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世界的クリエーターを目指したら、障害者になってしまった私の履歴書 <下>

2021/8/13締切の「#私らしいはたらき方」に応募するつもりで書き始めたシリーズの最終回。前回公開した<中>は、思いのほか多くの人が見てくださり、驚いた。どうもありがとうございます。

前回は、社会性に難のある私が、世界的に認められたくてWEB制作の道に進み、時代のうねりの中で紆余曲折したあげく、とうとう限界を迎えるまでの約18年を紹介した。

今回は、どん底で生き直す決意をし、障がい者として就職するまでの道のり、そして現在に至るまでを、前回同様フェーズに分解して綴っていく。

41歳-42歳:無職を転機に生き直しを図ったフェーズ
42歳-44歳:障がい者として働き出したフェーズ
44歳〜:withコロナで本来の自分が蘇りつつあるフェーズ

そして、なぜ私の『#私らしいはたらきかた』が「自分の身の丈に合った夢や目標の実現を目指す」なのか、で締め括ろうと思う。

なお文中の普及率は、総務省のデータを参考にしている。

●Phase5-無職を転機に、生き直しを図ることにした。

1999年から2017年の18年間で、国内のインターネット普及率は約12%から約83%まで拡大した。
Web業界はニッチからメジャーに進化し、ビジネスでの効果的な活用は当たりが付けられるほどに成熟した。Webでのコミュニケーションも、私の言葉で表現するなら「一方的な伝達」の対極にあるような「対話」「パーソナリゼーション」を重んじるのがお作法になり、誰もが発信者であり受信者となりうる潮流が当然とされるようになった。

特に2015年以降は、スマートフォンの普及率が70%を超えたり、「動画元年」と囃されたり、時代は大きく変わった。

あくまで私の印象だが、2015年を皮切りに、動画プロモーションやアプリの開発に積極的な企業が増えた。そのため業界での、web制作の位置付けや歓迎されるスキルが、大きく変わっていったように思う。

5-1.再び無職に─Web制作者としての限界

無職になった私の脳内には、行き詰った場面が次々と蘇り往来していた。
習得してもすぐに古くなるスキル。追い詰めてくる納期。裁量労働制が押し潰す生活リズム。職場の長時間拘束が生む人間関係の摩擦。揺さぶりかけてくる心身の不調・・。もう働けないと強く感じた。Web業界への迎合をやめようと思った。

思えば、2013年のD社退社以降、誘われれば言われるままに働いたが(2社には申し訳ないが)そこに私のビジョンはなかった。職に就きたいくせに、全く新しい人間関係が怖くて、それを回避するためにズルズルと流されただけだ。全く知らない人に囲まれると社会性が乏しい私は何かしら萎縮して、慣れるまで厄介者として扱われる(ように感じる)苦痛を味わいたくなかったからだ。

5-2:41歳の大きな決断─障がい者として生き直す

この章は、『病気や怪我から回復しつつあり、再就職を視野に入れ始めた読者』のお役に立てるようであれば本望である。

時間が有り余る中、自分に立ち返ろうとするも、無くしたものばかり目に付き、前途を思い描くことができなかった。
今思えば、良くも悪くも仕事に翻弄されるばかりの人生だったので、必然的とも言え、対象喪失の状態だったかもしれない。

そんな折に、たまたまYahoo!ニュースで「働く精神障がい者」のルポが目に入った。厚労省が定める障害者雇用義務の対象に、2018年4月精神障害が加わることに先駆けた特集記事だ。


記事の前半には、精神疾患で仕事に挫折した「渡邊さん」が、就労移行支援事業所に通い、障害者枠で再就職したことで、周囲の理解を支えに前向きな気持ちで働くようになったエピソードが描かれている。

就労移行支援事業所とは、「障害者向けの就職予備校」のような福祉施設である(私の解釈であり、語弊の余地は認める)。
私は「渡邊さん」をきっかけに就労移行支援事業所や企業の障害者雇用義務について知った。ありがとうYahoo!ニュース。

「渡邊さん」に自分の姿が重なった。私も就労移行支援事業所に通えば、働く気が起こるかもしれないと直感し、とある事業所Fに面談を申し込んだ。
Fを選んだ理由は、ハローワークの近くにあり、ハロワ通い(失業手当の受給手続き)と通所の両立に好都合と考えたためである。

