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「不染汚」について

 「染汚」(「ぜんま」「ぜんわ」)とは聞きなれない言葉ですが、禅の語録などにはよく出てきます。いわゆる煩悩のことをいいます。これについて考えてみたいと思います。


貪瞋痴の三毒

 煩悩は煎じ詰めれば三つにまとめられます。すなわち貪瞋痴です。
「貪」(むさぼり)と「瞋」(いかり)は、執着心や感情的な怒りのことだけではなく、広い意味で「好きと嫌い」「善と悪」「是と非」などの二元的な判断・反応を意味します。「痴」(愚痴)とはそういった二元的な判断・反応が引き起こす苦しみに対しての自覚がないことです。
 つまり自我による二元性が煩悩(染汚)のすべてであるといっていいと思います。「染汚」には「汚」という字がありますが、これは人間的な分別における「汚い」ではありません。人間的な分別での「清い」「汚い」はそれ自体が分別ですから「染汚」になります。
 二元的な分別が色眼鏡となって、あるがままの真実を歪めてしまうということを「染汚」というのです。

ただ嫌揀を嫌う

 三祖僧璨大師による『信心銘』の冒頭にはこうあります。

「至道は難きこと無し、唯揀択を嫌う。只憎愛無ければ、洞然として明白なり」

 仏道の究極(=至道)は難しいことではない。ただそれは揀択(二元的な分別)を嫌うのだ。ただ「憎い」「愛しい」などの分別がなければ、それはカラリとして明白なものだ、といいます。『正法眼蔵』の「現成公案」巻に「花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」という言葉がありますが、花(=悟り)を愛着し、草(=迷い)を嫌うことも二元的な分別です。
 僧璨大師によれば、仏法は何ら難しいものではないのですが、二元的な分別が入ったとたん道から外れてしまうということです。ですが、われわれにとってこれほど難しいこともありません。というのも、われわれが常識としている世法(=自我による認識)は二元的な分別によって成り立っていますから、その延長で考えるかぎり、どこまでいっても仏道から外れ続けることになってしまいます。仏道(仏法)を二元的な思考で捉えようとしたら、すべて的外れです。

説似一物即不中

 「是什麼物恁麼来」(是れ什麼物か恁麼に来る)という言葉があります。これは南嶽懐譲禅師が六祖慧能禅師のもとに参ずるときに問われたものです。「いったい何ものがこのようにやって来たのだ」、つまり「お前とはいったい何ものなのか」という意味です。この問いに南嶽禅師は八年間、向き合いました。そして悟るところがあり、慧能禅師に言いました。
 慧能禅師「お前はどのようにわかったのか」。
 南嶽禅師いわく「説似一物即不中」(「言葉で説こうとしたとたんに自己の事実から外れてしまいます」)。

言葉の二元性

 「什麼物」とは疑問ではなく言葉で表せられない事実のことであり、さらに「恁麼来」という「今、ここ」で働いている生命そのものです。それが「至道」であり自己の真実です。ですが、それは言葉で説くことができません。なぜなら、自己という”生の事実”を言葉で説明しようとしても、言葉においては、語る主体である「私」と語られる対象である「事実」とが分離してしまいます。したがって、そこで語られている内容はもはや”自己の事実そのもの”ではありません。言葉とは二元性の原理で成り立っているからです。
 先ほど自我による二元性が煩悩であると書きましたが、普段から人は言葉という二元性の世界に無意識に絡め取られながら、そのことに全く気づいていなかったりします(自戒を込めて……)。それが実は最もやっかいな煩悩かもしれません。

本来無一物

 自己の事実である「什麼物」を南嶽禅師は「一物」と表現しています。これは慧能禅師の言葉である「本来無一物」から来ているのでしょう。「本来無一物」、つまり本来「無」である「一物」は決して分離できない事実(=非二元性、ワンネス)です。だから言葉にできません。
 その言葉にできない「無一物」を南嶽禅師は「説似一物即不中」という「言葉」で呈しました(禅では言葉にできない本質のところを言葉にすることを「道得」といいます)。それは南嶽禅師が言葉にできない自己の事実を本当に感得したうえで言ったものです。ですから「禅とは不立文字である」というような抽象的な文句ではありません。慧能禅師はそのことをじかに見てとったのだと思います。禅では言葉にできないところを言葉にして(=道得)初めて師に認められます。

