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好きな文章のこと

先日とあるコンテストの結果好評を眺めていて、審査員がこんなことを書いていた。

「自分が思う面白い文章は、共感と発見がある文章です」って。ああそうなんだと単純に感じつつ、コンテストって結構審査員の好き嫌いが反映されていて、審査員との相性も関係あるんだろうなと感じた。もしかしたら違う審査員だったら受賞者は全く違うラインアップになるのでは。

その点資格試験なんかは答えはAです、Bはバツ!と明確に判断されるから気持ちいい。審査員の好き嫌いどころではない。

そういう意味で、コンテストに何度も受賞をされている人は、たくさんの審査員の方との相性がよいということを表し、それが実力なんだろうと思う。クリエイターはシビアな世界に生きている。

わたしが好きな文章は「ぶつくさ考えている」文章だなあ。もう少し好きな文章や言葉のことを書いてみる。

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わかるそれ!と共感できなくても好きな文章はたくさんある。

たとえ執筆者の活動分野、興味範囲が全く異なっていても素直にいい!と思う内容は確かにあって。表面的に見たら全然違うテイストなのだけれども、ある一点が共通している。

それが「ぶつくさ考えている」ということだなと気が付いた。「ぶつくさ考える」をもう少し丁寧に説明すると「深い思考や感性があふれている」ということなんだと思う。

深い思考は一言、二言でなかなか表現できないから必然的に文章は長くなる。だからまわりまわって長文が好き、とも言える。

人の感情はよく分からないものの集合体だ。

なんだろうこの胸のざわつきは。なんだろうこの心の閉塞感は。なんだろうこの頭のスッキリした感じは、などなど気持ちを体をとおし感覚的に捉えていることが多いような気がする。

人によるだろうけど、少なくとも自分はそうだ。そのよく分からない感情一つ一つに言語を与えていき、ああ○○が苦しいんだな、○○が気に入らないんだな、と判断する。

言語化を行わなければ、ひたすら感情が宙ぶらりんになって消化不良のまま胸に閉じ込められていく。それができなければ、ともすると非行に走る人物ができてしまうかもしれない。

「体の感覚的なものにアプローチしてくる違和感や感動を察知し、それを文字へ落とし込んでいく」その作業こそがぶつくさ考えていることであり、深い思考であり、私が好きな文章なのである。

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好きな文章はきっと人それぞれ違うはずだ。

好きな写真だって、音楽だって、絵画だって、みんな違うはずだ。それなのにどうしてコンテストとなると限られた審査員に優劣をつけられるのだろう。誰かひとりでも心を動かすことができたなら、それはすでに立派な芸術。

グラデーションある分野の活動に賞を贈るのは、なんだか難しそうな作業だ。

そのとき必要なことに必要な分だけ、ありがたく使わせていただきます。