5-3.就労移行支援事業所Fに入所─障がい者としての初めの一歩

2017年4月、Fの所長と面談し、これまでの経緯を話したり、不安や疑問をぶつけたりした。一番の不安材料は42歳という年齢である。
健常者では転職が厳しくなるはずの40代でも就ける仕事があるのか問うたところ、障害者枠では年齢はあまり気にしなくて良い旨の回答が得られたので、心の迷いが消え入所を決意した。年齢的にゆったり通所している余裕はないということであれば、考え直したであろう。

所長の手引きで、福祉サービスの受給手続きのため、初めて役所の福祉課を訪ねた。保健師に自分の身の上を話すうちに、一人で抱え込んでいた故の辛さに気づき、少し心が軽くなったものだ。

私のように社交性が乏しいと何でも一人で抱え込みがちだ。
生きづらさを感じているなら、どうか早めに適切な機関の適切なプロフェッショナルと繋がってほしい。その手のプロにとって、他人の困りごとは飯の種なので、遠慮せずに状況を話すといいと思う。

体験入所を経て、晴れて通所が決まった。

雑居ビルの狭い一室を事業所に構えるFは、多い時で定員30人弱が詰め込まれる居心地の悪い空間で、私はその環境に慣れるまで、塗り絵をして過ごした。
利用者達は、年齢は10代から50代と幅広いが、共通するのは健常者と同等に働くのに困難を抱えている点だ。
引篭りからの一歩を踏み出した実務経験のない同年代の人。生まれながら大きな病気を抱えた若者。事故でそれまでの日常を奪われた人。親に入所させられた不満を力士並みの体格で喚き散らす人。
それぞれ一般化しようがない、その人だけの人生が色濃く垣間見えた。

Fにはプログラムとして、教科書を使って社会人のお作法を学ぶ座学と、パソコン操作や軽作業に取り組む「訓練」の時間が用意されていた。
障害者枠の仕事内容は、おおよそ事務系と作業系に偏っているので、「訓練」は採用側のニーズに寄せた内容となっていた。

プログラム

最近では、特定の分野(ITなど)のスキルアップを目指せる就労移行支援事業所も増えてきている。障害があって、就きたい業界や職種が決まっているなら検討されたし。

5-4.ハローワークに入り浸る─障がい者向け求人とは?

Fの帰りに、度々ハローワークの障がい者向けのフロアに通い、実際にどのような求人があるのか探っていった。求人は、アルバイトや契約社員に準ずる雇用形態が殆どで、正社員はかなり稀であった。

この頃、パソコンのキータッチ音にトラウマ反応があり、パソコンを使う仕事を避けて、容器を洗い続けるとか、10Kg程度の箱を運び続けるとか、そういった作業系に絞って求人を見ていた。収入が下がる覚悟はできていたが、大概が自立した生活を望めない賃金であった。

顔を覚えてくれた親身な職員から、作業系より事務系のほうが収入は望めるし、パソコンの実務経験を殺すのは勿体ないと説得された。このことをきっかけに、かかりつけ医のもと認知行動療法を始め、4ヶ月ほどでパソコンに触れるようになり、徐々に心境が変化し「これまでの経験が生かせれば」と思えるまでになった。

5-5.自分と向き合う─私にとっての社会的な障壁とは?

Fでの学びで良い機会となったのは、職場での自分の弱点を整理して明文化できたことだ。

ここまでお付き合いいただいた読者は「合理的配慮」をご存知だろうか?
2016年に施行され、2021年に改正された「障害者差別解消法」では、事業主に対して「合理的配慮」の提供を義務付けている

職場での合理的配慮とは、「働く上で障壁となることを取り除くことと私は捉えている。
例えば、耳が聞こえない人に電話番を強いる職場があったら、多くの人が違和感を覚えると思う。このように(とある人の言葉を借りれば)「障害が剥き出し」だと、周囲は理解や配慮がしやすい。
一方、他人から見えない障害(内部障害・精神障害・発達障害など)であれば、「何に困るか」を理に適う形で説明し、周囲の理解を得る必要がある。

精神障害者としての私は、これまでの社会人経験で「⒈人間関係構築に難がある」「⒉疲れると感覚過敏が強くなる」「⒊ゴールの見えない話(雑談)に不安がある」「⒋人の物理的な存在感が怖い」が弱点と自己分析した。これらのうち複数が重なると、心身の不調が現れやすい傾向も見えてきた。
このように弱点を整理した上で、自分なりの配慮事項をまとめた。