修証一等

 そこで、慧能禅師は「また修証を仮るや否や」(「それならば、そもそも修証など必要なのか」)と問いました。言葉にできない「本来無一物」であるところを修行して証明する必要などあるのかということです。
 南嶽禅師いわく「修証は即ち無きにあらず、染汚することは即ち不得なり」(「修証は無用ではありません。しかし染汚することでは”それ”をつかまえることはできません」)。

 修行して証明することは無用ではない、というより、ぜひとも必要なことでしょう。ですが、修証を「修と証」(修行と悟り)に分断して、自己と分離された「悟り」なる何かを追いかけるような修行をしては永遠に自己の真実をつかまえることはできません。修証は一等(=不染汚)です。「染汚する」とはそれを分断することです。それはもはや仏道修行ではありません。仏道とは自己をならうことだからです。同時に、修証一等だからといって、皆すでに悟っているのだ、と居直るのもまた染汚です。

諸仏の護念するところ

 最後に慧能禅師は言います。
「只是の不染汚、諸仏の所護念なり。汝もまた如是、吾もまた如是、乃至西天の諸祖もまた如是なり」(「ただこの「不染汚」という事実こそ諸仏が護念するところだ。お前も如是であり、わたしも如是、ないしインドの祖師方も如是だ」)。
 「如是」とは「まさにこのようである」という真実、つまり「不染汚だ」ということです。仏道とはこの「不染汚」を参究し、護念していくことなのだといいます。

八正道の「正」

 それは結局、ブッダの教えた八正道のことです。
 八正道とは「正見」「正思惟」「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」です。言うまでもなく、ここでの「正」とは人間的な分別における「正しい、間違い」の「正」ではありません。ときどき仏教をまるで人間的な道徳を教えるものであるかのように語られた言説を見かけたりしますが、これは全くの筋違いです。仏教からすれば「人間」は六道のうちの一つです。ですから人間的な知恵など生死流転するだけのただの迷いにすぎません。まるごと「染汚」です。
 「正」とは「不染汚」のことです。つまり「不染汚なる道」が仏道です。
 八正道のうちの最初の「正見」とは、仏道における「無常・苦・無我(非我)」という見地からものごとを観るということであり、八正道の基本になります。
 
 ブッダはこう言っています。

「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

(『ブッダの真理のことば・感興の言葉』中村元訳)

 「清らかになる道である」というのが「不染汚なる道」ということです。それは「無常・苦・無我(非我)」から見たものであり、人間的な分別(人間的な「清らかさ」「正しさ」)から完全に離れた道のことです。
 世間では「正しさ」を武器に他者を批判するような声で溢れていますが、そういうものはかえって「不染汚」である自分を汚すことになります。他人を批判することで自分を正当化しようとするのが人間の分別心であり、自我の煩悩(染汚)です。
 
 ブッダは言います。

「他人の過失を見ることなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ」(同上)

 仏道はどこまでも「自己」の問題です。他人は関係ありません。

正身端坐の「正身」

 ところで、道元禅師は坐禅を「正身端坐」と言います。
 この「正身」はただ背筋をピーンとまっすぐにして坐れということではなく(もちろんその意味もありますが)、「不染汚なる自己」という意味です。その「不染汚なる自己」に立ち返るのが正身端坐、すなわち坐禅です。
 したがって自我が「悟ってやろう」とか「立派になってやろう」と思って坐っても坐禅にはなりません。そういう自我の計らいをすべて放下して坐らなければなりません。
 道元禅師は坐禅の構えとして「諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管すること莫れ」(『普勧坐禅儀』)と言っています。「善悪」や「是非」などの二元的な分別があっては坐禅にはならないからです。「不思善不思悪の面目」(慧能禅師)が「不染汚なる自己」です。

「いまはまさしく仏印によりて万事を放下し、一向に坐禅するとき、迷悟情量のほとりをこえて、凡聖のみちにかかはらず、すみやかに格外に逍遥し、大菩提を受用するなり」(『辨道話』)

 仏のすがたをとって、万事を放下し、ただひたすら坐禅するとき、「迷いと悟り」などの人間的な分別の世界を超えて、凡夫だとか聖者だとかに関係なく、すみやかに二元性による囚われから脱し、自由自在になり、大菩提を受用するのだといいます。
 誰もが本当は平等に「不染汚」な存在ですから、それを信じて坐っていく、そして教えを学んでいく、そのことが大事なのではないかと思います(なかなか難しいですが……)。

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