「山水経」メモ④
「青山すでに有情にあらず、非情にあらず。 自己すでに有情にあらず、非情にあらず。」
「青山」はまったく有情ではないし、非情ではない。自己もまったく有情ではないし、非情ではない。
「有情」とは人間や動物などの感情を持った生き物のこと、「非情」は山川草木などの感情を持っていない生き物のことをいうが、法身である「青山」はそのような人間の考えた分類には当てはまらない。ということは同時に、自己も本来そうした分類で定義することなどできない存在なのだ。
「いま青山の運歩を疑著せんことうべからず。いく法界を量局として青山を照鑑すべしとしらず。」
今、「青山」の歩みを疑おうとしてもできない。かといって、どれだけの世界を量の区切りとして「青山」を照らし合わせて考えてみたらよいのかも分からない。
「青山」が自己の正体であるということは、その歩みを疑うことは自己を疑うことになる。だから疑おうにも疑うことができない。かといって、われわれが現実だと思っている人間の世界観を基準にして「青山」を考えようとしても分かるものではない。ではどうしたらよいのか。
「青山の運歩および自己の運歩、あきらかに撿点すべきなり。退歩歩退、ともに撿点あるべし。」
「青山」の歩みおよび自己の歩みを明らかに点検すべきである。「退歩」(退くことが歩みである)と「歩退」(歩みとは退くことである)、その両方の視点からの点検があるべきである。
道元禅師はよく子細に点検せよという。「点検する」というのは、自分自身のありようをあるがままに観ずるということ。それは自分というものを対象的にあれこれ分析したり考えたりすることではない。そうした分別をすべて手放して、自己に立ち返ること、すなわち坐禅である。
回光返照の退歩
道元禅師は坐禅のことを「回光返照の退歩」を学ぶことと言っている(『普勧坐禅儀』)。「回光返照」というのは、自己の光(意識)を外側ではなく、自己の本源に向けること。『普勧坐禅儀』では以下のように言う。
「諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管すること莫れ。」(もろもろの対象を放ち捨て、かかずらっているすべての物事を休息して、善悪を思わず、是非を心にかけることをやめなさい。」
人間の自我意識はどうしても外側に何かを求めようとしてもがく。そしてつかまえたものを善悪や是非の二元性によって判断しようとする。が、外側にいくら何かを求めてみても、結局、大事なものは何ひとつ得られない。本当に大事なものはすべて自己(「青山」)に備わっているからである。自己はそもそも善悪や是非の二元性を超えている。だから、外側に求めることを一切やめて、自己に立ち返るしかない。それが外側から「退く」ということである。そして、そのことが同時に「青山」の歩み(=自己の歩み)と本当につながることなのだ。
「歩く」というと、どこか今とは違う場所へ向かうという趣きがあるけれども、そうではなく、〈今、ここ〉へ帰ることが「退く」ということであり、その「退く」ことが本当の「歩み」でもあるのだということ。その「退歩」を自己の身心を通して学ぶことが「回光返照の退歩」を学ぶということである。
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