見出し画像

世界的クリエーターを目指したら、障害者になってしまった私の履歴書 <中>

2021/8/13締切の「#私らしいはたらき方」に応募するつもりで書き始めた。しかし、作業中に思いのほか感情的になり、中断したり書き直したりを繰り返していたところ、締め切りが過ぎてしまった。
投げ出すのは不本意なので、遅まきながら公開する。

前回は、強すぎる対人緊張でハードモードな子供時代を過ごしてきた私が、「一方的な伝達能力」に自身の強みを見出し、広告業界で働こうと決心した23歳までを紹介した。

今回は、広告業界を目指す道から逸れ、WEB制作者となり、離職するまでの約18年間のあゆみを4つのフェーズに分解して綴っていく。

23-26歳:目指す業界を転換して、感謝される悦びを知ったフェーズ
27-33歳:頑張れば何者かになれると盲信していたフェーズ
34-38歳:2軍から這い上がれず、自分の身の丈を知ったフェーズ
38-41歳:自分が築いたコネクションで食い繋いだフェーズ      

人並みの社会性を身につけずに社会に出た私が、どのように世渡りして、何に蝕ばまれたり躓かせたりしたのか、時代背景や仕事内容を交えて紹介する。

なお文中の、インターネット普及率は総務省のデータを参考にした。

***

●Phase1-目指す業界を転換して、感謝される悦びを知った

勤め口が決まらないまま既卒となり、職探しが一層難しくなった。1999年当時は、既卒/実務経験なしで応募できる求人*は限定的だったからだ。
学生時代のコネで得た、CD-ROM制作会社や中堅の出版社で簡単なバイトをしつつ、CMやグラフィックなど広告制作関連の求人を探しては履歴書を送っていた。

✳︎2010年以降、既卒3年以内なら新卒採用に応募可とするよう、厚生労働省が企業に働きかけている(リーマンショックを受けてのことであろう)。
そのため、現在の新卒採用は大きく様変わりしているはずである。

1-1.広告業界からWeb業界への方向転換

難航する就職活動と並行して、藁にもすがる思いでマドラ出版主催の「広告学校」を受講した。「広告学校」は平たく言うと、第一線の広告クリエーターが、課題を出して添削してくれたり、仕事の裏話を聞かせてくれる塾である。ここで私は、カンヌライオンズ(グローバルな広告賞)の存在や、大手広告代理店がもつ社会への影響力を知った。併せて、大学時代にうっかり最終面接まで進んだ、X社の業界での存在感も知ることとなり、1年前の自分の準備不足が悔やまれた。

ところである時、大手広告代理店・電通のデジタル領域の新設部門のリーダーに就任したばかりの杉山恒太郎氏の登壇があった。その年のカンヌライオンズの体験談を中心とした講演で、「1998年にカンヌライオンズにサイバー部門が発足し、カンヌライオンズではテレビ・ラジオや新聞・ポスターは"Old Media"と呼んだりする」とサイバー部門の受賞作のバナー画像などをスライドに映しながら語っていたと記憶している。

私はこの講演に甚く傾倒し、「Web制作で力をつければ将来的に、カンヌライオンズで受賞したり、大手広告代理店X社などに中途採用してもらえるかも」と皮算用した。目指す業界をWeb制作に転換した。

当時の私は、子供時代に愚弄された痛みと共に生きていたので、社会に影響力のある存在になって、周囲を見返したいと強く思っていた。

1-2. 始めての就労─実務経験3ヶ月で他社に出向

Web制作の職探しでは、ネットバブル期だからか新興産業だからか、割りに実務経験を問わない求人があり、活動開始2ヶ月後の1999年10月に仕事が決まった。ちなみに国内の当時のインターネット普及率は約12%である。

初めて採用通知をくれた創立約3ヶ月のA社に入社を決めた。自分を含めデザイナー2人、プログラマー1人、事務1人、営業2人+社長で、主に中小企業の顧客対応と自社サービス開発を行なっていた。

驚くことに私は入社3ヶ月で他社への出向が決まり、新規事業プロジェクトチームの一員となった。お客様の要件を正確に押さえて、その時の精一杯で対応すれば、感謝してもらえる確率がかなり高いと実感した。黎明期の業界では、仕事を自己流で進められる自由度があり、独りに強い自分の追い風になった。
仕事で必要な対人能力は友達関係で求められるそれよりシンプルだと思った。感謝される心地よさに目覚めて、だんだんと仕事にハマっていった。

また、私も同僚も顧客も「パソコンやインターネットに関心のある」人々であり、世間的には少数派だったので、仲間意識が育ちやすかったように思う。

さて暫くして、私が社内の営業担当や複数の顧客と良い関係になり、完全に仕事中毒となったころ、社長が希望退職者を募り始めた。
顧客から出資を受け、人員を増やしたが受注は増やせず、経営のバランスが崩れたように伺えたので、次の勤め口と退職を決めた。
在籍期間は1年半と短かったが、いきなり現場に飛ばしてくれた経験は何事にも変え難く、A社には文字通り感謝している。