5-6.いざ、就職活動─より良い生活を目指して

Fでは、支援スタッフたちの判断で、就職活動に本腰を入れるタイミングが決められた。6月に障害者手帳を取得した私は、晩夏には就活を始めていた。
私は「決まった時間に起床・始業・終業・就寝しやすい仕事」を探すことにした。自身の世話と仕事の両立を望んでのことだ。
仕事探しは、ハローワーク、東京しごとセンター*、専用のエージェントや求人サイト、Fにある求人、Fで募集する職場見学会、思いつく手段を片っ端から活用していった。

東京しごとセンターは、東京都の公益財団法人「東京しごと財団」が設置した就業支援サービスである。都民や都内で仕事を探す人はチェックすべし。
https://www.tokyoshigoto.jp/
(当時の印象としては、障がい者採用情報は少なかったように思う)

履歴書や職務経歴書は、Fのスタッフ・人材会社の人・ハローワーク職員のフィードバックを取り入れて、概ね完成させた。さらに、人材会社が行う合同面接会*にたびたび参加し、15社以上と面接して自分の書類で突っ込まれやすい部分を見つけ、調整していった。

*私が参加した合同面接会は、以下の求人サイトの催しと記憶している。

合同面接会で各社の採用担当者と話すうちに「障害者採用」の捉え方・考え方が一様でないことに気づいたWeb上の会社案内や求人から窺い知れなかったことだ。

合同面接会で面接の場数を踏むうちに、無駄な緊張が生じにくくなったり、身嗜みに慣れてきたり、たとえ結果に結びつかずとも成長する実感があり、前向きに取り組めた。

5-7.内定ゲット─理解のある職場との出会い

結論からいうと、約半年間の就職活動の末、初めての内定をいただいた。
30社以上応募して、1次選考を通過したのは4社である。
障害者枠の場合、スキルに加えて配慮事項が受け入れてもらえるかも採用基準になる。

4社の選考結果は以下のとおりだ。いずれも障がい者向けのアルバイトや契約社員といった非正規の募集である。
※以下の()内は求人の出どころで、いずれも障害者向けのサービスである。

①飲料メーカー(求人サイト):
オープンポジションの募集で、オウンドメディア更新作業を志願し二次選考へ。面接時に「ワンフロア約400人の"すし詰め"の職場」の事実が明らかになった。人の存在感を恐れる私に合わないと判断され不採用となったが、納得のいく結果である。

②B2B機器メーカー(人材会社主催の合同面接会):❌
人生で最も脈を感じない2次面接で、不採用通知すら無かった。1次選考担当者と2次面接担当の間に温度差があった模様。

③某大手老舗企業(ハローワーク合同面接会):⭕️
事務職に分類された「Web業務(イントラネット)」への応募。
ハロワ職員の「少なくとも書類は通る」との予言が的中し、2次面接を経て内定をもらう。

求人

④B2C卸売企業(F→東京しごと財団主催実習面接会:🔺辞退
③の内定が出た翌日、1次選考通過の知らせが来た。PhotoshopやIllustratorの実務経験が評価された模様。

****

2018年2月には失業手当も切れ、3月末に結果が出なければ身の振り方を考え直そうと思いはじめた段で、③が4月入社であったことから就職を決めた。
ずっと親身でいてくれたハロワ職員から、「③は障がい者採用に慣れている企業なので、安心して働けるはず」と背中を押してもらった。

この職員は、お勧めの求人があれば電話で教えてくれたり、ハロワ以外の求人に応募する書類を添削してくれたり、大変協力的でお世話になった。
もしハロワを利用していて、当たりが強いなど不快に感じることがあれば、積極的に職員を乗り換えてみて欲しい。間違えてもハローワーク自体を見限ってはならない。

5-8.Fを晴れて卒業─利用して良かった!

Fの最初の印象は、正直なところ「とんでもないところに来てしまった」というものであったが、いつの間にか利用者に同志としての親しみを持つようになっていた。
年齢・経歴・障害の種類は問わず、誰かが内定を貰えば自分ごとのように嬉しかった。珍しい趣味や特技、知識を極めている人もいて、話を聞くのが楽しかった。私の経験してきた摩擦だらけの人間関係とは違い、癒されることもあった。Fで過ごした時間は、仕事で生き急いできた自分を見出す貴重な体験になった。

●Phase6-障がい者として働き出した。

2018年4月に、某大手老舗企業の人事部に障害者枠で入社した。通勤や環境に慣れるための期間が数ヶ月用意されていたので、私が恐れていた「入社後即プロジェクトに投入される」ことはなかった。この点は本当に障害者枠にして良かったと思う。

