隙間と余白を抱えて
母は私が幼稚園に通っていた頃から自宅で英語教室を営んでいた。
もともと外国に住んでいたこともあって教材も豊富だし、なにより英語が好きだったらしい。外国から帰ってきてすぐに小学生、中学生を対象にした英語教室を始めた。
私も母の生徒の一人だった。
そんな母は60歳を迎える頃に通訳ガイドの国家資格を取得し、新しい仕事を突然始めた。英語教室にはついにピリオドが打たれた。ガイドの仕事は観光地に住んでいることも重なって、順調らしい。
「楽しそうでよかったねえ」
母がガイドの話を嬉しそうにするのを聞いてほっとする。こっぱずかしくてなかなか言えないけれど、実は「年齢に関係なく新しい仕事にチャレンジしたこと」に対してすごいなと思っている。
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ある程度自分の年齢がいって、子供も自立して、そのうえで新しい仕事に挑戦するのっていいなと思う。
なにがいいって「生き急いでる感じがしない」ところがいい。
計画通りに取り繕って物事を成し遂げるのは素晴らしいこと。でも母を見ているとそうは感じなくて、のんびり気ままにやっていたらタイミングがきて「なんかそうなった」という表現の方がしっくりくる。
家族で外国に住むことになったのは父の仕事の関係で、たまたまだった。数年間の海外生活を経て、母が帰国後英語教室を営み始めたのは自然な流れだった。通訳ガイドの仕事を始めたのも絶対やりたい!と意気込んでいたわけではないように思う。私が結婚して遠くに行ったから、気持ちが手持ち無沙汰だったのかもしれない。
綿密に計画して自分の人生や将来像を描き続けると(もしくはそういう人を見ると)なんだか息苦しくなってくる。
何年後にはこうなっていたいから今これをやるべきとか、流行のもの(今でいえばYouTube?)に参入して地位を確立すべきとか、何歳までに学校を卒業すべきとか。
「そんなに生き急いでどうするの?」という問いが生まれる。
ちょっとくらい隙間を残しておいて、今はまだ分からないけど「なんかそうなった」みたいな時のために余白をとっておいてもいい。全部描き切れなくても死にはしない。
母が新しい仕事を突然60歳で始めたことは、どこか勇気づけられるものだ。
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「次はどこでガイドするの?」
時には泊りがけであっちこっちに飛び回っている母から仕事の話を聞くのはいい刺激になる。
やりたいことをしつつ、頑張れることは頑張りつつ、でも計画しすぎず生きていたい。隙間や余白のある人は自分にとっての憧れだ。母は偉大なり。
そのとき必要なことに必要な分だけ、ありがたく使わせていただきます。