***

●Phase2-頑張れば何者かになれるのか?答えは…初の精神科受診

退社後すぐ、B社に入社するも試用期間中に辞めた。私も採用側も急いでいて、明らかなミスマッチが発覚したからだ。たとえ切羽詰まっていても、転職活動は丁寧に行うべきである。
再び無職となるも、A社で協業した開発会社C社から声がかりバイトが決まった。加えて「広告学校」の再受講と職探しに励むことにした。「広告学校」では有名コピーライターから表彰していただき、「一方的な伝達能力」が強みであると再認識した。

2-1.X社への執念で入社した子会社─初日から躓く

職探しの道半ばで「実務経験は0ではないし、大手広告代理店X社で中途採用があるなら応募しよう」と思いつき、「X社 中途採用」でググるとX社の子会社の求人があった。何より「X社」が含まれる企業名に興奮し、迷わず応募した。A社で担当した有名誌の仕事が評価され、デザイナーとして入社する。2002年のことだ。
X子会社は40名強のWeb制作会社で、主な業務はX社が受注したweb案件の下請けだが、社長や役員はX社からの出向者であり、カンヌライオンズで受賞も果たしていた。
私が散々妄想してきた「Web制作で力をつければ将来的に、カンヌライオンズで受賞したり、大手広告代理店X社などに中途採用してもらえるかも」が実現しそうに思えた。

しかし入社日に、いきなりの団体行動で子供時代がフラッシュバックしてしまう。
社長命令で、10数名ほどの配属先チームでX社に行き教室サイズの会議室でメディア機器メーカーの売り込みを聞くことになった。
売り込みが終わった後、X社内のカフェで簡単なチーム親睦会の流れとなった。同日入社の女性は皆に囲まれているのに、私は輪に入れなかった。その後本社からX子会社に徒歩で戻る時も、やはり私は一人になってしまう。この一件で、子供時代の不安が蘇ってしまい精神科を初めて受診する。

仕事に打ち込める程度に慣れるまで半年ほど要した。同僚はA社で出会ったような「パソコンやインターネットに関心のある」というより、イカしたクリエイターとして活躍したい人種が多かったように思う。人生の歩みファッションや小説家や映画監督や音楽の好みに共通点を見いだし、分かち合えると気付いてからは遅い青春のように楽しく過ごした

ただし働く環境は劣悪で、誰もが常に複数の納期を抱えて拘束時間が長かった。心身に何かしら不具合を抱える人が少なくなく、夜中に救急車が来る事態もあった。今思えば、X社のネームバリューで寄せ集めた、イカしたクリエイターを目指す若者の「やりがい搾取」が常態化していたかもしれない。

私も例に漏れず、入社3年目にはメンタルの不調・胃腸の不具合・口腔環境の悪化が目立ち、諸々の医療機関で散財する羽目になる。一番困ったのは感覚過敏の深刻化で、会社で業務を行うのが困難になっていった。加えて、X社からの出向だった部長が退職し、X社と無縁の中途採用者が就任し「大手広告代理店X社に中途採用される」かもしれないパイプが失われたことが決定打となり、退職に至った。

X子会社はブラック企業と格付けされそうだが、実際はグレーだ。
Web制作の現場は「専門型裁量労働制」が導入されていることが多く、労働時間は限界まで伸びたり、生活が不規則になったりしやすい。
※専門業務型裁量労働制の詳細は、厚労省のサイトを参照されたし。
※X子会社の実名が分かっても心に秘めておいてほしい。

2-2.再び無職に文字通りの燃え尽き症候群

退社後は通院しながら、派遣社員をしたり、元同僚の転職先に出入りしたりと、心が折れて迷走していた。仕事の動機づけの「Web制作で力をつければ将来的に、カンヌライオンズで受賞したり、大手広告代理店X社などに中途採用してもらえるかも」という期待は現実的でないと痛感したからだ。
社会に出るまで、死ぬ気で物事に取り組んだことがなかった私は、29歳にしてようやく努力や頑張りは必ずしも自分の期待通りには報われない現実を知った。

2-3. WEB系D社に入社─初めから無理を感じた日々

2005年、気力も体力もイマイチだったが、家賃の引き落としに経済的な危うさを感じ始め、顧客へのWEBサイト構築やリニュアルの直提案を強みとして、海外の広告賞の受賞歴のあるD社に入社を決めた。面接時に、社内でデザイナー以外(≒ホワイトな職種)への転向も可能であるような説明を聞いたのが決め手になった。制作への熱量が冷え始めていたからだ。