予め了解して入社したが、月収はこの会社の新卒の2/3程度で、私が頂いていた失業手当より安かった。生活水準の見直しが必要になったが、生活できないほどではなかった。
幸い入社1年目にして、上司が私の仕事ぶりを評価して、前任の派遣社員(健常者)の水準まで給与を上げてくれたので、少し豊かに暮らせるようになった。

この上司は、私が聴覚過敏に悩まされていた時、より人口密度が低い席に変えてくれたり、折々で潔い判断をしてくださったので、私はかなり救われた。かくして、上司の理解や専任のジョブコーチに恵まれ、私は時折不調に見舞われながらも、仕事のモチベーションを維持できていた。

そして、無事に勤続2年を迎ようとしていた。

6-1.withコロナで始まった在宅勤務

2020年が始まり、暫くしてCOVID-19が日本でも広がり始めた。
2月中旬、社内では時差通勤が推奨され、段階的に在宅勤務への切り替えが始まった。

私は過去に在宅勤務の経験があり、時間管理の難しさを痛感していたので、ギリギリまで出勤を希望した。しかし、3/31に社内初の罹患者が出たのをきっかけに、4月から在宅勤務を強制された。

内心困ったが、就寝/起床・始業/昼休み/終業の時間をアラームで管理して、勤務時間外は会社のパソコンに触らないルールを敷くことにした。このルールを守る生活は、通勤電車に揉まれるストレスに比べたら大したことがなく、現在も維持できている。

何より、在宅勤務では上述の私の弱点「⒈人間関係構築に難がある」「⒉疲れると感覚過敏が強くなる」「⒊ゴールの見えない話(雑談)に不安がある」「⒋人の物理的な存在感が怖い」の1、4に悩まされて疲れることもなく、2、3も起こりづらい利点があった。加えて、パソコンを広げるスペースのある一人暮らしの住環境が追い風になって、より充実した仕事ができるようになった。

6-2.本来の自分が見えてきた。

これまで、私の「人の物理的な存在感が怖い」という感覚が、普段の生活にどれほどの影響を与えているか、具体的に知ることはなかった。物心ついた頃から対人緊張はあったものの、人里離れて暮らす機会がなかったからだ。

しかし、COVID-19の三密回避や会社から命じられた在宅勤務で、初めて周囲の人々に萎縮しない自分を知ることができた。この萎縮のせいで、やり損っていたことも次々と見えてきた。いわば、より内界で暮らすことに安心感があった。

私の職場では、COVID-19収束後に在宅勤務を続けるか否かを、まだ決めていないようだが「働き方」が許されるならそれ以上のことはない。

●終わりに

私のかつての主治医は、「社交不安は慣れで改善する」と、習い事やイベントへの積極的な参加を勧めた。
私の周囲で成功して(見え)る人達は抜きん出て社交的だった。だから私も成功のために自分を変えようと、飲み会やボーリングやカラオケやバーベキュー、それに音楽教室や絵画サークルなど、諸々参加した。
場数を踏んで、人付き合いを少し学んだ気がするが、「慣れ」で超えられない壁や、変えられない自分にも気づいた。
人の集まりから徹底的に遠ざかるのではなく、お金を払ってまで場数を踏む努力をした自分は評価したいと思う。ただ今思えば、自分を変えようと足掻くより、自分なりに考えて出来ることを頑張れば良かった。

振り返れば、世界的に活躍して周囲を見返そうとガムシャラに働いたのに、障がい者になったのは、自己分析が足りず、生じる無理に目を背け、身の程を弁えなかったり頑張る方向を間違えてたり、それが原因だったように思う。

そんなふうに反省しつつも、現在の私は、障がい者としての自分を受け入れ、仕事は生活の一部として程々に頑張り、体調を優先するなど自身を大切にして、自立した生活を送れているので、それなりに幸せだ。
欲を言えば、現在の会社は制度上キャリアアップが望めないので、障害者の社員登用制度がある企業への転職を目指してみようかな、などとも考え始めている。

等身大の自分を認めて、手を伸ばしたら届くかもしれない目標を立てる。私が自然体のままで幸せを感じられるよう、考え直した「生き方」である。
仕事でも、自分の身の丈に合った夢や目標の実現を目指して「私らしいはたらき方」ができれば、この先の人生が充実するのでは、と考えている。

<完>

サポートいただけたらとてもとても心強いです。