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本当に見守っていられるか

Google for Education認定トレーナー/コーチの笠原です。

勤務校の探究発表会が先日、無事に終わりました。この発表会は基本的に生徒が自分たちで企画運営するものになっており、部分部分の修正はしていますが、一日の流れや人員の配置などは生徒へ任せきりでした。

それでも大問題は起こらずに、ちゃんとイベントが出来ました。

今となっては口出ししすぎたと思っているところです。見守りと介入のバランスは難しいものです。

授業は自分が話さない時間を長くしたい

自分の国語の授業は、基本的には生徒が自分で何とかする授業です。必要なことをできるだけコンパクトに説明して、あとは自分でやれ!というのが基本方針です。

読むことも書くことも聞くことも話すことも、どれも実際に自分で頭を使って悩みながら手を動かすべきだと思っています。国語は何も考えなくても日常生活で言葉を使っているからこそ、国語の授業の中では日常とは違うこだわりでことばに向き合う時間を持ってい欲しいと思っているのです。

魅力的な言語材を見つけてきて、魅力的な課題を示せば、あとは素材の力で自然とやるべきことは決まってくるだろうと思っています。むしろ、そういう授業の構成にならければいけないと思っています。

あまりnote記事では読まれていないのですが、Podcastづくりの単元はなかなかよい単元となったと思っています。生徒の取り組みに非常にこだわりがありました。

介入したくなることは多く

基本的には指示を出して任せた以上は、その授業内ではできるだけ介入はしたくないのです(相談には乗るとしても)。

もちろん、活動をやってみて思い通りに行かないことは、ままあるので次回の授業の冒頭でミニ・レッスンという形でフィードバックしていきます(そのため、クラスごとに授業で伝えることが全然違う)。

それ以上の介入をしていると、自分で考えなくても最後には答えが出てくる…そんな姿勢につながってしまうのではないかと思っています。

ただ、やはり活動の様子を見ていると、口出ししてしまう瞬間も多いですし、相談されると必要以上に添削してしまう場合も少なくありません。やってしまってから「あぁ…ここまでいったらダメだったな」と思うことはよくあります。

もしかすると、リーディング・ワークショップやライティング・ワークショップのようにチェックインみたいな形で一人一人との関わり方を変えていく方が上手くいくのかもしれないですね。

全体をどうやって見取っていくかということも含めて勉強ですね。

ただ、そういう作業をする時に教室が狭くて使いにくいのがなんとも…。

教員は環境の一部になれるか

あまり介入していると、どんな表現が良いか、どういうことを言ったらよいかということの基準をどんどん大人に求めるようになってしまう。

添削もやりすぎていると授業者である自分の基準に合わせようとするので、それはあまり気持ちのよいものではないなと思っています。

表現の場に立つときには最後は自分一人です。自分で何が良いか悪いかを軸を持って高校を卒業して欲しいと願っています。

その意味では自分は学級文庫の本と同じくらいの役割で良いのではと思うのです。

手に取れば役に立つし、手に取らないなら黙してそこにあるだけ。

本当に必要な時に、必要とされるような役割でよいと思うのです。

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