国内の約65%にインターネットが普及し、業界ではWeb2.0がもて囃された背景もあり、D社では華やかで上昇志向の人が存在感を放ち、A社やX子会社で出会ったような人種は少数派だった。Webが世間でメジャーになるにつれ、業界で働く人種の幅が広がっただけだと今は思うが、少し苦手な雰囲気だった。
入社後、強い緊張から再び感覚過敏に悩まされたが席替えの配慮があり、業務をこなせるようになった。

席替えを奨めた機転の効く上司とは、現在も細く長く付き合っている。

D社では、顧客との定例会の準備と参加・実制作・協力会社等のハンドリングの実務に加え、社内の打ち合わせも形式的にたくさん行われるため、拘束時間はX子会社と同等かそれ以上だった。再び私は心身の不調に陥り、一旦止めていた通院を再開する。

長い拘束時間といっても、私は業務より同僚と長時間過ごすのが何より辛かった。私のコミュニケーション特性は、例えるなら顧客にゴールを明示した上でのプレゼンは問題ないが、同僚とプレゼン会場に向かう際の雑談が苦痛になる。顧客との信頼関係より、同僚との関係の構築に悩まされた。特にD社では、タバコや酒を嗜まないと情報弱者になる傾向があり、なるべくイベント等に参加したが、慣れでは超えられない対人上のハードルを見いだしてしまう。改めて、人付き合いに躓いてしまった。

子供時代から友人関係を築く機会もなく、恐らく人間関係で踏んできた場数が平均的な人々より圧倒的に少ないので、対人スキルは低くて当然ではある。

***

●Phase3-休職生活と、2軍から這い上がれない苦悩

2009年の秋、仕事での異動と家の引っ越しが大きな負担となり、体が全く動かなくなった。うつ病と診断され休職した。

一人暮らしの自宅療養は孤立しやすく危険を感じた。闘病中の読者には、どうか他山の石としていただきたい。
下の画像は、復職から4ヶ月後の人間ドックの結果(汚くてスミマセン)。

検査


半年後、療養は十分でなかったが、D社のルールに従って復帰する必要があった。顧客担当の人が休職明けに事務職に転じた前例があり、私もそれを望んだが人事が許さなかったので、制作の雑用係として短時間勤務からスタートし、少しずつ慣らしていった。

翌年だったか、組織の改変に伴い、私の在籍するチームごと子会社に出向が決まった。これまでも環境の変化は精神的な重圧になってきたが、この件で私は過去最大の不調に陥った。
日ごとに、子会社のお荷物になってしまい、仕事が回ってこなくなった。状況を判断することすら難しくなり、やんわり肩たたきに合って退職が決まった。2013年末のことだ。

***

●Phase4-自分が築いたコネクションで食い繋ぐ

退職後の私はめちゃくちゃだった。6桁の金銭トラブル(回収済み)、あずきバーが中心の食生活、気づけば無駄に購入した物とゴミだらけの部屋、おそらく俗に言うセルフネグレクトに陥っていた。暫く休養するつもりで、Facebookのステイタスを「無職」とした。

4-1. 元同僚の誘いでジョブホッピング2社

年が明けて2ヶ月しないうちに、大手企業の系列会社勤務の元D社同僚から「新規事業に携わることになったが制作担当がいない。無職なら是非来て欲しい」とFacebookを通じて連絡があった。躊躇ったものの、断る気力を持ちあわせておらず、言われるがままに非正規で入社した。

同僚は若者ばかりで年齢的に気後れはするも、却って居心地は悪くなかった。部長さんも私の仕事に一目置いてくれたりもしたが、睡眠障害が隠しきれず(当然ながら)周囲からクレームを受けたりもした。
晩秋、事業が伸びない空気の重さが身に染みてきた頃、E社を経営する元A社同僚からの正社員雇用の誘いがあった。

E社は自転車操業の零細企業であったが、1から人間関係を築く必要がないことは魅力的だったので言われるがままに転職を決めた。

社交的でなくてもそれなりに人脈はできるが、社交的なほうが人脈を築くチャンスが圧倒的に多い。人脈のために、己の社交性に見合わない無理な付き合いをするのは誤りだと考える。人脈とは結果のようについてくるからだ。

4-2. 父の死・転院・勤務先の解散

E社は自社サービスとして、ウェブサイトやスマホのネイティブアプリを展開していた。在籍2年目に父の死に遭遇し、精神的に混迷を極めた私は睡眠薬をオーバードーズした。この件で医師に叱咤され、救われない気持ちが強まり、2度目の転院をした。
転院先のサポートで生活を立て直す気持ちが芽生え始めた頃、タイミング悪くE社の解散が決まった。2017年3月末、再び無職になった。

<続く>

サポートいただけたらとてもとても心強いです。