って差支えない地域によそ者として加わり、公務員の息子として18歳まで過ごしたのだが、日本中どの田舎にも存在している閉鎖的で規律的な空気を子供ながらに窮屈に感じていた。中学生になる頃にははっきりと自分の意志で「大学生になったら、東京に出よう」と思っていた。別に東京に憧れていたわけではなく、「ここではない何処か」であればどこでも良かったわけだが。

閉鎖的で規律的な田舎で大人が子供を判断する唯一の指標は「学業成績」だった。学校の成績がクラスで何番目か、どの高校に進学し、大学はどこへ行くのか。自分の意志は介在していないも同然だったし、半ばあきらめていた一方で、生き残る術として勉学に励んだ。自分で選択しているようで、決してそうではない。自分が本当に好きなことは何かを考える時間も精神的なゆとりもなく、またその機会が失われているという事実に気づくことすらなかった。

木村ゼミを選択した理由はそういった自分の育ってきた背景への疑問に対し「ここなら何か見つけ出せるかもしれない」という淡い期待ではなかったかと思う。家も地域も学校もそれを教育と言って憚らない、捉えどころのない厚い壁のようなものに対し、それはどこか間違っていると直感的に感じつつも正面から議論する能力のなかった自分に、何か頼るものが欲しかったのだ。

木村先生や一期生の仲間との時間は、それは楽しく充実していた。このたびの「27期の軌跡」を編集する一環として、約20年ぶりに同期生とオンラインで再会し当時のことを話したのだが、「まるで昨日のことのように」という形容が嘘偽りないほどに、その時々に経験した出来事のディテイルを思い起こすことができた。話す時間が長くなるとともにお互いの当時の感情すらも手に取るように思い出すという、不思議で魅力的な対話の時間になった。

当時、ゼミが新たに発足する一期生として何の不安もなかったと思う。木村先生ご自身も私たちに判断や選択の自由をかなりの割合で与えていただいていた。決め事はなく、すべて自分たちで考え、相談しながら決めていった。そこには自由があった。本当に学ぶということはこういうことなのかと、その自由に戸惑ったのは最初の数日だけで、2年間のどの瞬間においても怠惰な時間は無かったし、お互いに論を交わす熱い時間に酔いしれた。幸せな日々であり、自分を含めたゼミ生それぞれの人格形成に大きな影響を与えた時間だったと思う。

「物事は、懐疑的に受け止めなさい」という木村先生のアドバイスは、その時は驚きをもって受け止めた。たとえそれが権力者の発言であっても大手のマスメディアであっても、真実を伝えているとは限らない。鵜吞みにせず、自分の頭で判断しなさいということだった。「メディアリテラシー」という言葉が社会に認知される十数年前のことだ。閉鎖的で規律的な地域で育った自分にとって、気づかぬうちにもがれていた羽を再び纏うことができた瞬間だった。レールの上を正確に走るのではなく、レールの方向は正しいのかを考えたり、新しいレールを自分が敷くことも選択してよいのだと気づくことができた。

卒業論文のテーマ選定の際に「好きなことを書いていい」と言われたことを明確に覚えている。教育学、社会学という「枠」を意識しなくていい、「今自分が関心あること」について研究し、論じなさいというメッセージだった。「え、先生本当に何でも良いのですか?」と聞き返しても「それがあなたの関心の中心であるならば、どんなテーマにも価値があるはずだ」といった主旨のお返事だった。それは相手を信頼していることに他ならないし、その信頼されているという気づきは自分に大きな勇気と自信を与えてくれた。

今、当時のやりとりを思い出しながらこの文章に向き合っているのだが、正直、流れる涙が止まらない。こんなにも感情を刺激する経験をしていたことに、また20数年を経ても価値ある気づきをいただいていたことに、あらためて今感謝している。

人生100年時代とするとちょうど折り返しの時期に差し掛かっている。もはや自分の前に遮るものは何もなく、好きなことで生きていく自由と技術を手に入れつつある。その根底には木村ゼミでの学びと、木村先生や1期生の仲間と過ごした時間があることを再認識している。自分が20年後、30年後にどうしているか、楽しみでならない。

木村先生ご自身もこれから新たなスタートを迎えられるわけだが、引き続き学びの機会を共にさせていただければ幸いであるし、今度は私たちが木村先生のお役に立てる瞬間を形作っていきたいと考えている。

一橋大学社会学部 木村元ゼミOB 芦沢 壮一

キャリアの多様性、対面/非対面・同期/非同期コミュニケーションについて発信中


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